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私の秘密は増えてゆく ~この幸せを守るため――だからわたしは仮面をかぶる~  作者: 月城 葵
二章    少女と暴かれる秘密

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59話  ただ一人 ~あの人が見せたもうひとつの顔~



「……アゼレア。お前も案を出せ!」


 メネズの怒声が執務室に響いた。

 けれどその声は、怒りよりも焦りの色が濃い。


 多少の落ち着きを見せたメネズが、この部屋の主であるアゼレアの席に腰を下ろす。

 

 それを窓際から見ていたアゼレアは、表情一つ変えずに無言でその無礼を見送った。



 メネズの声は震えていた。

 怒鳴り声のはずなのに、どこかすがるようにわたしには聞こえる。


 メネズは額の汗を乱暴に拭いながら、今にも机の上に身を乗り出しそうだ。


「このままでは私が……いや、町が持たん! 早くどうにかせねばならんのだ!」


 わたしは小さく息を呑んだ。

 さっきまで威圧的に見えたその姿が、今はただ必死で足掻く人間にしか見えなかった。


 アゼレアは窓辺に立ったまま腕を組み、動じない。

 しばし沈黙したあと、組んだ腕をほどき、わずかに肩をすくめると冷ややかな声で返した。


「まずは……そうですね、ダズマに探りを入れることです。けれど、もう手遅れでしょうね。かの商人が逃げていないと、どうして言い切れるのです?」

「くっ……!」


 メネズの顔がさらに赤くなった。

 従者たちが再びざわめき、視線を交わす。

 そのざわめきが、わたしの耳にも刺さるように響いた。


 従者たちもわかってはいるのだろう。

 アゼレアの聡明さを知っているからこそ、彼女の言葉が真実を示していると。


「馬鹿な……逃げるはずが……ないのだ」


 メネズはうわ言のように繰り返し、拳を震わせる。


「いや、待て……まだ策はある。まだ……」


 わたしはごくりと唾を飲み込んだ。

 その必死な姿は滑稽でさえあるのに、どこか底知れぬ恐怖を伴っていた。


 必死で足掻く者の方が、何をしでかすかわからない――そう思えてならなかった。


 アゼレアがゆっくり歩み寄り、机越しにメネズを見下ろす。


「叔父上。いい加減、取り繕うのはやめてはいかが。貴方御自身、心のどこかで理解しているのでしょう。すでに――取り返しがつかないことを」


 諦めろと宣告するような、冷めた声。

 相手を追い込むその言葉が、わたしの胸をざわつかせた。


 メネズは奥歯を噛みしめ、唇を噛んでうつむくと、何かを振り払うように頭を振る。


 そして、顔を上げると狂気を帯びたような目で叫んだ。


「ならば――! ハイメンダルに寝返るしかあるまい!」


 その言葉に、わたしは思わず息を呑んだ。

 従者たちが顔をひきつらせ、ざわめきが波のように広がるのがわかる。


 ハイメンダル――講義で名前だけは聞いた仮想敵国。


 敵に寝返る。

 それは、このトバルに暮らす人々を全て裏切る行為だ。


「そんな……」


 思わず声が漏れていた。

 けれど、誰にも届かず、ただ緊張だけが重たく広がっていった。




 ◇ ◆ ◇




 メネズが吐き捨てるように叫ぶと、室内の空気が一変した。


 メネズが発した「寝返る」という言葉があまりに重たすぎて、わたしの胸にまで鉛のように沈み込んできた。


 その言葉を口にしただけで、この町が敵に差し出されてしまうような、そんな錯覚さえ覚える。



「……愚か」


 アゼレアの声は静かだった。

 けれど、今まで聞いたどの声よりも冷たい。


「なっ……!」


 メネズが言葉を失い、目を見開く。


「叔父上。本気でおっしゃっているのですか? これまで築き上げてきたものを捨て、トバルを敵国に差し出すと? ……それが、アードとしての責務を果たすことだと?」


 淡々とした言葉が、鋭い刃のように突き刺さっていくのがわかる。


 アゼレアは一歩も引かず、ただ一人、まっすぐメネズを見据えていた。


「だ、黙れ! 私は……私は生き残らねばならんのだ!」


 メネズは机に身を乗り出し、声を荒げる。

 その叫びは威厳とは程遠く、ただ怯えにすがる声にしか聞こえなかった。


 わたしは息を静かに吐く。

 意識しなければ、忘れてしまいそうなほどに緊張していた。


 横目で見ると、アゼレアは表情を崩していない。

 ただ、冷ややかな光を帯びた瞳が、メネズを射抜いている。


「生き残る? そのためにトバルの民を犠牲にすると? 禁じられた品に頼り、人体実験を繰り返してきた挙げ句、失敗を重ね……そして今度は敵に膝を屈する、と?」


 言葉が重く落ちるたび、メネズの顔から血の気が引いていくのが、わたしにもわかった。


 室内は静まり返り、従者たちでさえ息を潜めている。


「愚か者がっ! 叔父上、貴方は自らを守ることしか考えていない……そんなものが、アードの務めであるはずがない」


 アゼレアの冷徹な声が響いた瞬間、メネズの肩がびくりと震えた。


 わたしは汗が滲んだ拳を握りしめる。


 ……怖い。


 けれど、目を逸らしてはいけないと思った。


「……ならば、叔父上。わたくしから問いを差し上げます」


 アゼレアの声音は、研いだ刃のように鋭い。


「なぜ禁制品に頼ったのですか?」


 低い問いかけに、顔を上げたメネズの喉がひゅっと鳴った。


「な、何を……」

「なぜ人体実験を繰り返したのですか?」


 矢継ぎ早の問いが続き、メネズは息を呑む。

 わたしの心臓も、胸の奥でドクンドクンっと強く跳ねていた。


「なぜ、ことごとく失敗しているのですか?」


 次々と突きつけられる『なぜ』に、メネズの顔はみるみる青ざめていく。


 力なく椅子に体を預けたメネズ。

 その姿を見た従者たちが不安げにざわめき、わたしも息を詰めたまま動けなかった。


 アゼレアは一歩前へ進み、その琥珀色の瞳がメネズを見下ろす。

 その瞳はさらに鋭さを増し、わたしにもわかるほど、彼女の纏う雰囲気が変わる。


「そして――なぜ、その全ての中心に、常にこの(わたし)がいたのか……おわかりになりますか?」

「……っ!」


 メネズの瞳が大きく揺れた。

 額に浮いた汗が一筋、頬を伝って落ちていくのがわたしにもはっきり見えた。


「まさか……」


 かすれた声が漏れる。

 アゼレアの唇が、今まで見たことのない冷たい笑みを形作った。


「叔父上。父を毒殺した男を、私が心から信用していると思ったのですか?」

「――――!」


 メネズが愕然としたように目を見開いた。

 その瞬間、アゼレアがずっと裏で動いていたのだと、わたしも悟った。


 わたしの喉がからからに乾く。

 でも、耳を塞げなかった。

 震える膝を止めるために、きゅっと腿に力を込める。


 アゼレアは一歩も退かず、続けざまに言葉を突き立てる。


「禁制品の流れ、失敗に終わった実験……それらを私が知らなかったとでも? むしろ――ずっと貴方の影に寄り添い、その手を導いてきたのは、この私自身」


 挑発するようなその口調に、メネズの顔が怒りと恐怖で歪んでいく。


 従者たちが固唾を飲んで見守る中、室内は一層、張り詰めた。


「……私を、本気で欺けると?」


 アゼレアは挑発的に煽る。

 しかし、その声音は低く、剣の切っ先のように冷たく鋭かった。


「禁制品の流れも、実験に使われた者たちの悲鳴も、すべて耳に届いておりました。孤児が忽然と姿を消せば、どこへ連れていかれたのか――調べるまでもない」


「……うっ」


 メネズの喉が詰まり、苦しげな音が漏れる。

 額から伝う汗がぽたりと落ち、机の上に黒い染みを作った。


 その様子に、アゼレアは冷ややかな微笑を浮かべた。


「貴方の手が汚れるたびに、私は帳消しにしてきたのですよ。無関係な子供を遠方に逃し、証拠を消し、時には犠牲を作ってでも、もっとも罪深い者たちを貴方の手で裁かせた」


 ……アゼレア、あなたは……。


 メネズがうろたえる。


「な、何を……」


 従者たちも目を見開き、動揺したのがわたしにも伝わった。


「貴方は、道具にすぎなかったのです……叔父上」


 アゼレアの声が、また一段低くなる。


「この町を食い物にしていた貴族や商人を、貴方の名で処刑し、権力者に恐怖を植えつける。愚か者を排除し、私の目に値する者を生かす。それこそが、私の裁き」


 胸が(わし)掴みされたように苦しくなる。

 アゼレアの言葉は残酷なのに、なぜか正しいことを言っているように響いてしまう。


 ……裁き。


「お、お前は……」


 メネズの声が怒りで震える。


「兄を……お前の父を、この私が手にかけたと知っていて……それでもなお、私を操っていたというのか!」


 アゼレアは涼やかに頷いた。


「ええ。その通りですわ」

「……っ!」


 メネズが愕然とし、肩を震わせる。


「トバルを守るために――そして、貴方のような卑劣な者を表に置くことで、敵を欺き、都合よく切り捨てられる駒として利用するために」

「貴様ぁっ!」


 メネズが机を叩き、立ち上がる。

 その手が震えているのが、わたしの目にもはっきりと映った。


 アゼレアの瞳が鋭く光る。

 その横顔は、まったく揺るがない。


「禁制品は制御できず、実験は失敗し続け、貴方の名に泥を塗るばかり。それも当然。私が――そう仕向けたのですから」


「な……に……!」


 メネズの顔から血の気が引き、唇がわなないた。

 従者のひとりが息を呑む音が、室内に重く響いた。


 アゼレアが静かに告げた。

 これが最後とでもいうように。


「叔父上。貴方の支配は――私を引き入れた時点で終わっていたのです」


 ……アゼレア。


 部屋の空気が、今にも弾けそうなほど張り詰めていく。


 わたしは服の裾を握りしめ、ただ震える息を殺すことしかできなかった。


「だ、黙れぇっ!」


 メネズが喉を裂くように叫んだ。

 顔は怒りと恐怖で歪み、口元からは唾が飛んでいる。


「そんな証拠は……ない! 全部、お前のでっち上げだ! 権力を簒奪するための芝居に決まっている!」


 その言葉は怒鳴り散らすにはあまりに必死で、耳に届いた瞬間、胸の奥がひどくざらついた。

 だけど――必死に逃げようとしているのが、ありありと見えてしまう。


「この女を捕らえよっ! 今すぐだ!」


 メネズが振り返り、従者たちに命じた。

 だが、彼らは互いに顔を見合わせるばかりで、誰一人として動こうとしない。


「……なぜ動かぬっ! 命令だぞ! アードはこの私だっ!」


 メネズの声が裏返り、必死に命令を繰り返す。

 けれど、従者たちの視線は揺れていた。


 動揺。疑念。

 前アード殺害の真実を、今ここで突きつけられたことで、誰が正しいのか分からなくなっているように見える。


 わたしは息を呑む。

 その静止した空気の中で、アゼレアだけが揺らがない。


「叔父上……滑稽ですわね」


 冷ややかに言い放つと、彼女はゆっくりと窓の方へと歩み寄った。


 カーテンをわずかに開き、外の様子をちらりと見やる。



「もう一つ、教えて差し上げます」


 アゼレアの声は妙に穏やかで、それが逆にわたしの背筋をぞくりとさせた。



「なぜ、私がこうして長々と……ここで喋り続けていたと思います?」

「な、一体、何を……?」


 メネズの顔がひきつる。

 アゼレアは口元に冷たい笑みを浮かべた。


「――どうやら、お友達は捕まったようね」


 窓の外。

 数人の兵が、縄で縛られた男を引き立てて歩いているのが見えた。


 ……ダズマだ。


 わたしは思わず目を見開いた。

 その姿は、まるで逃げ場をなくした獲物のように小さく見えた。


 不思議だったのは、数人の兵に混じり、あの晩の酔っ払いの姿もあった。


 ……どうして? あの酔っ払い、兵士だったの?



「では、正解を教えて差し上げます」


 その声にはっとして、わたしは視線をアゼレアへ戻す。


 アゼレアがゆっくりと振り返り、メネズを見据えた。



「――ただの時間稼ぎですわ」



 アゼレアがそう告げた直後だった。


 執務室の外が、にわかに騒がしくなった。

 足音、甲冑の打ち鳴らすような金属音、短い命令の声。


 耳に届くその音だけで、胸がぎゅっと縮こまる。


「な、何事だ……?」


 メネズが怯えたように扉の方を振り返る。

 ざわめきの中に、はっきりとした呼び声が混じった。


「第三騎士団だ。道を開けろ!」


 その一言に、従者たちの顔色が一気に青ざめた。

 わたしも思わず息を止める。


 第三騎士団。

 役所の噂でしか知らないけれど、法の鉄槌を下す者たちと恐れる存在。


 彼らに狙われるということは、すなわち……。



 重たい扉が、外から押し開かれた。


 先頭に立つのは、赤い髪の騎士風の男。

 鋭い眼光で室内を見回すと、わずかに顎を引き、背後へ合図を送った。


 続いて入ってきたのは――見慣れたプラチナブロンドの髪。


「……所長?」


 思わず声が漏れた。

 けれど、すぐに喉が詰まる。

 そこに立つのは、わたしの知る所長でありながら、全く別人のように見えたから。


 いつもは冷静で静かな彼。

 けれど、今纏うのは、圧倒的な威圧感。

 鋭く透き通る紫の瞳が、室内のすべてを射抜くように光り、空気そのものを支配していた。


「あ、あぁ……」


 従者たちが、顔面蒼白のまま後ずさりする。

 わたしも胸の鼓動が早まる。


 安堵と恐怖が入り交じり、息が苦しくなる。


 助かった――その思いが込み上げる。

 けれど同時に。


 ……ほんとに所長……なの。


 そう呟く自分の心の声が、耳の奥で響いていた。



 紫の瞳が、すべてを見透かすように一瞥する。

 室内にいた全員が息を呑んだ。


 所長は一歩前へ進み、赤髪の騎士に目配せをした。


「書状を」

「はっ」


 騎士が短く答え、巻物を差し出す。

 所長はそれを受け取ると、広げもせず淡々と口を開いた。


「――メネズ・トバル。並びにその一族に告げる」


 低く冷たい声が石壁に反響し、重たく響いた。

 その声音だけで、わたしの背筋が凍りつく。


「ハイメンダルとの内通の疑い。禁制品の使用および流通。人体実験を主導し、加担した罪。そして――前アード殺害」


 一つひとつの罪状が告げられるたび、呆気にとられているメネズの顔から、血の気が引いていく。


 従者たちも青ざめ、膝が震えているのがわたしの目にも映った。


「これら、いずれも証拠と証言が揃っている」


 所長は淡々と続ける。


「すべてを照らし合わせ、サンドレアム法に基づき――」


 短い沈黙。

 室内の空気が張りつめ、わたしの鼓動が耳の奥でうるさく響いた。


「バニア・サンドレアムへの反逆罪。メネズ・トバル、およびその一族を、極刑に処す」

「ひっ……!」


 誰かが小さく悲鳴を漏らした。

 それが従者なのか、あるいはわたし自身だったのかすら、わからなかった。


 所長の紫の瞳が、冷徹にメネズを射抜く。

 まるで、情けも哀れみも存在しない、絶対の裁きの光のようだった。


 赤髪の騎士が即座に合図を送り、兵士たちが一斉に動き出した。


 甲冑の音が鳴り響き、緊張がさらに高まる。


 メネズは顔を真っ赤にし、唇を震わせた。


「ま、待て! 私はアードだぞっ! お前たちにそんな権限は――」

「――ある」


 所長の冷たい一言が、その叫びを断ち切った。


 わたしは拳を握りしめた。

 胸の奥から、どうしようもない震えが込み上げてくる。


 体の震えが止まらず、膝が笑い、立っているのがやっと。


 所長の姿が、あまりにも遠い存在に思えた。


 冷徹な宣告が終わると同時に、赤髪の騎士が短く命じた。


「皆動くなっ! 従者ども、武装を解け。全員、壁に並べ」


 兵士たちが素早く動き、従者たちの腰から剣を引き抜いて床に叩き落とす。

 甲冑の金属音が重く響き、再び部屋全体の空気が弾けんばかりに膨れ上がる。


 わたしですら、喉元に刃を突き立てられているような錯覚を感じるほどに。


 従者たちは抵抗することなく、怯えきった顔で壁際へ追いやられていく。



「ま、待て……!」


 メネズが慌てて叫んだ。


「彼らに触れるな! 従者たちは私の配下だ! 勝手に動かすことは許さん!」


 その必死の声に、兵士たちが一瞬動きを止める。

 だが、赤髪の騎士は冷ややかに言い放った。


「――壁に並べ」


 命令に従って、従者たちは次々と並ばされていく。

 誰も逆らわない。彼らもまた、騎士団の前では抗う術がないことを悟っていた。


「待て! 待てと言っている!」



 メネズが震える手を前に突き出した、その瞬間――。



「……結べ」



 所長が小さく呟いた。

 その声は驚くほど静かだったのに、次の瞬間、乾いた音が部屋に響いた。



 メネズの右手の指が、ぽとりと落ちた。


 赤く散ったものが机に落ち、彼の悲鳴が室内を裂く。


「ぎゃあああああっ!」

「――動くなと言っただろう」


 所長の声は恐ろしいほどに冷たく、淡々としていた。

 その無慈悲な響きに、冷や汗が止まらない。


 メネズは指を押さえながら後ずさり、涙と涎を垂らしながら必死に呻いている。


 従者たちは顔面蒼白で、誰一人声を出せなかった。



 わたしは……息ができなかった。

 心臓が早鐘を打ち、指先まで震えて冷たくなる。


 ……こわい。所長、こわいよ……!


 助かったはずなのに。

 わたしを守ってくれる人のはずなのに。

 ――いま目の前にいるのは、容赦なく「法」を執行する人だった。



「連行せよ」


 所長の短い命令で、兵士たちは動き出した。


 壁際に並ばされていた従者たちは次々と縄で縛られ、連れ出されていく。

 彼らの顔は蒼白で、目の焦点さえ合っていなかった。


 従者に「事情聴取だ」と、騎士が短く告げた。

 けれど、その言葉の裏にあるものを、わたしは考えたくなかった。


 続いて、床に崩れ落ちていたメネズが押さえ込まれる。


「放せ! 私はアードだぞ! 離せぇっ!」


 叫びは虚しく、腕をねじり上げられ、縄で拘束される。

 その姿は、威厳など欠片もない、ただの往生際の悪い男だった。


 そのとき、廊下から走る足音がした。

 扉の隙間から覗き込むように、ロエナが顔を出す。


 彼女の瞳が大きく見開かれ、蒼白な顔でただじっと室内を見つめている。


 声も出せず、けれど一歩も引かない。

 それを見たわたしの胸が、ズキンと痛んだ。



「……ところで」


 所長がふいに視線をこちらに向ける。


「この幼女は何者だ?」


 心臓が凍りついた。

 喉が動かない。答えられない。


「ただの女中見習いですわ」


 アゼレアが何でもないように口を開いた。


「退屈しのぎに遊ばせていただいている――私のおもちゃにすぎません」

「……そうか」


 所長はわずかに頷くと、冷たく言い放った。


「ならば離れていなさい。巻き込まれて死ぬこともある」


 ……今は、他人として振る舞わなきゃ。


 心の奥で、必死に自分に言い聞かせる。

 震える体を抑え、ぐっと拳を握り込む。


 わたしは目を伏せ、小さく頭を垂れた。



 兵士たちがアゼレアに縄をかける。

 彼女は、涼やかな顔で受け入れていた。

 すでに覚悟していたのだろう。


 その姿を見て、わたしの喉が焼けるように熱くなった。



 ……だめよ。だってあなたはずっと……。


 気持ちに突き動かされるように、前へ踏み出していた。


「ま、待ってください!」


 気づけば、声が喉から飛び出していた。

 わたしの足は勝手に前へ動き、アゼレアに駆け寄る。


 兵士たちの手が止まり、所長の紫の瞳がわたしを見下ろす。



「どうか……! アゼレア様の命だけは……助けて、ください!」



 わたしの声はかすれて震えていた。

 それでも、心の奥からあふれ出る思いは止められなかった。


 視線が一斉にこちらへ集まる。

 けれど、所長の紫の瞳だけは冷たく揺るがない。


 ……ねぇ、所長……所長なら、助けられるんでしょ?


 胸が焼けるように熱く、喉が詰まって息苦しい。

 けれど、それでも――言わなければいられなかった。


「わ、私からも……!」


 背後から必死な声が重なった。ロエナだ。

 頬を涙で濡らし、わたしの隣に並んで頭を下げている。


「お願いします……どうか……!」


 わたしたちの願いを、所長はただ静かに見つめていた。



 やがて、低く重たい声が落ちる。


「……無駄だ。法は曲げられん」


 その言葉が胸を抉った。


 全身の力が抜けそうになり、膝が崩れかける。

 冷徹な響きが希望を完全に断ち切った。



 ……所長、なんでそんな悲しい顔をするの。本当は助けたいんじゃないの?


「……ルルーナ」


 アゼレアがそっと名を呼んだ。

 わたしが顔を上げると、縄をかけられたまま、それでも柔らかな笑みを浮かべていた。


「あなたたちまで罰せられてしまうわ。それでもいいの?」


 優しく、けれど静かな声。

 諭すような響きに、わたしは首を横に振った。



「でも……! でも……!」



 肩が小刻みに震えて、上手く言葉がでない。

 気付けばアゼレアに抱きついていた。


 

「いや……です……! アゼレア様……!」


 わたしの後ろから、ロエナも抱きついてくる。

 三人で重なり合うように、必死に繋がっていた。



 言葉にならない声しか出なかった。

 涙で視界が揺れる。

 それでも必死にすがった。


 

 アゼレアは少し身をかがめ、わたしと視線を合わせた。


 琥珀色の瞳が、ほんの少しだけ優しい光を宿す。



「ありがとう……あなたは、私の最後の希望だった」



 その囁きが耳に残る。

 次の瞬間、兵士たちがアゼレアを引き離す。



 わたしの手は宙を掴むように伸びたが、指先は何も掴めない。


 その背中が扉の向こうへ消えていく。

 視界は涙で霞み、主のいない部屋には、ただ嗚咽だけが残った。










ここまで拙い文を読んでいただきありがとうございます!


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