第二章 一年十一組 二
沈み切っていた意識が、泡のように静かに浮き上がってゆく。ゆっくりと、しかし確実に。
「あ……?」
純はぱちりと目を開けた。
ぼやけていた焦点がだんだん合わさっていくにつれ、耳を潤す小鳥の鳴き声が鮮明になる。
高い位置にある木造りの天井、障子を透かす日の光、床一面に敷き詰められた香り豊かな畳──そのどれもが見慣れた景色であった。町を破壊する邪竜の群れなど、どこにもいなかった。
「そっか。あれ、やっぱり夢だったんだな……」
呟いて、純は右手で唇を覆った。いま響かせた自分の声に、ただならぬ違和感を感じたためだった。
「まさか──!」
焦る心はそのままに、純は行動を開始した。
掛け布団をめくって、すっくと立ち上がり、どたどたと足音を立てて、部屋の隅に立てかけてある姿見の前に向かう。もはや、外で歌う小鳥の鳴き声なんてどうでもいい代物と化していた。
鏡の中の自分を見つめる。そこには、愛用している格子柄のパジャマを着た自分がいた。真っ赤な髪色をしたショートカットの美少女が、服の上からでもそうと見て取れるほどに豊かな乳房を持った美少女がひとり、口を大きく開けて突っ立っていたのである。
「おれ……、女の子になっちまったんだ……」
いつか言われた言葉を思い出す。「遠い未来か近い未来か断定できないけれど、君は将来、女の子になってしまうんだよ」という、残酷な宣告が記憶の底から這いのぼってくる。
純は絶望した。
女性になった自分に絶望したのではない。性転換をきっかけに、月世との関係が変化する可能性が出てきたこと──そのことに深く絶望したのである。
鏡に映る少女は、異国生まれの可憐な姫君のように愛らしかった。男性だった頃の自分からは想像もつかぬほどに美しかった。
「今日からこの体で生きていかなくちゃいけないのか……」
気抜けした呟き声が、爽やかな朝の空気に溶け込む。
以前、保健体育の授業で学んだことがある。「一度女性になった雌雄展開体および絶対女性体は、死ぬまで女性でありつづけるのだ」と。「性転換手術や性別を変える魔法でもかけられない限り、男性に戻ることは不可能なのだ」と。「そして、それらにかかる費用はとてつもなく高額なのだ」と──。
いつかこの日が来るのだと、幼い頃から覚悟していた。「女になったって、おれはおれだ。渡良瀬純という人間の根っこはなんにも変わらねえ」という考えが、純にはあった。
けれど、いざ女性化してしまった自分と向き合うと、なぜだか怖じけついてしまうのだ。 突如として変化してしまった体の性に心がついていけなくて、声にならない悲鳴を上げている。「女の子になった」と気づいた瞬間から、ずっと。
月世の妻になるという約束が、過去に立てた誓いが、ひたひたと胸に迫ってくる。
昔、婚約の儀を終えたときに、「ぼくはしょうらい、つきよさんのおくさんになるんだ」と心を決めた。そしてその決意はいまのいままでずっと持続させてきた、はずだった。
鏡の中の自分に面して最初に思ったことは、月世のことだ。あいつにだけは、この姿を──女性化した姿を見せたくはない。見られるのが……、怖い。
絶望に続いて発生した感情は、そう、恐怖だった。
「月世との関係がきっと変わってしまう」という恐怖、そして、「自分の肉体の変化についていけない」という恐怖が、純の身を、精神を、まるごと飲み込んだ。
渦をなして襲いかかってくる絶望と恐怖に対して、純はまったく無力であった。魔術の才があるわけではない、勉学や運動神経が特段優れているわけではない、顔立ちの愛らしさだけをとりえとするこの体を心底呪いたくなった。
「せめて、雌雄展開体であればよかったのに」
しかし、純はまごうかたなき、絶対女性体──女性化する運命にある者なのだった。
「どうしたらいいんだろう……」
──と。
「純。早く食堂に来い。でないと、学校に遅れるぞ」
扉ががらりと開き、続いて、割烹着姿の月世が部屋に入ってきた。
そうして時間がしばらく流れたのち。
二人は、「あっ……」と声を上げたきり、互いの顔を凝視したまま押し黙った。
小鳥の鳴き声だけが、積もる静けさをぬぐった。
【続く】
【裏話】
割烹着姿の月世を実際にこの目で見てみたいです。




