61話 背負う者 ~その貴族は誇り高く~
「納得なんて、できるわけがないっ!」
思わず声に出ていた。
叫んだ瞬間、胸の奥に溜まっていた熱が一気に吹き出した。
五歳の子供が吐くような言葉じゃない。
そんなのわかってる。
でも今は、五歳児の仮面なんていらない。
邪魔なだけ。
アゼレアは一瞬だけ目を細め、すぐにいつもの冷静な顔へと戻る。
「納得できないことなど、生きていれば幾らでもあるわ」
抑揚のない声。
けれど、それは諭すような柔らかさも含んでいた。
「違う!」
わたしは首を振って食い下がる。
「納得しちゃいけないことだってある! だって……間違ってるものをそのままにしたら、もっと多くの人が苦しむんですよ!」
両手を広げ、体全体でアゼレアの言葉を否定する。
アゼレアの瞳がわずかに揺れた。
けれどすぐに、冷徹な仮面で覆い隠そうとする。
「法に逆らえば潰されるだけ。犠牲を減らすために、私はそうしてきた。それが現実」
「現実なんて言い訳です!」
声が鋭くなった。自分でも驚くほどに。
「守れなかった自分を誤魔化すために、現実だなんて言葉で隠してるだけ!」
アゼレアの肩が小さく震える。
「……あなた、本当に五歳児なの?」
かすかな独り言。
だが、すぐに掻き消すように表情を整え、冷笑を浮かべた。
「子供が夢を語るのは勝手。でも、世界はそんなに甘くない。貴族は現実を背負うものなのよ」
「背負う? 本当に?」
わたしは一歩前に踏み出す。
「あなたがしてきたことは、誇りのためなんかじゃないっ! 守りたかった人々を守るためでしょっ!」
その一言で、アゼレアの瞳が大きく見開く。
……この世界じゃ非常識よね……理解されないかもしれない。けど、わたしにはあなたの優しさが痛い程わかるのよ。
言葉が返ってこない。
ほんの一瞬、素の感情が覗いた。
けれど彼女はすぐに立て直した。
「……話にならないわ」
吐き捨てるように言い、視線を逸らす。
……逃げるな!
「ほら、また逃げた!」
わたしは声を荒げる。
「本当は答えられないから、逃げるんでしょうっ!」
「逃げてなんかいないっ!」
アゼレアの声が鋭く跳ねた。
その瞬間、仮面が崩れた。
鮮血と呼ばれた令嬢の姿は消え、そこにいたのはただの少女。年相応の十五歳。
感情を押し殺していたはずの顔に、怒りと悔しさと、どうしようもない哀しみが混ざり合っていた。
◇ ◆ ◇
「……逃げてるじゃない」
わたしは言葉を絞り出した。
「本音を隠して、建前ばかり語る。貴族そのものだわ」
アゼレアの表情が揺れる。
琥珀の瞳が一瞬だけ細かく震えた。
「人の気も知らぬ子供が……お前になにがわかる」
「ええ、わからないわっ!」
互いの声が震えているのは怒りのせいか、涙のせいか。
「わかるわけないじゃないっ! だって隠してるんだもの! 本当の気持ちなんて、誰にも言ってないんでしょう! だったら……教えてよっ! あなたの気持ちを!」
静寂が落ちる。
アゼレアは、ぐっと衣の袖を握り込んだ。
やがて、彼女はゆっくりと目を伏せ、口元がひくりと動いた。
「……そう」
低く、押し殺した声。
だがその響きには、張り裂けるような感情が混じっていた。
アゼレアは目を伏せたまま、思い出すように話す。
「父が病に倒れた時、はじめは何も疑わなかった。叔父も部下たちも、献身的に治療していた」
アゼレアが感情を押し殺し、続ける。
「だが、父の体調は日に日に悪化し、数節後には……寝たきりになるほど、衰弱していった……」
彼女の肩が小さく震えた。
その気持ちは、メネズの動きを察知できなかった悔しさだろうか。
それとも、父親を助けることが出来なかった後悔だろうか。
「信頼していた叔父が政務を引き継ぐと、徐々に父の部下たちは要職を外され、遠ざけられた。その時になって、やっとおかしいと気付いた……」
アゼレアは俯いたまま頭をゆるく横に振った。
「……父が息を引き取った夜……邸にいたのは敵ばかりだ。その後、信用できる者は次々に追放され、残ったのは叔父の取り巻きばかり」
アゼレアの声が少しずつ熱を帯びていく。
「たかが十二歳の小娘に何ができたと思う? 泣き叫んで、すがったところで、誰が聞いてくれた?」
アゼレアが、恐怖に怯えた日々を振り返るように語る。
「メネズの裏の顔に気付いたとき、もう遅かった。どこを見ても、私の味方はいなかった」
その声は震えていた。
仮面をかぶった令嬢は、そこにはもういない。
「悔しかった……怖かった……それでも、生き残らなくちゃならなかった。だから――私は仮面をかぶった」
拳を握りしめ、机に叩きつけるように叫ぶ。
「教えてよっ!! そんな小娘に、なにができたのかをっ!!!」
アゼレアの声が部屋に響き渡った。
その姿はもう、恐れられる令嬢ではなく、ただ必死に生き延びようとした、一人の少女の姿。
どれほどの苦しみを耐えてきたのだろうか。
わたしには想像もつかない。
メネズの愚行が明るみになれば、間違いなく連座で命を落とす。
それを承知でメネズを断罪し、自分の全てを犠牲にして町と民を守ってきた少女……。
……どれだけ、背負う気よ……背負いすぎだよ。
「……でも、それでも」
涙で視界が滲みながら、わたしは言葉を返す。
「一人じゃなかったはずっ! ロエナだっていた、地下倉に追いやられた使用人たちだって! あなたのことを信じて、陰で支え続けた人たちがいたでしょう!」
アゼレアの瞳が、かすかに揺れた。
「それに……黒衣の部下たち……追放されたって、心まで離れたわけじゃない! 今でもきっと、あなたを慕ってるっ!」
胸が痛い。苦しい。けれど止まらない。
「誰もいなかったなんて、言わないで! あなただけが背負って、全部自分のせいにして……そんなの、間違ってるっ!!」
アゼレアは唇を噛み、声を失った。
その瞳は、今にも涙をこぼしそうに見えた。
「……それでも」
絞り出すような声が返ってくる。
彼女が、感情を抑え込もうとしているのがわかる。
「守りきれなかった。救いきれなかった。その責は……わたしのもの」
「違うっ!」
……なんでよ……全部、自分のせいにして……どうしてそこまで。
わたしはすぐさま否定し、首を振った。
「一人で背負うから苦しいの! だから……一人で死ぬなんて、絶対に間違ってるっ!」
アゼレアは小さく首を振った。
「……いいえ」
「なんでよっ! わからずやっ!!」
胸の奥から、子供のような叫びがあふれた。
アゼレアは視線を落とし、それでも真っ直ぐな声で告げる。
「だからこそなの。私が責を負えば、皆は助かる……たとえ救おうとしていたとはいえ、悪事に関わっていたのは確か。法は法よ。どこまでも冷たくて、絶対なの」
法は法。
その言葉に、わたしの胸が締めつけられる。
……でも、それじゃ、あなたは……。
目を伏せたまま、アゼレアは続けた。
「おまえが、私を助けようとする気持ちは痛いほど伝わるわ。でも……それと同じように、私もまた、皆を助けたいのよ」
これがアゼレアの本心。
「なんでよ……死ぬ必要なんてないじゃない……」
涙が溢れ、気付いたときにはアゼレアに抱きついていた。
アゼレアの衣をぎゅうっと握って、抱きしめる。
冷たいはずのその体が、今はかすかに震えているように感じた。
長い沈黙が落ち、顔をうずめ、どれくらいそうしていただろうか。
やがて、かすれた声でわたしは呟いた。
「だったら……せめて最後まで希望は捨てないでよ。わたしは最後の希望なんでしょ?」
アゼレアがゆっくりと瞳を開き、こちらを見下ろす。
「……何をする気?」
「賭けをしましょう、アゼレア」
わたしは真っ直ぐに言った。
「わたしが勝ったら、あなたは生き残るの」
「……私が勝っても、何も旨味がないじゃないか」
アゼレアの目元が、初めてわずかに緩んだ。
「それなら……もし、生き残れたら、何がしたい?」
わたしの言葉にアゼレアが目を丸くした。
「ふふ、そうね……おまえを一生、働かせてやるわ」
「えっ? それはちょっと……」
どうも本気のようだ。
「なら、ここで不敬罪で捕まる? 私はまだ貴族だけど?」
「……言わなければ、不敬罪には問われないわ」
負けじと言い返すと、お互いに顔を合わせ笑った。
わたしも泣き笑いになりながら答える。
「いっそ笑って誤魔化せばいいのよ。案外、簡単に曲がるかもよ?」
二人で小さく笑い合った。
そこに残酷な令嬢の影はもうない。
ただ、希望を求めて必死に足掻く少女がいただけだった。
◇ ◆ ◇
朝の空気は澄んでいるはずなのに、胸の奥は重く沈んでいた。
邸の門前には馬車が待機し、鎧を着た騎士たちが並んでいる。鉄靴の音が石畳を叩くたびに、心臓が小さく跳ねた。
鎖に繋がれたアゼレアが、ゆっくりと歩み出てくる。
手枷がはめられているのに、背筋は少しも曲がっていない。
オレンジゴールドの長い髪が朝日にきらめき、冷ややかな琥珀色の瞳は堂々と前を向いていた。
……あれが、誇り高き貴族。
誰よりも強く、誰よりも気高い姿。
思わず息をのみ、涙が出そうになる。
でも泣いちゃいけない。そう思って、ぎゅっと唇を噛む。
馬車に乗り込む直前、アゼレアが振り返った。
わたしと目が合うと、ほんの一瞬、その瞳に柔らかい光が宿った気がした。
「……賭けを忘れるな」
それだけ告げると、アゼレアは視線を逸らし、静かに馬車へ乗り込んでいった。
扉が閉まり、御者が鞭を鳴らす。
車輪が動き出すと、胸の奥の何もかも引き裂かれるように痛んだ。
「アゼレア……」
小さく呟いた声は、馬車の轍にかき消される。
馬車が門を抜け、石畳をきしませながら遠ざかっていく音が、いつまでも耳の奥に残っていた。
最後まで背筋を伸ばし、誇り高くあったアゼレアの姿が瞼の裏から離れない。
……必ず、取り戻すから。
胸の奥でそう誓ってから、わたしは小さな足を引きずるように邸へ戻る。
責任者室に入ると、机の上には昨日のまま積み上げられた帳簿や文書が待ち構えていた。
インクの染みた筆、未決の印、封を切られていない手紙の束。
椅子に腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けそうになったけれど――泣いている暇なんてない。
「……やらなきゃ」
アゼレアがいなくなった今、誰かが手を動かさなければ町は止まってしまう。
五歳の子供でも、座ってしまった以上は背負わなきゃいけない。
小さな手で帳簿を開き、震える指先で数字を追った。
……どうしたら、サンドレアムに行けるんだろう。無実を証明できる証拠さえあれば……でも、子供のわたしにできることは……。
考えれば考えるほど、焦りと不安がせめぎ合い、喉がつまる。
それでも筆を握りしめ、紙の上に文字を写していった。
「……間違い探しは得意なんだから。きっと何か、見つけてやる」
自分に言い聞かせるように呟くと、机の上にちょこんと精霊たちが降り立った。
肩をつつかれ、顔を覗き込まれる。
小さな光がそばにあるだけで、心が少しだけ軽くなる。
「うん、一緒に頑張ろう」
そのとき、廊下の外から使用人の一人が顔を覗かせた。
「お嬢ちゃん、今日も手伝ってくれるのか?」
わたしは小さく頷いた。
アゼレアを取り戻す道はまだ見えない。
けれど、机に向かい続けることが――きっと繋がっていく。そう信じて、わたしは小さな胸を張り、次の帳簿を開いた。
◇ ◆ ◇
帳簿の数字を追っていたとき、控えめなノックが扉を叩いた。
「失礼します、筆頭政務官代理殿にお知らせです」
顔を出した若い書記官が、わたしにそう告げて一礼する。
「……わたし?」
思わず首を傾げる。
まだ、正式に誰かが引き継いだなんて話は聞いていない。
それでも返事をする間もなく、書記官は「執務室にお集まりください」と言い残して去っていった。
仕方なく椅子を降りると、精霊たちがちょこんと肩や足元に寄り添ってきた。
……大丈夫。怖がることじゃない。行くだけ、行くだけ。
そう自分に言い聞かせ、政務官たちが集まる執務室へ向かった。
そこにはすでに何人もの政務官が並んでいた。
皆、険しい顔つきでひそひそと囁き合っている。
「領主様からの使者らしい」
「処分の通達か……」
「いや、代理の任命かもしれん」
飛び交う憶測を耳にするたび、わたしまで落ち着かなくなる。
子供のわたしに視線を投げかける者もいたが、すぐに「まさかな」と首を振って目を逸らした。
やがて執務室の扉が開かれ、二人の騎士に護衛された使者が姿を現した。
濃紺の外套に金糸の刺繍、手には大きな巻物を抱えている。
その足音が石床に響くたびに、場のざわめきが少しずつしぼんでいく。
使者が中央に立つと、室内は水を打ったように静まり返った。
誰もが固唾を呑み、次の言葉を待っている。
「バニア・サンドレアムのご命により、これより書状を読み上げる」
低く響く声が、わたしの鼓膜を震わせた。
ざわめきは完全に途絶え、空気は重く張りつめていく。
何かが変わる――そんな予感が、背筋を冷たく走った。
使者は巻物の封を割り、ゆっくりと広げた。
羊皮紙の擦れる音が、やけに大きく響く。
「――トバルの統治者が不在となったため、暫定的に筆頭政務官を代理として政務を統べることとする」
その一文に、場がざわりと揺れた。
誰だ? 誰が指名された? 視線が互いに交錯する。
使者は一呼吸置き、はっきりと読み上げた。
「筆頭政務官――ルルーナ」
……えっ!
自分の名が響いた瞬間、わたしの頭は真っ白になった。
口を開きかけても声が出ない。
ただ、心臓が耳の奥で大きく鳴っていた。
「だ、誰だ……?」
「まさか……あの子供!?」
……わたしって、ただの政務官代理だったはずじゃ。
政務官たちが一斉にざわめき、執務室が蜂の巣を突いたように騒がしくなる。けれども使者は動じず、淡々と続けた。
「すでに前任アゼレアの署名があり、筆頭政務官の欄にはルルーナの名が記されていた。よってこれは、前任者の意志に基づくものである」
……アゼレアの……署名? ――まさか。あの課題、全部……これに繋がっていたの!?
「……やってくれるわね」
思わず口の中で呟いた。
「筆頭政務官ルルーナ。前へ」
使者に呼ばれ、足がすくみそうになりながらも一歩踏み出す。
政務官たちの視線が、驚愕と戸惑いと侮りをないまぜにして突き刺さってくる。
逃げられない。
……進めわたし。
小さく息を吸い込み、わたしは胸を張って前に進んだ。
任命が終わると、政務官たちのざわめきが収まり、重たい扉が閉じられる。
執務室には、わたしと積み上げられた帳簿だけが取り残された。
「……はぁぁぁ」
椅子に腰を下ろすなり、大きく息を吐き出した。
膝の上で小さな手が震えている。
……アゼレアの署名……最初からわたしに押しつけるつもりだったなんて……! ……ほんっと、最後まで勝手なんだから!
憤慨で顔が熱くなる。
でも、逃げ道はもうどこにもなかった。
瞼の裏側で、彼女がふっと笑った顔が浮かび上がった。
……最後の最後で、読み切れなかった……はぁ。
「……だったら、やってやるわよ」
声に出した瞬間、喉の奥に溜まっていたものがすっと晴れていく。
あの部屋を出る時に交わした言葉。
――「おまえの賭けに乗るとしよう。小さき友よ」
わたしが、先に投げ出すわけにはいかない。
アゼレアが認めてくれたのなら――やり遂げてみせるしかない。
窓の外に視線を向けると、護送車が遠ざかっていった方角がまだ淡く光って見えた。
……みんなは大丈夫かなぁ。
今度は家族の顔が目に浮かび、胸の奥がきゅっと縮む。
けれどすぐに、精霊たちが机の上でちょこんと跳ねて見せた。
「そうだね。一緒に頑張ろう」
筆を握り直し、帳簿を手元に引き寄せる。
紙の白さが目にしみた。
「よし……まずは仕事からだ」
小さな声でそう呟き、わたしは筆先を走らせ始めた。
この異世界に来て、わたしが初めて本音でぶつかり合った少女。
素の自分をさらけ出し、言葉で殴り合い、それでも友と認めてくれた。
あの意地っ張りのアゼレアを取り戻すその日まで、ここで足を止めるわけにはいかない。
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