第1話:お客様のために、一歩前へ
老舗百貨店『一越』の地方店、紳士服売場のフロアマネージャーを務める三井貞治の朝は、誰よりも早い。
開店の1時間前にはフロアに立ち、マネキンが身にまとうスーツの袖のシワひとつ、ネクタイの結び目の角度ひとつにまで目を光らせる。
「服を売るんじゃない。その服を着て、お客様がどんな素晴らしい時間を過ごすか。それを提案するのが、百貨店の、俺たちの仕事だ」
それが30歳になった貞治の、譲れない信念だった。
いま、地方の百貨店はどこも厳しい状況にある。
ネット通販の台頭、ファストファッションの流行。
売上は右肩下がりで、フロアを歩く顧客の数も全盛期に比べればずっと少ない。
だからこそ、貞治は「お客様第一主義」を徹底した。
「三井さん、ちょっといいかしら」
声をかけてきたのは、何年もこの店に通ってくれている初老の女性客だった。
「来月、孫の結婚式があるのよ。でも、あの子はちょっと体格が良くて、市販のスーツだと肩が凝るって言っていてね。どんなものを着せたらいいか分からなくて……」
一般的なマニュアルであれば、イージーオーダーのカタログを見せて、採寸の日程を決めて終わりだろう。しかし、貞治は違った。
「お孫様のご結婚、誠におめでとうございます。お孫様は普段、どんなお仕事をされているのですか?」
「IT系の会社でね、普段はパソコンばかり触っているらしいわ」
「なるほど。では、前傾姿勢が多いのですね。それでしたら、ただサイズを大きくするのではなく、アームの形状にゆとりを持たせ、伸縮性のある上質なウール生地を使うのが最適です。
見た目はシャープですが、一日中着ていても全く疲れません。よろしければ、お孫様の普段のお写真などございますか?」
貞治はスマートフォンの画面越しに、お孫さんの体型や骨格、肌のトーンを確認した。そして、式場の照明のトーン(伝統的なホテルなのか、自然光が入るゲストハウスなのか)まで聞き出し、最も映えるネクタイとチーフの組み合わせまでその場で提案した。
「まあ! そこまで考えてくれるのね。あの子、きっと喜ぶわ。来週、東京から帰ってくるから、絶対にここに連れてくるわね」
女性客は、心底安心したような笑顔で店を後にした。
売場に戻った貞治に、後輩の手代木が感嘆したような声をかける。
「三井さん、さすがですね。たった一着のスーツのために、そこまでヒアリングするなんて。正直、効率だけで言えば、既製品をワンサイズ上げて勧めた方が早いじゃないですか」
貞治は優しく笑い、後輩の肩を叩いた。
「手代木、商売の本質を忘れるなよ。効率を求めるなら、お客様は最初からネットで買う。わざわざ足を運んでくださるお客様が求めているのは、自分のためだけに尽くしてくれる『時間』と『提案』なんだ。お客様の期待を1%でも上回る。その積み重ねだけが、一越の暖簾を守るんだよ」
お客様が何を求めているのかを徹底的に考え抜き、そのニーズに120%で応える。
これこそが、貞治が一越の厳しい研修で叩き込まれ、実践してきた「顧客創造」の第一歩だった。
売上の数字は、お客様の喜びの総量に比例する。
事実、貞治の担当する紳士服売場は、全社的な不況のなかでも、リピーターの支持によって奇跡的な売上を維持していた。
「今日も、良い商売ができたな」
閉店後、誰もいない静まり返ったフロアを見渡し、貞治は充実感に満ちた深い息を吐いた。
この暖簾を守るためなら、どんな努力も惜しまない。
その時の貞治は、心からそう信じていた。翌日、あの「青天の霹靂」が社内を揺るがすなど、夢にも思わずに――。
【第1話あとがき:三井貞治の経営ミニ講座】
今回のテーマ:なぜ、今の時代に「お客様に寄り添う商売」が必要なのか?
『過労死百貨店マンの江戸商売無双』をお読みいただき、ありがとうございます!
第1話では、主人公の三井貞治が、一見すると「非効率」に見えるほど1人のお客様に深く寄り添う接客を描きました。
「今の時代、ネットで安く早く買えるんだから、そんな面倒な接客はコストの無駄じゃないか?」と思われる方もいるかもしれません。しかし、これこそが現代ビジネス、そしてこれからの時代を生き抜くための「究極の生存戦略」なのです。
現代経営学の父であるピーター・ドラッカーは、次のような言葉を残しています。
「企業の目的として有効な定義は一つしかない。それは、顧客の創造である」(『マネジメント』より)
企業が存続するために最も大切なのは、利益を上げることそれ自体ではなく、「自社のファン(顧客)を新しく創り出すこと」だという意味です。利益とは、その結果として後からついてくる報酬に過ぎません。
では、どうやって顧客を創造するのか? その答えが、貞治の実践した「お客様第一主義(顧客への寄り添い)」です。
現代はモノが溢れ、機能や価格だけでは差別化ができない「コモディティ化」の時代です。どこで買っても同じ品質のモノが手に入るからこそ、お客様は「自分を理解し、自分のために価値を提案してくれる存在」を求めています。
貞治はお孫さんの写真や式場の照明までヒアリングしました。これは単にスーツという「モノ」を売ったのではなく、お孫さんが結婚式で最高の時間を過ごすという「体験」を提案したのです。
このように、お客様の期待を1%でも上回る感動を提供すると、そのお客様は単なる「買い手」から、生涯にわたって店を支えてくれる「ロイヤルカスタマー(熱狂的なファン)」へと変わります。ファンになったお客様は、価格競争に巻き込まれません。「高くても、効率が悪くても、あなたから買いたい」と言ってくださるようになります。
効率を追い求めるだけの商売は、より大きくて効率的な資本(ネット通販や巨大資本)に必ず負けます。
しかし、「お客様の心を掴む寄り添いの商売」だけは、どんな大資本も奪うことができない最強の参入障壁になるのです。




