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私の秘密は増えてゆく ~この幸せを守るため――だからわたしは仮面をかぶる~  作者: 月城 葵
三章    少女と暴かれる秘密

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68話  自分にできること ~炎の道標~


 洞穴に足を踏み入れた途端に鼻を突いたのは、血と泥が混じった生温い悪臭。


 むっとする熱気に似た空気が肌を撫で、喉の奥を焼くようにえぐってくる。


 吐き気を堪えて口を押さえながらも、私はライアットの背から目を逸らさず、闇の奥へと一歩踏み出した。


 その時、闇の奥で、骨を噛み砕くような音がした。

 ぞわりと背筋が凍りつく。


「下がれっ!」


 ライアットの腕が私を押し戻す。


 次の瞬間――闇の奥から、黒い影が弾かれたように飛び出した。


 腐敗臭と鉄錆の匂いをまとい、目は赤黒く濁っている。


 四肢は膨れ上がり、毛並みはまだらに抜け落ち、ただれた皮膚の下で筋肉が脈打っていた。


「な……なに、これ……!」


 牛にも似ている。

 だが大きさも形も歪んでいて、獣というより化け物。


 異様な気配を纏った化け物が、洞穴の闇から牙を剥いて突っ込んできた。


「くっ――!」


 ライアットが前に出て、その突進を正面から受け止める。


 地響きのような衝撃が狭い洞穴に響き、岩肌がびりびりと震えた。


「ぬぅっ!」


 全身の力で押し返し、大きく蹴り飛ばす。

 獣の巨体が岩壁に叩きつけられ、土砂がぱらぱらと崩れ落ちた。


「下がるぞっ!」


 短く叫ぶと、私はすぐに背を返し、出口へと飛び退いた。

 ライアットも必死に続く。


 洞穴の中は狭すぎる。

 ここで押し込まれれば逃げ場がない――。


 外に出た瞬間、ライアットの怒号が飛んだ。


「エステラ! 木に登れっ!! 低い枝でいい、身を隠せっ!」


「はいっ!」


 すぐ脇の木へ駆け寄り、身体強化で幹を蹴る。

 枝を掴み、ぐっと体を持ち上げて登る。


 視界の下で、ライアットが一歩も退かずに化け物と相対していた。


 黒ずんだ毛並み、濁った目。

 腐敗臭を撒き散らしながら、そいつは牙を剥いてライアットに向かう。


「こいつは――鼻が死んでるな。匂いじゃなく、目で追ってる!」


 ライアットが短く言い放つ。

 その声音は冷静で、獣の異様さをものともしていなかった。


「わかった!」


 枝の上から返事をする。

 心臓は張り裂けそうなのに、ライアットの背中が不思議と恐怖を押しとどめてくれた。


 木の上から矢を番えた。

 だが、弦を引き絞る腕が震える。


 視界に入る化け物はあまりに異様で――狙いをつけようとしても、心臓の鼓動に呼吸が乱される。


 そのとき、ライアットの声が鋭く飛んだ。


「エステラ! 狙うなら後ろ足だ!」

「えっ?」


 思わず目を見開く。


 確かに、化け物は前へ突進するようにけり出し、背後ががら空きになっていた。


 その一瞬を突けと言っているのだ――。


「後ろ足の付け根、だ!」


 ライアットの叫びに従い、矢じりをそこへ向ける。


 震えは止まらない。

 けれど、ライアットの声が導く。



「……火の神よ、猛る炎の如き力を!」



 ピタリと息を止め狙いを定めると、一気に弦を引き絞り、渾身の矢を放った。


 風を裂いて飛んだ矢が、黒ずんだ毛皮を貫き、後ろ足の付け根に深く突き刺さった。


「グウウゥッ!」


 化け物が唸り、地面を抉るように暴れ出す。


 後ろ脚を蹴り上げ、土煙を上げる。


 化け物は止まらない。

 むしろ狂ったようにライアットへ迫る。


「これじゃ……止まらねぇか」


 ライアットが吐き捨てるように言い、剣を構え直す。

 その瞳は獣の動きを完全に読み切っていて、恐怖の色は一切ない。


 剣と牙がぶつかり合い、火花のように空気が弾ける。

 木の上からそれを見つめる私の目は、震えながらも必死にライアットの動きを追っていた。


 ――どうすれば、この化け物を止められるのか。

 ――どうすれば、自分も父さんのように戦えるのか。


 答えを探すように、私はひたすら観察を続けた。


 矢は確かに突き立った。

 けれど、分厚い皮膚と異様に膨れた筋肉がそれを受け止め、化け物は止まらない。

 血が滲んでも、狂気に塗れた赤黒い瞳はますますギラついていた。


「……くっ!」


 矢筒を探る手が震える。

 いくら射っても、あの皮膚は貫けないし、止まらない。


 ……じゃあ、どうすれば。


 考える。考える。

 今の自分にできることは――ただ、一矢に全てを込めることだけ。



「ここっ!!」


 叫びと共に、全身全霊で弦を引き絞り、矢を放った。


 その瞬間。

 矢じりが眩く輝き、紅蓮の熱が奔った。


「えっ!?」


 放たれたのは矢ではなかった。

 灼熱の熱線のような奔流が走り、化け物の後ろ脚を付け根ごと吹き飛ばしたのだ。


「ゴアアアアアアッ!!」


 絶叫が森を震わせる。

 化け物がよろめき、巨体を支えきれず体勢を崩した。


 その光景に、ライアットが思わず口角を吊り上げる。


「――やるじゃねぇか」


 頭の位置が下がり、無防備に突き出された瞬間。


 ライアットは深く息を吸い込み、全身の力を拳に集中してるように見えた。


「俺もいいところ、見せねぇとなぁっ!!」


 ライアットの身体強化。

 その体が、ひと回り大きくなったようにさえ見える。


 ライアットが一歩、地面を踏みしめると、土がズンッと沈んだ。


 拳に宿る魔力が空気を震わせ――次の瞬間。


 耳をつんざく轟音。

 化け物の頭部が粉砕され、血飛沫が散った。


 巨体が地に崩れ落ち、森に重い沈黙が訪れる。


 沈黙が戻った森の中。

 ライアットは剣を払って血を振り落とすと、しばし耳を澄ませた。


「……他に気配はねぇな」


 低く呟きながらも、視線はなお周囲を鋭く走らせている。


 私も矢を番えたまま、枝の上から息を殺した。


 やがてライアットが手を上げ、ゆっくりと合図する。


「……よし、警戒を解け。ただし、完全には気を抜くな」


 枝から飛び降り、地面に着地する。

 目の前には、頭を砕かれた化け物の巨体が転がっていた。


 まだ生々しい腐臭が鼻を刺し、喉の奥がきしむ。


「こ、こいつ……いったい何なの?」


 恐怖に震える声で問うと、ライアットは低く唸り、死骸に近寄った。


 腹部の裂け方や脚の筋肉の形を確認し、やがて重く口を開いた。


「元はタルタニだろうな……」

「えっ!?」


 ライアットの告げた答えに、耳を疑った。


 タルタニ――牛に似た大柄の魔獣。

 頭に咲く花を抜かなければ従順で、家畜として飼育されることすらある温和な存在。

 それが、こんな化け物に……?


「タ、タルタニなの!? 信じられない……」


 私が息を呑むと、ライアットは短く答えた。


「まぁ、調べりゃわかるさ。痕跡は残ってる」


 その声音は静かだが、瞳の奥には鋭い光が宿っていた。

 ライアットは死骸から目を離し、洞穴の暗がりを睨む。


「――まだ気を抜くな。中に何があるか、これからだ」


 背筋を正し、私も矢を握り直した。

 戦いは、まだ終わっていない。


 再び洞穴に一歩踏み入れる。

 鼻を突く異臭に、顔をしかめた。


 奥へ進むほど、先程の戦闘で嗅いだ匂いよりも、もっと濃く、もっと重い。


「っ……ひどい匂い……」


 息を抑えながら進むと、目に飛び込んできたのは――無残に崩れた死骸だった。


 人のものと思しき骨と肉片。

 獣の死骸も混じり合い、床に散乱している。


 奥に据えられた粗末な机の上には、紙片が無造作に置かれていた。

 しかし、体液にまみれて文字は滲み、判別がつかない。


「……何かを、ここでやっていたのは確かだな」


 ライアットが呟き、周囲を見渡す。

 そして、死骸となった巨体に視線を戻す。


「タルタニなら従順だ。ここまで連れてくるのも容易かったはずだ」


 その声は冷たく、確信めいていた。


「そ、それじゃ……」


 問いかけに、ライアットは短く頷いた。


「獣は魔素を溜め込めば魔獣になる。さらに濃く溜め込めば魔物に変わる……だが、それは普通なら濃い魔素地帯でしか起きん」

「でも、ここは……結界の中だよ?」

「そうだ」


 険しい顔で死骸を見下ろすライアットの声が、洞穴に低く響いた。


「つまり――人為的に、魔物に仕立てようとした奴がいたってことだ。その結果、食われた……で、残ったのがあいつ、魔物化したタルタニだ」


 全身に冷たいものが走る。


 ……人為的に魔物を……? そんなことが本当に。


 ライアットは踵を返し、洞穴の外を指した。


「……とりあえず帰るぞ。これは騎士団に報告しなきゃならん案件だ」


 私は黙って頷き、出口の光を見つめた。

 その背中に続きながら、胸の奥で重くのしかかるものを振り払えずにいた。



 洞穴を出ると、冷たい外気が肺に流れ込み、思わず大きく息を吐いた。


 腐臭に染まった空気が少しずつ和らぎ、張り詰めていた心もようやく緩む。


 振り返れば、暗がりの奥に転がるもう一体のタルタニの死骸。

 誰かが人為的に変容させた――その目的も、犯人も分からない。


 けれどそれは、私が首を突っ込んでいい領域じゃない。

 ライアットの言う通り、騎士団へ報告すべき案件だ。


 ただ、もう一つ。


 あの最後の一矢。

 明らかに身体強化とは違う力が宿っていた。

 灼熱の光となって放たれ、分厚い皮膚をものともせず、後ろ脚を吹き飛ばした一撃。


 なのに、身体への負担はさほどでもなかった。

 なぜ撃てたのか、どうして可能だったのか――まるで見当もつかない。

 けれどその炎の熱は、確かに私の中にまだ残っている気がした。


 謎は深まるばかり。

 けれど今日の経験は、きっと自分の糧になる。

 ルルーナを守れる力に、必ず繋げてみせる。


 そう胸に誓いながら、私はライアットの背を追って歩き出した。


 木々の間に差し込む春の光が、雪解けの森を静かに照らしていた。






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