降嫁
真っ白な敷布に豊に広がる金糸。
金糸の下から覗く朝日に輝く肌は白く、美しい。
恥じらいながらも微かに上がる色を含んだ声は、艶やかだった。
そして何より――――破瓜の証。
それがあったことにひどく驚いた。
「私は……フレイヴィアス・グランティール、フェイアンでは公爵の地位にある者です」
なんとも間抜けな自己紹介からの始まりにフレイヴィアスは内心頭を抱えた。
唯一凱旋の列から外れ、公爵家へと向かう狭い馬車の中、正面に座った王女はフレイヴィアスの言葉に黙したまま長い睫毛を瞬かせた。
つい11日前に褒美として賜ったこの王女をフレイヴィアスは早々からもて余していた。
――――同盟国であったイーデンが何を考えたのかフェイアンへと宣戦布告をしたのが1年前、フェイアンの侵攻の手がイーデンの王都まで伸びたのか1か月半前。
その王都も陥落しようかという目前、フェイアン王自らエルバータ城へ赴くとの宣下が下り、王の近衛を務めるフレイヴィアスも戦場に立つことを余儀なくされた。
騎士となったからには戦場に赴くことなど当然と考えていたため、異論や不満はない。
人を手にかけることに罪悪感が全くないわけではなかったが、それでも己と尊き王のために幾多のイーデンの者を殺した。
だが、誰が戦に赴いた後――――褒美として王女を宛がわれるなどと想像できただろうか。
制圧された王宮内で、捕えられた使用人の中に紛れていた王太子を見つけ出してしまったのがよくなかったのかもしれない。
見つけ出し、首をはねさえしなければ。
――――そう、フレイヴィアスは王女の兄である王太子を殺したのだ。
そのことは王の口から告げられ、王女も知っている。
王女は、どう思っているのだろう。
己の国を滅ぼした国の人間、何よりも己の兄を手にかけた男のことを――――。
思えばこの王女と顔を合わせるのは、実に10日ぶりである。
王から直々に王女を娶るよう命じられたフレイヴィアスであるが、だからといってあの場ですぐに婚姻を結ぶことはありえない。
フレイヴィアスにはフェイアンに戻るまで近衛としての仕事があったし、王女はフェイアンまで身柄を拘束されていた。
それゆえ、王都に入った途端に凱旋の列から外れて本邸へ直帰するよう命じられたときには驚いたものだ。
王直々の命でなければ理由をつけて拒否するところだが、已むを得ず王女が乗せられている馬車に自身も乗り込み帰宅の途についたのだった。
10日ぶりに顔を合わせた王女は、乗り込んだフレイヴィアスに僅かに目を見開いただけで、それ以上の動きはなかった。
今も淡々とフレイヴィアスをの説明を聞き、時折静かに相槌を打つだけ。
人形のようだった。
「………これから向かっているのは、王宮の東にあるグランティール家の本邸です。私には既に両親もありませんし、もともと兄弟もいませんので誰に気兼ねすることなくお過ごしください」
王宮の東西には貴族街があり、その中でもグランティール家は東の貴族街の一等地に居を構えている。
その建物もフレイヴィアスの祖父が当時のフェイアン王女を娶るに当たって改修したため、どの家にも劣らないものである。
既に祖父母も父母もなく、妻妾を持たないフレイヴィアスにはもて余すほどに広く立派すぎるが、滅んだとはいえ一国の王女を迎えるのに何ら支障はない。
「家財で気に入らぬものがあれば、何なりとおっしゃってくださればお望みの物を用意いたしましょう」
部屋は、王から命が下った後にすぐに使いを出して亡き母が使っていた部屋を整えさせている。
傷んでいる物は取り替えさせているが、趣味が合わなければそれも取り替えることになるだろう。
幸い両親も祖父母も浪費癖はなかったし、蓄えはある。
王女がよほどの浪費家でない限り、困ることはないだろう。
ありがとうございます、と目を伏せる王女はそれ以上は何も言わない。
「……いえ」
フレイヴィアスもまず説明しておかなけれなならないことは、終わった。
もともと寡黙なほうであるフレイヴィアスには気の利いた会話や冗談を言う技術はない。
必然、馬車の中は沈黙が支配し、重苦しい。
これから先のことを思うと、憂鬱で仕方がないフレイヴィアスだった。
沈黙の馬車がグランティール家へと辿りつき、その足を止めたのは夕刻だった。
御者台から降りた従者が扉を開けると、まずフレイヴィアスが外へと降り立った。
邸宅の玄関に家の者が居るのを確認したあと、続いて降りる王女へと無骨な手を差し出すと、真っ白な手が軽やかに乗せられ、中から静かに彼女が出てきた。
慣例通り出迎えに出ていた使用人の多くは王女の容貌に声を失い、礼を失しかけたがすぐさま立て直した。
そんな彼らの中から進み出たのは、父の代から執事を務める男だった。
王女の手を引いたままフレイヴィアスは、執事へと短く帰還を告げた。
執事は主人の様子に嬉しそうに目を細め、
「ご無事で何よりでございます、旦那さま」
頭を垂れるのと同時に他の者が一斉に頭を下げる。
フレイヴィアスは彼らに労いの言葉をかけると、次は王女へと向き直った。
「これが当家の者たちです。何かあればまずあの執事のローグにお申し付けください」
フレイヴィアスの声を受けて執事が王女に頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
王女が執事に小さく頷いたのを確認した後、フレイヴィアスは再び家の者たちへ目を戻す。
既に王女を連れ帰ることは知らせてあるが、これも慣例だ。
「―――この方は、私に降嫁してくださるエリーザ姫であらせられる。失礼などないよう、心からお仕えするように」
フレイヴィアスの簡潔だが反論を許さない言葉に皆先ほどと同じように頭を下げて恭順の意を表した。
それを見届けてからフレイヴィアスは王女の手を引いて邸内へと足を進めた。
「2階に部屋を用意しております。代々の公爵夫人が使っていた部屋で、以前は母が使用していたため気に入らぬ物もおありでしょう。先ほども申しましたが、気に入らぬ物はおっしゃってくだされば取り替えさせましょう」
説明しながら2階へと続く階段へと足を進める。
2階へは邸内にある複数の階段から上がることができるが、これから案内する部屋へは邸内の奥に設置されている階段からしか上がれない。
その説明をしようとしたとき、遮るように王女が初めて口を開いた。
「………あの、フレイヴィアスさま」
口を開きかけていたフレイヴィアスは初めて呼びかけられたことに驚き、足を止めて思わず王女の顔を見た。
大きな緑色の瞳が、どこか困惑したような色を浮かべていた。
「よろしかったのでしょうか………私自身は、この家の方々にご挨拶を申し上げておりません」
「………」
「私は無知ゆえ、婚家へのご挨拶の作法も存じません。ですが、初めて会う方にご挨拶も申し上げないのは失礼に当たるのではないでしょうか」
静かな声で紡がれる王女の言葉にフレイヴィアスは失敗したことを悟って言葉を失った。
確かに王女と使用人との間の身分の隔たりは非常に大きいが、だからと言って頭を下げる者に対して何も返さないのは傲慢であり、愚かなことだ。
それを自分は王女にさせてしまったのだ。
無知はフレイヴィアスのほうだった。
急くあまり失念していたなど言い訳でしかない。
「……ご意志を確認することなく進めてしまうなど、失態以外の何ものでもありません。エリーザ姫、どうかお許しください」
即座に床に片膝をつき、頭を垂れると、目の前の王女の足が僅かに後ずさった。
「おやめください、私はフレイヴィアスさまに謝罪されるような身ではありません」
小さな悲鳴のような声音で言った後、王女もまたフレイヴィアスの前に両膝をつき頭を下げ始める。
「詮無いことを申し上げました、私のほうこそお許しを」
「エリーザ姫、私などに頭を下げてはいけません。あなたはイーデンの王女なのですから」
慌てて王女を立たせ、自身も立ち上がる。
必然己の胸元までしかない王女は、フレイヴィアスを見上げる形になる。
「いいえ、イーデンは既に滅びました。もう私は王女と呼ばれる身分ではありません」
きっぱりとした口調と、強い緑の瞳にフレイヴィアスは僅かに気圧される。
「私はフレイヴィアスさまが敬意を払われるような身ではございません。どうか私のことは、ただのエリーザと」
「それは………では、私にも敬称は必要ありませんので、」
「いいえ、それはできません。私はフレイヴィアスさまに仕える身です」
はっきり言い切る口調と瞳の何と強いことか。
フレイヴィアスは、それ以上の言葉を失った。
――――本当に、滅んだ国の王女であることが非常に惜しいと思う。
強い瞳で見上げてくる王女をフレイヴィアスは黙って見つめていたが、遠巻きに主人たちの様子を眺める使用人たちの姿に気づき、二人は我に返った。
「………案内を続けましょう」
「………お願いいたします」
お互いに取り繕うように言うと、再び足を進めて王女の部屋へと向かった。
階段を上がり、2階の奥へと足を進めると白い扉の前には二人の侍女が控えていた。
主人の姿を見ると、一度頭を下げた後ゆっくりと扉を開く。
途端に飛び込んでくるのは、眩しいまでの赤い光。
大きな窓から差し込む夕日だった。
「ここが使っていただく部屋になります」
真っ赤な色に染まる室内は広く、最高級の調度品で溢れていた。
――――王女がいた、あのエルバータ城の部屋とは比べものにならない。
王女は黙ったまま室内へと目向けていた。
「隣が寝室で、寝室は私の私室とも繋がっています」
つまりは、フレイヴィアスも使うという意味である。
その意味は分かっているだろうが、王女は相槌を忘れて、目を瞬かせて室内を見回していた。
王女の様子に、フレイヴィアスは少し不安になった。
「………お気に召しませんか」
その問いかけに、王女はようやくフレイヴィアスを見上げた。
ふるふると首を振り、
「いいえ、私にはもったいないぐらい立派だと………」
ただ、と言いよどむ。
フレイヴィアスは視線でもって王女に先を促した。
見上げる緑の瞳を少し伏せた後、呟いた。
「考えていたのです」
「……何をでしょうか」
その先の言葉は、フレイヴィアスには思いも寄らないものだった。
そして、困惑以外の何ものでもなかったが、口にした王女自身もひどく困惑していた。
いや、途方に暮れていたというべきか。
「私はこの立派な部屋で………これから何をすれば良いのでしょうか」
答えは―――――フレイヴィアスにも分からない。
しばらくの間、二人は無言のまま見つめ合っていた。
どちらも答えを口にすることなく。
その翌日、式を挙げることも祝宴を開くことも誰かを招くこともせず。
―――――フレイヴィアスは、王女を妻とした。