66話 笑い声 ~ようやく笑えた温かな場所~
会議が終わってから数日。
机の上に積まれていた書類の山も、終わりが徐々に見えてきた。
思えば、あの会議は賭けだった。
メネズ派を取り込めるか、それとも反発で政務が崩れるか。
けれど今、農業改革に向けて彼らが動き始めたのを見れば、間違ってはいなかったと思える。
新しい収入源の目途も立った。
だからこそ、次にやるべきことは決まっている。
「……孤児を、迎える準備をしよう」
呟いた声に、アゼレアとマテオが頷いた。
政務の舵取りは、この二人に任せられる。
農業改革は、メネズ派の政務官たちが動いてくれる。
ならば、わたしにできること――わたしがやらなければならないことはひとつ。
◇ ◆ ◇
翌朝。
責任者室で、わたしはマテオを呼び寄せた。
「マテオ、レント商会に依頼を。布と服、それから洗濯板と……ぬか石鹸もお願い」
「レント商会……ですか?」
レント商会の名前は、まだまだ有名ではないらしい。
「ええ、サンドレアムに店を構える商会です。そこの洗濯板という商品と、ぬか石鹸は評判なんですよ」
わたしは得意げにこたえた。
「わかりました。名目は孤児たちのためですね?」
すぐに意図を汲んで、マテオが頷く。
彼は手際よく控えに書きつけながら、口元に小さな笑みを浮かべた。
「承知しました。こういう手配なら、商会もすぐに応じてくれるでしょう」
「ありがとう。わたしは馬車の準備が整ったら、迎えに行くわ」
昼下がり。
邸の前に馬車が用意された。
御者台に年長の使用人が控えている。
「お嬢様、また西の外れで?」
「はい。お願いします」
遅れてきたアゼレアを見て、御者が感慨深く言う。
「また、姫様を乗せられるなんて思いませんでした」
「もう、姫様ではないぞ」
否定されたのに御者は嬉しそうに笑って、頭を掻いた。
「俺にとっちゃ姫様でさぁ」
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうに言うと、アゼレアは顔をそむけた。
だが、ちらりと見えたその口元は笑っていた。
わたしはその横顔を見ながら、邸の前に用意された馬車に、ロエナを伴って乗り込んだ。
冬の冷たい空気の中、馬車は街を抜けていく。
道端では農民たちが畑を見回り、あぜを鍬で直している。
やがて街の外れに差しかかると、小麦畑には青々とした冬小麦の穂が揺れ、春の収穫を待っていた。
そんな風景を横目に目的地に着くと、ゆっくりと馬車が停車した。
ロエナが最初に降りる。
次いでアゼレアがゆるやかに姿を現した瞬間――。
「アゼレア様……!」
黒衣の部下たちが、その姿を目にした途端、次々に膝をついた。
驚愕に息を呑む者、嗚咽をもらす者。
長らく待ち望んだ主の帰還に、誰一人として立っていられなかった。
そして最後にわたしが馬車を降り立つと、静まり返った空気の中に、確かな熱が広がっていった。
「……詳細は、マテオから聞いているな?」
アゼレアの低い声に、全員が揃って「はっ」と答える。
その声は震えていたが、しっかりと響いていた。
アゼレアが視線をわたしへと向ける。
わたしは促されて、一歩前に出た。
「では、案内してください」
部下たちはすぐに立ち上がり、わたしたちを先導した。
西の外れの小さな建物――粗末な木造の倉庫のような場所に、子供たちが身を寄せ合っていた。
ぞろぞろと外に出てきた孤児は、およそ四十名。
思っていたより体調の悪そうな子は少ない。
それはきっと、アゼレアが密かに物資を回してくれていたおかげだ。
「本当に、こんなに……」
息を呑むわたしに、年長の子が一歩前へ出て、眉をひそめた。
「どこへ行くの? ……ここから出たくない」
怯えを隠さない声に、他の子供たちも顔を曇らせる。
離れたくない、また追い出されるかもしれない――そんな恐怖が透けて見えた。
わたしはまっすぐに子供を見て、出来る限り優しく声をかけた。
「大丈夫。今度は追い出したりしない。ご飯も寝る場所もある。……ここじゃなくても、安心できる場所がちゃんとあるの」
黒衣の部下たちも口を開いた。
「アゼレア様のご命令だ。安心しろ」
「もう隠れて暮らす必要はない。堂々と守られるべきだ」
子供たちが互いに顔を見合わせ、やがて小さく頷く。
その動きを合図にしたように、全員が素直に馬車へ乗り込んでいった。
部下たちが手際よく孤児を乗せていく。
わたしたちの馬車も続き、町へと向かった。
辿り着いたのは、かつてメネズが使っていた邸の離れ。
内部を改装し、今は使われていなかった建物だ。
「ここが、君たちの新しい家だよ」
わたしがそう告げると、子供たちはしばし戸惑い、やがて恐る恐る足を踏み入れる。
広い部屋。
並んだ寝台。
清潔な毛布。
鼻先をくすぐるのは、準備中の夕食の香り。
「あったかい……」
小さな声が漏れ、やがて安堵の息が一斉に漏れた。
その表情を見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
邸の離れには、既に数名の女中たちが待っていた。
彼女たちは元々平民あがりで、この町で働いてきた者たちだ。
「子供たちは私たちに任せてください」
年配の女中がにこやかに言い、手を叩くと、子供たちは列を作らされて奥の部屋へ導かれていく。
次々と湯あみに入れられ、身体の汚れを落とし、髪を梳かれる。
新しい服に袖を通した子供たちは、少しずつ表情を緩めていった。
夕食には、温かなスープと焼きたての黒パン。
大鍋からよそう湯気に目を丸くし、おっかなびっくり口にした子供が「おいしい」と呟く。
それを皮切りに、ほっとした笑みが広がり、やがて賑やかな食卓となった。
その夜。
新しい寝床に横たわる子供たちは、まるで安心を取り戻したかのように眠り込んでいた。
その静かな寝息を背に、わたしとアゼレアは責任者室へ戻った。
机に腰を下ろすなり、アゼレアが問いを投げてきた。
「それで、どうするつもり?」
「どうするって……」
「保護して終わり?」
射抜くような視線に、わたしはぐっと背筋を伸ばした。
「……終わりじゃない。生きていくためには、掃除や洗濯を覚えることも必要だと思う。それに文字の読み書き、計算も教えたい」
アゼレアは腕を組み、顎に指を添える。
「それでは、平民の商家と同等の教育よ」
「それでいいと思う。生きるために最低限必要なことは、誰だって学ぶべきだもの」
「誰が教えるの? お前がすべてを抱える暇はないのよ」
「……」
確かに、その通りだ。
子供たちの面倒を、一人で見るのは到底無理。
政務に加え、町の課題も山積している。
「……誰か、いないかな?」
わたしは天井を見上げ、小さく呟いた。
◇ ◆ ◇
翌朝。
責任者室に向かうと、机に腰を下ろしたアゼレアにマテオ。
机の上には、既にマテオの報告書が整然と並んでいた。
マテオは席を立つと、深く一礼し、淡々と告げる。
「孤児たちの受け入れは順調のようですね」
「ええ……そうなんだけど」
昨夜の安堵した子供たちの寝顔を思い出しながら、わたしは言葉を濁した。
「問題が?」と、マテオが首を傾げる。
「保護しただけじゃ意味がないと思うの。生きていくための力を身につけてほしいって思って。でも、誰が教えるのか……」
誰か思い当たる相手はいるだろうか。
わたしの言葉にマテオはしばし考え込み、やがて口を開いた。
「受けてくれるかはわかりませんが……フェルト爺さんに頼んでみてはどうでしょう」
「フェルト爺さん?」
「あの、ご老です。政務からは随分前に引いていますが、学識は健在です。子供たちに読み書きを教えるくらいなら――」
言葉を続ける前に、アゼレアが低く遮った。
「フェルトは、もう年だ……他をあたった方がいいのではないか」
妙に固い声音。
わたしはその横顔を見上げ、少し考え込む。
「でも、話してみるだけでも……」
食い下がると、アゼレアは目を伏せ、渋々と頷いた。
「……好きにしろ」
昼過ぎ、わたしたちはフェルトの家を訪れた。
戸を叩くと、中から聞き慣れた低い声が返る。
「おや、代理殿に……姫様。お久しゅうございますな」
「……爺も元気そうでなによりだ」
隣で淡々と応じるアゼレア。
その言葉に、わたしは一度ならず、二度もぱちり、ぱちりと瞬きをした。
「……えっ? 爺? アゼレアのおじいちゃん?」
フェルトは頬を緩め、懐かしむように笑う。
「ええ。小さい頃から、わたくしめが家庭教師をしておりましたので――」
「その話はよい。それに祖父でもない!」
アゼレアが慌てたように遮った。
わたしは、吹き出しそうになるのを必死に堪える。
……アゼレアにも苦手な人がいるんだ。
フェルトは静かに椅子へ腰を下ろし、白い髭を撫でながら言った。
「しかしな……わしももう歳じゃ。体も思うようには動かん。政務など到底無理じゃぞ」
「政務ではありません」
わたしはすぐに首を横に振った。
「お願いしたいのは、文字の読み書きと計算を教えることです。孤児たちに、生きるための力を身につけてほしいんです」
フェルトは眉をひそめ、ちらりとアゼレアを見やる。
「……そのようなことを許すとは。姫様、変わられましたな」
「変わったのではない」
アゼレアが言い返す。
「こいつがそう決めただけだ」
フェルトは小さく頷くと、わたしに向き直る。
わたしは深く息を吸い、フェルトをまっすぐに見つめた。
「わたし、わかってるんです。食べ物や寝床を与えるだけじゃ、また同じことの繰り返しになる。でも、文字や計算ができれば、自分で働いて、お金を稼いで、生きていけるようになる。だから……どうしても、あなたの力が必要なんです」
フェルトは目を細め、しばらく黙り込んだ。
その目は、わたしの考えを見極めようとしているように見える。
わたしは続ける。
かつて所長から学び、そして、自分で考えたこと。
フェルトを説得するため、言葉を紡ぐ。
「教育を受けていない子供たちは……いずれ、生活に苦しみ、犯罪に手を出してしまうと思うんです。でも、本当に悪い者たちが狙っているのは……そういう子供たち。結局、犯罪に利用され、いいように捨てられる……だから――」
言葉を聞き終える前に、フェルトは大きな溜息をつき、頬を掻いた。
「……まったく、年寄りを使い倒そうというのか。どこまで姫様に似とるんじゃ」
言葉は愚痴のように聞こえるのに、その声音はどこか嬉しそうに、フェルトは言った。
「じゃあ……!」
「うむ。子供らに字と数を教えるくらいなら、まだできよう」
その言葉に、胸の奥がぱっと明るくなる。
ぐっと身を乗り出したわたしに、フェルトは苦笑を浮かべた。
「ただし、あの頃と変わらず厳しいぞ? 泣いて逃げ出す子が出ても知らんからな」
隣でアゼレアがわずかに顔をしかめた。
「……それは、保証しよう」
……やっぱりアゼレア、爺が苦手なんだ。
しかめっ面のアゼレアに堪えきれず、わたしは小さく笑ってしまった。
◇ ◆ ◇
フェルトの家をあとにし、邸へ戻る。
馬車の中、窓の外に流れる景色をぼんやり眺めながら、わたしは口を開いた。
「アゼレアって……爺が苦手なんだね」
隣で腕を組んでいたアゼレアが、わずかに眉を動かす。
「別に、苦手というわけじゃ……」
「はいはい」
軽く流すと、アゼレアは小さく咳払いをした。
「ただ、本当に厳しくて……何度か授業を抜け出したことはあるわ」
「えっ!」
思わず目を丸くした。
信じられない。
あのアゼレアが授業から逃げ出すなんて。
……あれ……? もしかして人選、間違えた?
内心でそんな疑念を抱えながら、わたしは邸の離れへ向かった。
離れに入ると、女中たちが子供たちに掃除や洗濯を教えている最中だった。
小さな手で雑巾を絞る姿や、ぎこちなく板の床を磨く姿。
その一生懸命さに、思わず目を細める。
「は~い、集まって!」
声をかけると、子供たちが一斉にこちらを向いた。
「明日から授業が始まります。字や数を学ぶんです」
わたしの明るい声とは反対に、不安そうなざわめきが広がる。
勉強という言葉が、子供たちにとって遠いものだったのだろう。
「大丈夫。アゼレアの先生だった人が教えてくれるのよ」
「えっ……アゼレア様の?」
「そう!」
わたしが胸を張ると、隣でアゼレアが慌てて口を挟む。
「おい、お前まで余計なことを言うな」
しかし、子供たちの目はすでにきらきらと輝いていた。
「ねぇ! アゼレア様みたいになれる?」
アゼレアが腰をかがめて、子供に目線を合わせる。
「それは知識のことか? それとも権力のことか?」
「うーん……けんりょくってなに?」
孤児相手にしっかりと応えるアゼレアは、やはり普通の貴族とは違う気がした。
いや、もしかしたら、これが本当の貴族の姿なのかもしれない。
「偉い人のようなものだ」
「じゃあ、なりたい!」
その答えに、アゼレアはふっと笑みを浮かべ、子供たちを見渡した。
「そうか。だが、このちっちゃい方が偉いのだぞ。なんなら、町で一番偉い。こうなりたいか?」
アゼレアの指がぴっとわたしを指す。
「えっ、このちっちゃい子が……えらいの?」
「ああ、偉いぞ。私よりもな」
子供たちは一瞬ぽかんとした後、声をそろえて。
「……うーん、やっぱり難しそうだからいいや」
その瞬間、場の空気が一気に和んだ。
アゼレアが額を押さえ、わたしはがくりと肩を落とした。
その夜。
責任者室で帳簿を片付けたあと、わたしは机に頬を乗せたままぼそりと呟いた。
「……どうせ、わたしには威厳なんてないし」
すかさず隣のアゼレアが鼻を鳴らした。
「そうね。確かに、今のその姿じゃ威厳は感じないわ」
そう言って、アゼレアは軽く肩をすくめた。
「うっ……」
思わず顔を上げる。
その姿にアゼレアは、おかしそうに肩を揺らした。
「そんなもの、後から勝手についてくるものよ」
「……そうなの?」
「そう。それにお前と話していると、五歳児だという事実を忘れそうになるわ」
……あ、やば……!
焦った顔を見られていないかと横目で伺うが、アゼレアは気にも留めず続けた。
「お前がやっているのは、貴族の政務官ですら手を焼く内容。それを淡々とこなしているのよ」
「……そ~なの?」
「なによ、無自覚?」
……結構、わたしってすごいのかな。
「忙しいなぁとしか思ってないけど」
「それはそうよ。言ったでしょ。一生働かせると。賭けは私の勝ちなんだから」
アゼレアの声音は楽しそうだ。
わたしをからかっているんだろう。
「でも、わたしが忙しいと、アゼレアの方がもっと忙しくなるんじゃない?」
負けじと言い返すが、それも想定済みだったようだ。
「そうでもないわ。そうならないように先回りして、お前にやらせればいい」
……それはズルいよ。
「なにそれ!?」
わたしが口を尖らせると、二人で顔を見合わせ笑いが漏れる。
夜の責任者室に、私たち二人の柔らかな笑い声が広がっていった。
◇ ◆ ◇
翌朝。
わたしはフェルトの授業を見学するため、離れへ向かった。
机の前に座らされた子供たちが、ぎこちなく石板に文字をなぞっている。
フェルトの指す数字に合わせて「いち、に、さん」と声を合わせ、数字を唱える子供たち。
フェルトの低い声に真剣に耳を傾け、失敗すれば頬を膨らませ、成功すれば笑顔を交わす。
……これなら、大丈夫。きっと未来に繋がっていける。
その光景に、胸の奥が温かくなった。
窓から差し込む朝の光に、子供たちの笑顔が照らされていた。
そこには、確かな希望が芽吹いている。
ふわりと春を告げる風が頬をなで、アゼレアがわたしの肩を優しく叩く。
「行くぞ」
「うん」
まだまだ、片付ける仕事は山ほどある。
でも、一歩ずつ、確実に前へ進んでる。
この温かい気持ちを胸に秘め、今日もまた、書類とにらめっこの始まりだ。
ここまで拙い文を読んでいただきありがとうございます!
「面白かったなぁ」
「続きはどうなるんだろう?」
「次も読みたい」
「つまらない」
と思いましたら
下部の☆☆☆☆☆から、作品への応援、評価をお願いいたします。
面白かったら星5つ。つまらなかったら星1つ。正直な気持ちでかまいません。
参考にし、作品に生かそうと思っております。
ブックマークで応援いただけると励みになります。




