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『過労死百貨店マンの江戸商売無双 ~「お客様第一」の精神とドラッカーマネジメントで、天下の市場を買い占める~』  作者: 桐生宇優
第三章:日本列島ドミナント編

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第39話:駿府の名物と、大部屋の火花

本作は、現代の経営理論で歴史を動かすビジネス思考実験フィクションです。

長旅の末、箱根の山を越えた貞次郎一行は、駿河国の中心にして東海道屈指の大宿場町「駿府」へようやく足を踏み入れた。


家康公の隠居城・駿府城を抱くこの地は、お茶や紙、漆器などの特産品が行き交い、江戸や大坂に劣らぬ独特の活気と熱気に満ち溢れている。


「へい、いらっしゃい! 空いてますよ!」


夕暮れ時、旅籠はたごが立ち並ぶ大通りで客引きの声が飛び交う中、貞次郎は旅の経費(出張旅費)を抑えるべく、コストパフォーマンスの最も高い中クラスの旅籠を見定めていた。


案内された宿の帳場で、愛想の良い主人が手をつく。


「へい、お待ちしておりました。ちょうど奥の八畳間がひと部屋空いてますんで、皆さんご一緒でよろしゅうございますね」


「よし、部屋は一部屋で十分だ」


貞次郎が即座に財布を取り出そうとした、その瞬間。


お春が顔を真っ赤にして、貞次郎の前に立ちふさがった。


「な、何言ってるんですか若旦那! 年頃の男女が同じ部屋で雑魚寝だなんて、いくら旅先でも絶対に駄目です! 私とお艶さんは女なんですよ! 隣の部屋をもう一つ借りてください!」


「何を言うんだ、お春」貞次郎は首を傾げた。「一部屋にまとまれば部屋代コストを三割は削減できる。それに、仕切りのない大部屋の方が、夜通し大福帳のデータを突き合わせて市場分析をするのに都合が良いだろう?」


「データの整理なんて、起きてからやってください! 私は絶対に嫌ですからね!」


「ふふっ。お春ちゃん、そんなに赤くなって、可愛いねえ」


お艶が煙管をくゆらせながら、楽しそうにからかいの笑みを浮かべた。


「私は貞さんと川の字で寝るのも一向に構わないよ? そんなに心配なら、あんただけ隣の、真っ暗で寂しい小部屋に一人で泊まりなさいな」


「お、お艶さんまで! もう、意地悪言わないでください!」


半泣きで抗議するお春。結局、お春の必死の懇願により、襖で仕切られた二間ふたまを借りることで、どうにか部屋割りは大揉めの末に着地したのだった。


荷物を置いた一行は、旅の疲れを癒やすため、駿府を代表する名物茶屋へと向かった。


注文したのは、江戸っ子憧れの超メジャー高級和菓子『安倍川餅あべかわもち』である。


「ん〜〜! 柔らかくて、もちもちしてて最高に美味しいです!」


皿に盛られた、つきたての温かい餅。たっぷりのきな粉と、当時としては超高級品である黒砂糖がこれでもかとまぶされた逸品を口にし、お春は目を細めて大感激していた。


お艶も一切れを上品に口に運び、目を細める。


「さすがは、家康公が安倍川の金山に見立てて名付けたというだけはあるね。旅の疲れが、この甘さで一気にほどけていくよ」


二人が極上の和菓子を堪能する中、貞次郎はまたしても「職業病」を発症していた。彼は餅を箸で持ち上げ、色んな角度から凝視している。


「なるほど……。この餅一枚あたりの重量は約八匁(約30g)。これにまぶされた黒砂糖の配合率と、駿府の物価を照らし合わせると、原材料の原価率は約二割五分。つまり、この茶屋の『荒利益あらりえき』は極めて高い。この甘味による顧客満足度(CS)の高さと高利益率の構造は、我が越前屋の店頭に設ける『軽食休憩コーナー』のベンチマーク(基準)として実に優秀だな……」


「若旦那!」お春が頬を膨らませて箸をひったくった。


「せっかくの美味しいお餅なんですから、難しい計算なんか忘れて早く食べてください! 固くなっちゃいます!」


「おっと、すまない。確かに商品の『鮮度(賞味期限)』を逃すのは、最大の損失だな」


貞次郎は大真面目に頷き、餅を口に放り込んだ。お艶とお春は、どこまでも仕事の基準でしか動かない男の様子に、揃って苦笑いするしかなかった。


やがて夜も更け、宿へと戻った貞次郎が廊下を歩いていると、道中で荷物を運んでくれた屈強な人夫(馬借や人足)たちが、ニヤニヤと肩をすぼめながら声をかけてきた。


「よう、越前屋の若旦那。どうだい、長旅で腰がガチガチだろ? ここ駿府にゃ、江戸の吉原にも負けねえ『二丁町にちょうまち遊郭』って最高の色街があるんだ。旅の慰みに、あっしたちとちょっと繰り出しやせんかい?」


「駿府の色街、二丁町か!」


貞次郎の目がキラリと輝いた。


「地域ごとの歓楽産業における客単価の推移と、サービス形態の違い(競合分析)は、将来の全国ドミナント展開において極めて重要だ。よし、是非案内してくれ!」


「お、話がわかるねえ若旦那!」人夫たちが相好を崩した、その瞬間。


背後の襖が、凄まじい勢いでスパーン!と開いた。

そこには、般若のような仁王立ちのお春と、冷ややかな、極北の吹雪のような微笑を湛えたお艶が立っていた。


「若旦那ぁ……? 何が市場調査ですか!」


お春の目が吊り上がっている。

「色街なんか行かなくても、お体の凝りなら、私が今夜、部屋でみっちりと、肩から腰まで揉みほぐしてあげますから! 大人しくお部屋に戻ってください!」


「ふん」お艶は腕を組み、冷たく鼻で笑った。

「吉原の元トップを目の前に置いておきながら、駿府の場外の色街へ遊びに行こうなんて、いい度胸じゃないかい、貞さん。……人夫の皆さん、うちの若旦那に、妙な悪知恵を吹き込まないでもらおうかねぇ?」


お艶の、元花魁ならではの圧倒的な「威圧オーラ」と、お春の怒気に、屈強な人夫たちは「ひぃっ!」と悲鳴を上げて一歩退いた。


「す、すんません! あっしたち、ちょっと用事を思い出しましたんで!」


クモの子を散らすように人夫たちが逃げ去っていく。


貞次郎は、一人残されて首を傾げた。


「……? なぜ二人がそれほど怒っているのか、統計学的にさっぱり理由が分からんのだが……」


「理由なんかありません! さあ、お部屋へ戻りますよ!」


お春に背中をグイグイと押され、お艶には背後から「今夜は寝かさないよ。大福帳のデータ整理、朝まで付き合ってもらうからね」と妖艶に釘を刺される貞次郎。


鈍感ゆえのドタバタ劇は、こうして駿府の夜を賑やかに更けさせていった。


しかし、コメディに沸いた翌朝。


駿府の朝靄あさもやが立ち込める中、貞次郎たちの前に、駿府の街を支配する「大問屋(地元ギルド)」の冷酷な妨害工作が、静かに牙を剥こうとしていた。


(第40話へ続く)


三井貞治のビジネス指南と歴史考証

1. ビジネス指南:旅先での「消費行動インサイトの分析」

今回、貞次郎が安倍川餅を食べながら行ったのは、現代の店舗開発における「顧客体験(CX)とプライシング(価格設定)のベンチマーク分析」です。

地域ごとに異なる「物価水準」や、大衆がどのような「甘味やエンターテインメント(名物)」に財布を開くのかという金銭感覚(金銭受容性)を肌で感じることは、地方進出における最大の鍵です。貞次郎は、ただ美味しいものを食べるだけでなく、その原材料の比率や顧客満足度をロジカルに分析することで、駿府という土地の『大衆の購買心理』を的確にハックしようとしていました。

一方で、男女の部屋割りや色街でのドタバタ劇は、組織を統率するリーダーが陥りがちな「メンバーの個人的な感情や心理的モチベーション」に対する配慮不足をコミカルに描きつつ、お春の直球な忠誠心(恋心)とお艶のマネージャーとしての管理能力を引き立てる、極めて重要な潤滑油となっています。

2. 歴史考証:駿府の名物「安倍川餅」と、最古の公認色街「二丁町遊郭」

作中に登場した駿府ならではの歴史的なスポットと名物について解説します。

安倍川餅あべかわもち

江戸時代、東海道を旅する者が必ず立ち寄った超有名和菓子です。つきたての餅にきな粉をまぶし、その上から白砂糖や黒砂糖をかけたもので、当時は砂糖が非常に高価だったため、庶民にとっては旅の途中で味わう至高の贅沢品でした。徳川家康が駿府城にいた際、茶屋の主人が安倍川の金山から採れる金粉に見立てて「安倍川の金粉餅」と称して献上したところ、家康が大いに喜び、「安倍川餅」と名付けたという由緒ある歴史を持っています。

二丁町にちょうまち遊郭:

駿府(現在の静岡市葵区弥勒周辺)に実在した、東海道でも屈指の規模を誇る歴史ある遊郭です。大御所として駿府城に入った徳川家康が、家臣や旅人たちの慰安と街の経済活性化のために、日本で初めて公式に許可した遊郭の一つとされています。江戸の吉原が完成するよりも前に存在していたこの色街は、格式も非常に高く、「吉原にも負けない」と言われた駿府の巨大なエンターテインメント(夜の経済)の象徴だったのです。


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