68話 自分にできること ~炎の道標~
洞穴に足を踏み入れた途端に鼻を突いたのは、血と泥が混じった生温い悪臭。
むっとする熱気に似た空気が肌を撫で、喉の奥を焼くようにえぐってくる。
吐き気を堪えて口を押さえながらも、私はライアットの背から目を逸らさず、闇の奥へと一歩踏み出した。
その時、闇の奥で、骨を噛み砕くような音がした。
ぞわりと背筋が凍りつく。
「下がれっ!」
ライアットの腕が私を押し戻す。
次の瞬間――闇の奥から、黒い影が弾かれたように飛び出した。
腐敗臭と鉄錆の匂いをまとい、目は赤黒く濁っている。
四肢は膨れ上がり、毛並みはまだらに抜け落ち、ただれた皮膚の下で筋肉が脈打っていた。
「な……なに、これ……!」
牛にも似ている。
だが大きさも形も歪んでいて、獣というより化け物。
異様な気配を纏った化け物が、洞穴の闇から牙を剥いて突っ込んできた。
「くっ――!」
ライアットが前に出て、その突進を正面から受け止める。
地響きのような衝撃が狭い洞穴に響き、岩肌がびりびりと震えた。
「ぬぅっ!」
全身の力で押し返し、大きく蹴り飛ばす。
獣の巨体が岩壁に叩きつけられ、土砂がぱらぱらと崩れ落ちた。
「下がるぞっ!」
短く叫ぶと、私はすぐに背を返し、出口へと飛び退いた。
ライアットも必死に続く。
洞穴の中は狭すぎる。
ここで押し込まれれば逃げ場がない――。
外に出た瞬間、ライアットの怒号が飛んだ。
「エステラ! 木に登れっ!! 低い枝でいい、身を隠せっ!」
「はいっ!」
すぐ脇の木へ駆け寄り、身体強化で幹を蹴る。
枝を掴み、ぐっと体を持ち上げて登る。
視界の下で、ライアットが一歩も退かずに化け物と相対していた。
黒ずんだ毛並み、濁った目。
腐敗臭を撒き散らしながら、そいつは牙を剥いてライアットに向かう。
「こいつは――鼻が死んでるな。匂いじゃなく、目で追ってる!」
ライアットが短く言い放つ。
その声音は冷静で、獣の異様さをものともしていなかった。
「わかった!」
枝の上から返事をする。
心臓は張り裂けそうなのに、ライアットの背中が不思議と恐怖を押しとどめてくれた。
木の上から矢を番えた。
だが、弦を引き絞る腕が震える。
視界に入る化け物はあまりに異様で――狙いをつけようとしても、心臓の鼓動に呼吸が乱される。
そのとき、ライアットの声が鋭く飛んだ。
「エステラ! 狙うなら後ろ足だ!」
「えっ?」
思わず目を見開く。
確かに、化け物は前へ突進するようにけり出し、背後ががら空きになっていた。
その一瞬を突けと言っているのだ――。
「後ろ足の付け根、だ!」
ライアットの叫びに従い、矢じりをそこへ向ける。
震えは止まらない。
けれど、ライアットの声が導く。
「……火の神よ、猛る炎の如き力を!」
ピタリと息を止め狙いを定めると、一気に弦を引き絞り、渾身の矢を放った。
風を裂いて飛んだ矢が、黒ずんだ毛皮を貫き、後ろ足の付け根に深く突き刺さった。
「グウウゥッ!」
化け物が唸り、地面を抉るように暴れ出す。
後ろ脚を蹴り上げ、土煙を上げる。
化け物は止まらない。
むしろ狂ったようにライアットへ迫る。
「これじゃ……止まらねぇか」
ライアットが吐き捨てるように言い、剣を構え直す。
その瞳は獣の動きを完全に読み切っていて、恐怖の色は一切ない。
剣と牙がぶつかり合い、火花のように空気が弾ける。
木の上からそれを見つめる私の目は、震えながらも必死にライアットの動きを追っていた。
――どうすれば、この化け物を止められるのか。
――どうすれば、自分も父さんのように戦えるのか。
答えを探すように、私はひたすら観察を続けた。
矢は確かに突き立った。
けれど、分厚い皮膚と異様に膨れた筋肉がそれを受け止め、化け物は止まらない。
血が滲んでも、狂気に塗れた赤黒い瞳はますますギラついていた。
「……くっ!」
矢筒を探る手が震える。
いくら射っても、あの皮膚は貫けないし、止まらない。
……じゃあ、どうすれば。
考える。考える。
今の自分にできることは――ただ、一矢に全てを込めることだけ。
「ここっ!!」
叫びと共に、全身全霊で弦を引き絞り、矢を放った。
その瞬間。
矢じりが眩く輝き、紅蓮の熱が奔った。
「えっ!?」
放たれたのは矢ではなかった。
灼熱の熱線のような奔流が走り、化け物の後ろ脚を付け根ごと吹き飛ばしたのだ。
「ゴアアアアアアッ!!」
絶叫が森を震わせる。
化け物がよろめき、巨体を支えきれず体勢を崩した。
その光景に、ライアットが思わず口角を吊り上げる。
「――やるじゃねぇか」
頭の位置が下がり、無防備に突き出された瞬間。
ライアットは深く息を吸い込み、全身の力を拳に集中してるように見えた。
「俺もいいところ、見せねぇとなぁっ!!」
ライアットの身体強化。
その体が、ひと回り大きくなったようにさえ見える。
ライアットが一歩、地面を踏みしめると、土がズンッと沈んだ。
拳に宿る魔力が空気を震わせ――次の瞬間。
耳をつんざく轟音。
化け物の頭部が粉砕され、血飛沫が散った。
巨体が地に崩れ落ち、森に重い沈黙が訪れる。
沈黙が戻った森の中。
ライアットは剣を払って血を振り落とすと、しばし耳を澄ませた。
「……他に気配はねぇな」
低く呟きながらも、視線はなお周囲を鋭く走らせている。
私も矢を番えたまま、枝の上から息を殺した。
やがてライアットが手を上げ、ゆっくりと合図する。
「……よし、警戒を解け。ただし、完全には気を抜くな」
枝から飛び降り、地面に着地する。
目の前には、頭を砕かれた化け物の巨体が転がっていた。
まだ生々しい腐臭が鼻を刺し、喉の奥がきしむ。
「こ、こいつ……いったい何なの?」
恐怖に震える声で問うと、ライアットは低く唸り、死骸に近寄った。
腹部の裂け方や脚の筋肉の形を確認し、やがて重く口を開いた。
「元はタルタニだろうな……」
「えっ!?」
ライアットの告げた答えに、耳を疑った。
タルタニ――牛に似た大柄の魔獣。
頭に咲く花を抜かなければ従順で、家畜として飼育されることすらある温和な存在。
それが、こんな化け物に……?
「タ、タルタニなの!? 信じられない……」
私が息を呑むと、ライアットは短く答えた。
「まぁ、調べりゃわかるさ。痕跡は残ってる」
その声音は静かだが、瞳の奥には鋭い光が宿っていた。
ライアットは死骸から目を離し、洞穴の暗がりを睨む。
「――まだ気を抜くな。中に何があるか、これからだ」
背筋を正し、私も矢を握り直した。
戦いは、まだ終わっていない。
再び洞穴に一歩踏み入れる。
鼻を突く異臭に、顔をしかめた。
奥へ進むほど、先程の戦闘で嗅いだ匂いよりも、もっと濃く、もっと重い。
「っ……ひどい匂い……」
息を抑えながら進むと、目に飛び込んできたのは――無残に崩れた死骸だった。
人のものと思しき骨と肉片。
獣の死骸も混じり合い、床に散乱している。
奥に据えられた粗末な机の上には、紙片が無造作に置かれていた。
しかし、体液にまみれて文字は滲み、判別がつかない。
「……何かを、ここでやっていたのは確かだな」
ライアットが呟き、周囲を見渡す。
そして、死骸となった巨体に視線を戻す。
「タルタニなら従順だ。ここまで連れてくるのも容易かったはずだ」
その声は冷たく、確信めいていた。
「そ、それじゃ……」
問いかけに、ライアットは短く頷いた。
「獣は魔素を溜め込めば魔獣になる。さらに濃く溜め込めば魔物に変わる……だが、それは普通なら濃い魔素地帯でしか起きん」
「でも、ここは……結界の中だよ?」
「そうだ」
険しい顔で死骸を見下ろすライアットの声が、洞穴に低く響いた。
「つまり――人為的に、魔物に仕立てようとした奴がいたってことだ。その結果、食われた……で、残ったのがあいつ、魔物化したタルタニだ」
全身に冷たいものが走る。
……人為的に魔物を……? そんなことが本当に。
ライアットは踵を返し、洞穴の外を指した。
「……とりあえず帰るぞ。これは騎士団に報告しなきゃならん案件だ」
私は黙って頷き、出口の光を見つめた。
その背中に続きながら、胸の奥で重くのしかかるものを振り払えずにいた。
洞穴を出ると、冷たい外気が肺に流れ込み、思わず大きく息を吐いた。
腐臭に染まった空気が少しずつ和らぎ、張り詰めていた心もようやく緩む。
振り返れば、暗がりの奥に転がるもう一体のタルタニの死骸。
誰かが人為的に変容させた――その目的も、犯人も分からない。
けれどそれは、私が首を突っ込んでいい領域じゃない。
ライアットの言う通り、騎士団へ報告すべき案件だ。
ただ、もう一つ。
あの最後の一矢。
明らかに身体強化とは違う力が宿っていた。
灼熱の光となって放たれ、分厚い皮膚をものともせず、後ろ脚を吹き飛ばした一撃。
なのに、身体への負担はさほどでもなかった。
なぜ撃てたのか、どうして可能だったのか――まるで見当もつかない。
けれどその炎の熱は、確かに私の中にまだ残っている気がした。
謎は深まるばかり。
けれど今日の経験は、きっと自分の糧になる。
ルルーナを守れる力に、必ず繋げてみせる。
そう胸に誓いながら、私はライアットの背を追って歩き出した。
木々の間に差し込む春の光が、雪解けの森を静かに照らしていた。




