焦燥
いつも一瞬だけ躊躇うかのように宙に浮き。
それでも決して拒否することはなく、最後には重ねられる白い手。
力を籠めれば壊れてしまいそうなそれがいつからか、自分の中で重みを増した。
その報せを聞いたとき、フレイヴィアスは耳を疑った。
『エリーザが攫われ、行方が知れない』
何の冗談かと聞き返したほどだった。
しかし、状況を告げる従者の顔つきは青ざめ、強張っていた。
本来であれば自分とともに訪れるはずであった侯爵家へ妻一人で向かわせたのは、午前中のこと。
報告によれば、妻は午後過ぎには侯爵家を後にし、その帰途で馬車を襲われたのだという。
護衛や妻につけていた侍女たちは命こそ奪われはしなかったが、重傷を負った者も多数いた。
馬車を襲った者たちは名乗ることも目的を告げることもなく、馬車の中から妻だけを運び出すといずれかへ逃げ去ったという。
あっという間の出来事であり、その手際の良さから無差別に襲ったものではなく、初めから妻を襲うつもりだったのではと報告を聞きながら思う。
ならば何のために妻を攫ったのか。
考えられるのは、イーデン最後の王女である妻を反乱の旗印として使うためか、それともあの美貌に懸想した者の仕業か、それとも―――――。
一つの考えが、フレイヴィアスの思考を支配しかけた。
しかし一つの考えに囚われている暇はない。
いずれにせよ、しなければならないことは決まっていた。
「王宮へ報告に上がる」
従者に指示し、王家に先触れをさせると自分は近衛の制服を脱ぎ、定められた公爵位の衣服へと着替える。
同時に公爵家から王家へと救いを求める嘆願書を作成していく。
貴族は何かと形式や規律を重んじなければならず、普段は特に何も思っていなかったが、それが今はひどくもどかしかった。
手筈を整えながら、フレイヴィアスは思考を巡らせる。
今回は、もともと夫婦二人で侯爵家を訪ねる予定だったが、自分が招集を受けたため取り消そうとした。
しかし侯爵家から妻一人だけでも、と強い願いを受けて迷いはあったが、向かわせることにした。
出かける際、見送る自分に対して
『失礼のないよう、気を付けます』
と真剣な面持ちで言った妻の顔を思い出し、苦い思いが込み上げてくる。
彼女の身が無事でない可能性など、今は欠片も考えたくはなかった。
―――――それにしてもなぜ今日自分に招集があったのか。
以前から申請して取得した休暇とはいえ、王宮から急な招集があれば応じないわけにはいかない。
しかしその招集も、目的がはっきりとしたものではなかった。
ただ簡単な書類の不備を指摘され、その後命じられたのは訓練を受ける後輩への指導だった。
なぜと始終首を傾げながらそれでも命令通りに指導を行い、夕刻には帰宅することができた。
そこで待っていたのが、妻が攫われたという報せだった。
偶然、それが重なったとはとてもではないが思えない。
全くと言っていいほど外出をしない妻が、久しぶりに外出する機会を知り、狙ったとしか考えられない。
一体どこから漏れたのか、自分自身は侯爵家を訪問することを誰かに口にした覚えもないし、外出しない妻から漏れる可能性はない。
ならば相手先である侯爵家から漏れていたのか。
考えたくはないが、その可能性は十分にあった。
では、その漏らした相手はと考えて思いつくのは、限られた者しかいなかった。
『私は諦めない』
あの赤い眼差し、強い意思。
行きつく先は、何度考えても同じだった。
準備が整い、王宮へと上がったのは日が完全に沈み切った時間だった。
王家への取次を頼むと、案内されたのは王妃の私室だった。
まさか王妃に取り次がれるとは思わず困惑した。
案内され、幼いころならば何度か入ったことがあるそこは、数年前と変わらず派手な印象はなく、清潔感にあふれた美しい部屋だった。
そして部屋の主もまた、幼いころから年齢を感じさせない、凛とした美しさを誇る女性だった。
民や臣下からは淑やかで聡明と言われ、その実一筋縄ではいかない王妃は、
「エリーザ殿を攫わせたのは―――――レイナ」
あっさりとフレイヴィアスが抱いていた疑惑を肯定した。
王妃の言葉にやはり、という思いが沸き起こるのを止められなかった。
燃えるような赤い瞳と、あの言葉がフレイヴィアスの中でぐるぐると回る。
もしもあのとき、もっとうまく王女を宥めることができていれば、王女を納得させることができていれば――――こんなことにはならなかったかもしれない。
今、妻が窮地に立たされているのは己の所為以外の何物でもなかった。
そして何の咎もない妻が攫われたことを思えば、同時にそれを実行させた王女に対して苦い気持ちを抱かずにはいられなかった。
それは、初めて抱く想いだった。
かつてはあれほど想っていた王女に対してこれほど複雑な想いを抱く日が来るとはまさか思わなかった。
フレイヴィアスの中で妻が重要な存在となるのと同時に、王女への想いも変わってきていたのだろう。
それが今回のことではっきりと分かった。
今は王女に対して怒りを覚えるよりも、己を責めるよりも、妻のことが心配だった。
イーデンは自ら命を絶つことを硬く禁じ、そしてその戒律を重んじる風潮がある。
それがあるからこそこれまでは、それほど心配はしていなかった。
だが状況が変わった。
王女とともに捕えられ、己の身が妨げになるのならば戒律を破るのではないかと思わずにはいられなかった。
あの妻ならば、ありえないことではなかった。
焦燥ばかりがフレイヴィアスを支配する。
早く早く、と気持ちは逸るが、王妃から聞いたことによれば、計画の実行は明け方だった。
妻たちを攫った破落戸どもは、恐らくは直後は計画の実行と成功に、酔い、気が昂ぶっている可能性が高い。
だからこそ日を跨ぎ、気を緩める明け方に実行することになったという。
破落戸どもは王都の外れにある、手放されてから久しい古い貴族の邸宅を不法に占拠している。
その間取りや相手の人数はほとんど把握され、攫われた二人が居るのは概ね地下室で間違いないことが分かっている。
あとは、闇に紛れて人を配置し、一斉にに突入する。
その場に立ち会わせて欲しい、と伝えると王妃は
「……いいでしょう。計画では王、王妃、王女の近衛を動かす予定ですから、王の近衛であるあなたがいても問題はない」
と頷いてくれた。
王妃から許可をもらい、フレイヴィアスはじりじりとそのときを待った。
王妃からは少しでも仮眠を取るよう言われたが、とてもではないが眠る自信はなかった。
多くの同僚たちが配置につく中、フレイヴィアスは少し離れた位置に居た。
『計画の実行者に含めることはできない』
と王妃から言われたが、妻を案じるフレイヴィアスに多くの者が同情し、邸宅から近い位置に立つことを誰もが黙認してくれた。
近衛とそれ以外の騎士たちを信じていないわけではないが、ただこの目で一刻も早く妻の無事を確かめたいだけだった。
邸宅の外に居た見張りの者をすべて捕え、騎士たちが配置についた。
そして、時期を見計らい、指揮者である王妃の近衛隊長が手を上げる。
それが、合図だった。
四方だけでなく、屋根からも突入する者たちが声を上げる。
古い邸宅は、呆気ないほど脆かった。
ばりばりと屋根が、扉が割れてその用を足さなくなると、中から多くの怒号が響き渡った。
剣を合わせる音、物が壊れる音、悲鳴が聞こえるが離れた場所に居るフレイヴィアスには様子がわからない。
それは逃亡者を出さないために邸宅を囲む者たちも同じだ。
彼らは中から制圧の合図が聞こえるまで、ただひたすらに待ち、逃走を図る者が現れたときのみ動く。
―――――人数は、状況は、人質はどうなっている。
すでに突入してから10分が経過した。
「………」
普段ならばあっという間に感じるその時間が、今はひどく長く感じられた。
中から聞こえる声が僅かに小さくなったようにも感じたが、焦りは大きくなる一方だった。
汗をかく右手を握りしめることで耐えたが。
迷いを捨て、フレイヴィアスはとうとうその場に居ることに限界を感じた。
自分がこれほど、堪え性がないとは思わなかった。
命令に背くことなど、未だかつて考えたことはなかった。
それでも今は――――止まらない。
「フレイヴィアスさま?!」
従者が驚きの声を上げるのも構わず、フレイヴィアスは怒号が飛び交う邸宅に近づき、壁に組まれた足場を駆け上がった。
すでに屋根から突入した者の姿は一人もない。
ただ一人右手に剣を抜き、崩れかけた屋根に上がり、人が一人通れるだけ開けられた穴を覗き込む。
中は、ほとんど王家の勝利が決まりかけていた。
『レイビア・フェイアン』
と呼ばれる、フェイアン人以外の者の排斥を掲げた彼ら。
その多くがフェイアンに流入した外国人に働き口を奪われた者たちだという。
それゆえ、彼らはフェイアン人以外の者を毛嫌いした。
だが調べてみれば何のことはない。
そういった多くの者は、彼ら自身に問題がある者が多く、逆恨みがほとんどだった。
その破落戸どもは捕縛され、口汚く近衛を、王家を罵っているだけだ。
これならばもう人質たちは救われたかもしれない、とほっと胸を撫で下ろそうとしたときだった。
「……っ」
眼下に広がる光景に一気に心が、冷える。
破落戸の一人が妻を抱え、さらにその後ろを王女を抱えた男が現れたのだ。
なぜ、と瞬きすら忘れてその光景に目を凝らした。
かろうじて穴から見えるのは、彼らが出てきた扉。
あそこから出てきたということは、玄関に一番近い地下室に閉じ込められていたのか。
王妃の手の者は破落戸の中に紛れ込んではいたが、警戒心の強い破落戸の頭が自ら見張りをすると言い、場所は限られた者にしか教えなかった。
だからこそ近衛らで予想を立て、玄関に近い地下室は可能性が低い、もう一つの邸宅奥の地下室だろうと、真っ先にそこを改めることとなっていたのだが、見事に外していたということだった。
妻や王女に突きつけられた剣に誰もが動くのを躊躇いを隠せない。
しかしその中でも、王妃の近衛隊長を務める者はやはり違った。
「今すぐにレイナ姫とエリーザ姫を解放しろ。お前たちの仲間はすべて捕えた。残るはお前たちだけだ。お前たち二人で何ができる?」
内心は読めないが、人質に剣を突きつける者たちに余裕の態度だった。
フレイヴィアスは眼下を凝視しながら、一つの決断を下すべきか迷っていた。
幸いにも男たちは頭上に居るフレイヴィアスには気づいていない。
隙があれば屋根を降りた瞬間に男から人質を奪い返す自信はあった。
だがそれをした場合、残る一人は、激高、もしくは焦る男に危害を加えられる可能性が高い。
救うべきは妻か、王女か――――。
本来であれば迷う必要などない。
王家に仕える者は、王家の身柄の安全を確保することを最優先としなければならないからだ。
たとえ家族を犠牲にすることになろうとも、決断しなければならない。
以前のフレイヴィアスであれば、迷うことなく王女を救い出していただろう。
王家を守るという使命を抱き。
何よりも愛していた彼女を。
けれど。
「………」
じっとりと嫌な汗が頬を伝う。
男の片腕に余裕で収まっている小柄な妻の顔はフレイヴィアスには見えない。
ほとんど表情の変わることのない、人形のようなあの妻は今どんな表情をしているだろう。
いつも通り感情を表に出していないのか、それともさすがに不安や怖れを浮かべているのか。
今のフレイヴィアスにとっては切り捨てるべき、いや切り捨てなければならない存在。
もともと己が望んで迎えた妻では、ない。
正直、持て余してすらいた。
それでも。
『フレイヴィアスさま』
澄んだその声に呼ばれることに違和感を覚えなくなったのは、いつ頃だっただろうか。
帰宅すれば当然のように起きて待っている姿に、ほっと安堵するようになったのはいつからか。
震える体、それを抱きしめて眠ることが当たり前になったのは―――――。
それらをすべて失ってしまう、かもしれない。
そう思うだけで初めてフレイヴィアスは右手に抜いていた剣を持つ手が震えるのを感じた。
瀕死だった母をすぐに助けに行かず、王と王妃の身の安全を確保してから母へと向かった、亡き父が見れば未熟だと罵るだろうか。
一瞬、現実逃避したフレイヴィアスは、
「人質は返すから命だけは堪えてくれ!」
王女と剣を投げ出した男の声で我に返った。
四方を囲まれた男の一人が、諦めて投降した。
王女も無傷ですぐに騎士らに救出された。
張り詰めていた空気が少し緩むが、依然妻は人質となったままだ。
しかし、最後の一人となったのだ、そう時間はかからずもう一人も諦めるだろうと誰もが思った。
事実男は、
「……分かった、俺も投降する」
と肩を落として抱えていた妻を床に放り出した。
小さな体は床に蹲ったが、ほとんど無傷だろう。
詰めていた息を僅かに吐く。
男はそれから命だけは助けてほしい、と都合のいいことを言っていたが、もうすぐ無事に終わると邸宅内の空気は緩みつつあった。
だが妻が無事に救出されるまで眼下を凝視していたフレイヴィアスは、疑問を抱いていた。
投降する、と言いながら男の手には剣が握られたまま。
隊長の言葉に剣を体の横に下げたが、依然として手放す気配はない。
―――――諦め? 本当に?
次の瞬間、フレイヴィアスは息を呑んだ。
凝視していたからこそ分かる、小さな変化。
男の右手に力が込められ、僅かに肘が上がる。
それは最早、無意識、だった。
考える間もなく体が動いた。
足が屋根を蹴り、剣を持つ右手を揚げる。
「―――――なんて言うわけないだろうが! 信じられるか!」
判断は一瞬だった。
叫ぶ男の背中に剣を突き立てたところで間に合わない。
たとえ刺されたとしても勢いで男の剣は妻へ下されただろう。
だからこそ取る道は一つ、剣を持つ手を落とすしかなかった。
フレイヴィアスの剣は寸分違わず男の腕を落とした。
一瞬、緑の瞳が見開かれるのを視界の端で捕えた。
男が腕を落とされたことを理解する前に背中を蹴って倒す。
あぁぁぁ―――――と男の悲鳴とともに床に血溜まりができ始めた。
騎士らが男を捕縛するために動き始める。
それを一瞥した後、フレイヴィアスは、床に座り込んでいる妻を見た。
妻は固まってしまったかのように、ただただフレイヴィアスを見上げる。
その緑の瞳には血に塗れた己の姿が映っていた。
「エリーザ」
その声は、無様にも掠れていた。
ぴくり、と妻の体が震える。
残酷な行為をした自分に怯えているのか、それともすぐに救い出せなかった自分に軽蔑したのか。
妻は何も言わない。
けれど瞬きを忘れていた瞳が、徐々に歪んだ。
そして―――――両腕が伸びてきた。
真っ直ぐに、自分にだけ。
「……っ」
考えるまでもなかった。
腕を捕え、華奢な体を囲う。
ふわりと香るのは、間違いなく妻のものだった。
腕の中にある存在が、息をしていて、ちゃんと心臓が音を立てている。
そのことがどれだけ幸せなことか、フレイヴィアスは初めて知った。
妻が、初めて教えてくれた。
強く強く抱きしめながら、フレイヴィアスは小さく謝罪した。
「守ると言っておきながら、守ることができませんでした」
深い罪悪感と後悔とともに呟くと、妻は腕の中で小さく首を振り、
「……ずっと、私を守ってくださいました。今も、そして、離れている間も」
そう呟いた。
そしてもう一度、
「あなたが、守ってくれました」
呟いたその顔は見えないけれど、なぜか妻の顔が笑っているような気がして。
思わず背中に回した腕に力が籠る。
応えるように己の背中にも腕が回され、力が籠る。
それがフレイヴィアスには、嬉しかった。
だから心からのそれを呟いた。
「無事でよかった………エリーザ」
よかった、ともう一度呟きながらフレイヴィアスは微笑んだ。
ぽたぽたと涙を流す、腕の中の小さな存在。
煩わしいものであった、それが。
――――――愛しいのだと。
フレイヴィアスは、初めて思った。