第三章 悪意 一
オメガクラスに通うようになってから数日が経過したその日、純はひとりで帰宅した。親切には「ピアノ教室に行く」という用事があったし、月世は月世でここ二日ほど遠出をしているのである。
月世の職業は、魔導書専門書店の店長だ。
ここ神苑町においてはそういった店舗の存在は珍しくなかったし、実際に競合店もいくつかあった。ただし、会員制を採用している書店は、月世の経営する『アドナイ書房』ひとつきりなのであったのだが……。
彼が遠方に出かけているのには、わけがあった。魔導書に取り憑いていた悪しき幻想種が、本の所有者の生命力を食らって顕現し、周囲の家々やそこの住人に多大なる危害を及ぼしたのだ。
ゆえに、月世のもとに法術局の担当者から協力要請が下った。
うまい具合に魔導書を始末すれば、そこを根城とする幻想種も消滅する。だからこそ、魔導書書店の店長たる月世の力がどうしても必要となるのだ──「餅は餅屋」とはよく言ったものである。
むろん、先にも述べたように同業者はあった。数こそ少ないものの、神苑の町の内と外に点在していた。
しかし──、月世の魔力は、彼らよりもはるかに強大なものだ。
そのため、法術局はわざわざ天宮の屋敷に赴き、敵性幻想種の討伐を願い出たのだった。
曲がりなりにも、月世は魔術的名家『護国六家』の筆頭格・天宮家の次男だ。そして完全男性体でもある。法術局局員より直接スカウトを受けた過去も持っている。
ゆえに、月世は時々、法術局と連携して数々のトラブルを防いでいたのだった。
「豚まん食いてえなあ……」
網連橋の上、ひとりごとを呟きながら、ゆっくりと前に進む。橋上には多くの学生や勤め人風の男女の姿が見受けられたが、純は一度も彼ら彼女らにぶつからず、橋を渡り切った。ここは通学路の一区画なのだ。
「豚まんが食べたい」と再度ぼやきながら、純は橋から離れ、豪壮な日本家屋の立ち並ぶ集落に入った。
ここら一帯──七吹と名づけられしこの区域は、大罪厄発生以前から、地価の高い場所として県内で有名だった。江戸時代から続く名家が軒を連ねているのだから、当然の話と言えるかもしれぬ。
また、七吹は、県全体の中で最も霊格の高い土地としても有名だった。ゆえに、この地で生を受ける完全男性体の数は、よそと比べると比較的多いのであった。
人も車も猫も通らぬ片側一車線の道を歩く。「景観を損ねるから」という理由で、ガードレールは設置されていない。車道と歩道の境目には、白線が引かれているのみである。
けれど、騒がしい車やバイクは、滅多にこの地を通らないのだった。通行人もごく少ない。ゴミ出しに行くときに、ごくたまに近所の人と出会うくらいだった。地域猫の姿もなかった。
しかし、純はあえて、白線の内側を歩いた。ごく静かな集落だけど、用心するに越したことはない──そう判断したためである。
そもそも、交通ルールを無視すべき理由など、純にはない。仮にルールを破ろうものなら、月世が悲しむだろうし、天宮の家の者らにも迷惑をかけてしまうであろうことは必至だ。
だから、道路の端をとぼとぼと歩いた。「月世と離れて寂しい」なんて、およそ自分らしくない弱音を胸のうちで吐きながら……。
そう。
純はかつてない寂しさを感じていた。「月世が傍にいない」というだけで、やるせない気持ちに見舞われていた。つがいの片割れたる完全男性体の不在がこうも堪えるとは、予想だにしていなかったのである。
「月世……」
名を呼ぶのと同時に、白い息が宙へとのぼり、煙のように薄く消えていった。
月世が恋しかった。
たった数日距離を置いているだけなのに、なのに、彼に──逢いたかった。
【続く】
【裏話】
最近は、TM NETWORKの『Jean Was Lonely』をよく聴いています。
TM NETWORKの中では、この歌がいちばん好きです。
(アルバムの中では『EXPO』が好きです)




