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『過労死百貨店マンの江戸商売無双 ~「お客様第一」の精神とドラッカーマネジメントで、天下の市場を買い占める~』  作者: 桐生宇優
第二章:激動の多店舗展開編

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第36話:倹約の真理と、民を富ませる数理(ロジック)

本作は、現代の経営理論で歴史を動かすビジネス思考実験フィクションです。

実在の歴史人物が登場しますが、その実績をベースにしつつも、作中の行動や展開はすべて想像の範囲の創作です。チェーンストア理論が江戸の名奉行や実務家たちとどう交錯するのか、エンターテインメントとしてお楽しみください。


四畳半の質素極まる茶室。一輪の侘び寂びあふれる花が生けられた床の間の前に、寛政の改革の総責任者にして最高権力者――老中・松平定信は座っていた。


その全身から放たれる、規律を重んじる冷徹な覇気が、茶室の空気をピリピリと震わせている。


貞次郎は静かに定信の前に平伏した。


「越前屋貞次郎。待ちかねたぞ」


定信の低く、鋭い声が響く。


「お前が江戸を騒がせている商売人か。安売りで民を惑わし、あちこちに店を広げて暴利を貪っているそうだな。商人の贅沢こそが、天下の風紀を乱し、武士を貧窮させる諸悪の根源。我が『倹約令』の邪魔をするつもりか」


定信にとって、商人は「不要な贅沢品を売りつけ、民の金を吸い上げて肥え太る邪悪な存在」に過ぎなかった。だが、貞次郎は恐れずに定信の目を真っ直ぐに見据えた。


「定信様、お言葉ながら。定信様が倹約を命じられるのは、単に民からお洒落や生活の喜びを奪い、窮屈にさせるためですか? ……違います。定信様は、あの『天明の大飢饉』で、多くの民が食べるものもなく飢え死にした、地獄のような悲劇を二度と繰り返したくないだけのはずです」


定信の鋭い眉が、微かに跳ね上がった。


「定信様が白河藩を治めておられた際、徹底した備蓄と無駄の排除により、藩内から一人の餓死者も出さなかったと聞き及んでおります。定信様が国の上から命じる『倹約』の真意は、ただ一つ。不測の事態に備えて、民の手元に『余剰の蓄え』を持たせ、飢えから救うことにございます」


定信は黙って貞次郎を見つめている。貞次郎の脳裏には、かつて現代の日本で、焦土と化した戦後の闇市から這い上がり、食べるものに困る人々を前にして立ち上がった巨人たちの姿が重なっていた。


「私の目指す商売も、全く同じにございます。私の師たる者は、戦後の、食べるものに困るほど貧しく荒廃した生活から、誰もが当たり前に良いものを安く買い、豊かに暮らせる社会(チェーンストアによる生活革命)を作るために命をかけました。我々が下から行うチェーンストア仕法は、定信様の倹約と『全く同じ目的』を果たすための、流通の仕組みなのです」


「……同じ目的だと? 倹約と、お前たちの安売りがどう繋がるというのだ」


貞次郎は膝を進め、熱く、ロジカルに語りかけた。


「従来の呉服屋は、複雑な問屋ギルドを通して無駄なマージンを上乗せし、庶民にとっては手が届かない『贅沢品』として木綿を売っていました。だからこそ民は貧しく、万一の飢饉の際、米の一石も買える蓄えがなかった。

しかし、我が越前屋は、大坂の織元から直接大量に買い付け(SPA)、無駄な中間コストを100%カットいたしました。そして薄利多売の仕法により、本来なら三両かかった生活必需品(木綿)を、一両で提供しております」


貞次郎は、持参した大福帳を開き、数理データを指し示した。


「定信様、ご覧ください。民の生活費が三両から一両に下がれば、民の手元には、差し引き二両の『貯蓄(可処分所得)』が残ります。この二両こそが、定信様が倹約によって民に持たせたかった『飢饉への備え』そのものにございます!

定信様が国の上から倹約を命じ、我々が流通の仕組みで生活費を抑える。この2つが合わさって初めて、江戸の民は二度と飢えず、真に豊かな生活を営むことができるのです。商人は、民から金を奪う者ではない。民の可処分所得(手元の蓄え)を増やし、定信様の目指す『豊かな社会』を、流通の現場から実現する共同経営者パートナーなのです!」


「……民の、可処分所得を、増やす……」


定信はその現代の経営数理の言葉を反芻するように呟き、じっと貞次郎の大福帳を見つめた。


商人の安売りは贅沢の象徴ではなく、民の生活コストを極限まで下げる、最も合理的で、最も人道的な「究極の倹約仕法」である。


しんと静まり返る茶室。


やがて、定信は深くため息をつくと、張り詰めていた顔を緩め、ふっと微かに笑った。


「……ふふっ。根岸が言っていた通りだな。お前はただの商人ではない。天下の懐を計算できる、天下人ガバナーの器だ。我が倹約令の冷たさに、これほど温かく、合理的な血を通わせてみせるとはな」


定信は居住まいを正し、力強い目で貞次郎を見つめた。


「越前屋貞次郎。お前が下から民の暮らしを支えるというなら、この定信が天下のルールをもって、上からお前たちの仕法を全面的に支えてやろう。江戸の、いや、日本中の民を飢えから救い、真に豊かな社会を作るために、お前の知恵を存分に振るうが良い」


「――ははっ! ありがたき幸せにございます!」


老中・松平定信という、日本最高の絶対的な公式後ろプラットフォームを手に入れた瞬間であった。


現代のチェーンストアの魂が、歴史の最高権力者の魂と完全に共鳴し、時代が大きく、爆発的に動き出そうとしていた。


(第37話へ続く)


定信にとって、贅沢を禁じる「倹約」とは、単なる道徳的なお説教ではなく、「二度とあの地獄のような飢饉を起こさないための、現実的かつ必死の防衛手段」だったのです。だからこそ、貞次郎の「流通改革によって民の手元に貯蓄(備え)を残す」というチェーンストア理論は、定信の心に誰よりも深く、魂を震わせるレベルで突き刺さったのです。


三井貞治のビジネス指南と歴史考証

1. ビジネス指南:中内功・渥美俊一の精神「生活困窮からの解放」と「CSV(共通価値の創造)」

今回、貞次郎が定信に語った情熱的なロジックは、戦後日本のチェーンストア理論を築き上げた中内功氏(ダイエー創業者)や渥美俊一先生(ペガサスクラブ主宰)の魂そのものです。

中内氏は戦後の闇市で、物価の高さに苦しみ、食べるものにも事欠く大衆を目の当たりにし、「良い品を、毎日安く提供し、誰もが豊かに暮らせる社会をつくる(主婦の店ダイエー)」という使命を掲げて立ち上がりました。そして、渥美先生は「チェーンストアとは、大衆の豊かさを実現するためのインフラである」という科学的理論(標準化、大量仕入れ、低価格化)を日本中に根付かせました。

貞次郎が定信に提示した「商人の安売り=民の生活費コスト削減であり、手元に貯蓄を残すための人道的アプローチである」という視点は、現代のマーケティングでいう「CSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)」そのものです。行政(定信)の「国を救う」という大義と、企業の「安く提供して豊かにする」という目的を「無駄の徹底的な排除(コスト削減)」という共通言語で繋ぎ、敵対関係を「最高のパートナー」へと変える。これこそが、大衆の支持と国家の支援を同時に得るための最強の経営実務です。

2. 歴史考証:松平定信の「天明の大飢饉」におけるトラウマと白河藩の実績

松平定信が「質素倹約」に対して並々ならぬ執念を燃やしていた歴史的な背景について解説します。

1782年から始まった「天明の大飢饉」は、日本全国で数十万人の死者を出し、江戸の街でも餓死者が続出する凄惨な歴史的悲劇でした。この時、定信が治めていた白河藩(現在の福島県)では、定信が自ら食事を極限まで質素にし、藩の財政を徹底して削り、他藩から米を買い入れるなど、執念の「無駄の排除と備え」を実践しました。その結果、白河藩からは「餓死者・死者ゼロ」という奇跡的な実績を上げ、これが彼の政界(老中首座)への大出世のきっかけとなりました。

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