58話 手遅れ ~痕跡が示す意味~
夜の帳が再び邸を覆った。
所長からの念話を待つべきか迷ったが、このチャンスは見逃してはいけないと思った。
昼間に見つけた裏口の裂け目は、闇の中で息を潜める獣の口のように見える。
庭の木々がざわめき、月は雲に隠れ、あたりは黒一色に沈んでいる。
「……今度こそ」
小声で呟く。
見張りはいない。
土を払って膝をつくと、わたしの掌に冷たい泥がまとわりついた。
恐怖で胸が重くなるが、ここで逃げたらもう二度と真相には触れられない気がした。
体を横にし、隙間へとぐっと潜り込む。
衣が泥で濡れ、腕に小石が擦れる。
土の匂いが鼻に強く入り込み、息を詰めながら進んだ。
ようやく抜け出すと、ひやりとした空気が頬を撫でた。
……ここが蔵の内側。
わたしは目が慣れるまで、しばらくじっとした。
微かな月明かりが板の隙間から漏れ、ぼんやりとした線を描いている。
だんだんと目が慣れてきたところで見渡すと、中は意外なほど整っていた。
木箱が積まれ、樽が並び、布袋が整列している。
しかし、蓋を開けた箱も樽も、中身はすべて空だった。
「……からっぽ」
声が震える。
床に膝をついて指先で探ると、灰のような粉がほんのわずか残っていた。
摘んで匂いを嗅ぐ。
草を焦がしたような、鼻に刺さる匂い。
だが量はあまりにも少ない。
壁際の棚には、小瓶を並べた跡が残っていた。
丸い輪の埃が途切れ、瓶の底の形だけがくっきりと残っている。
「持ち出されたんだ……」
ここにあるのは、証拠ではなく痕跡だけ。
床には木屑や擦れ跡。
何か重い荷を引きずったような線が、裏口の方へと伸びている。
だが、穴は狭い。荷車が通れるはずもない。
外で待たせてあった荷車に、内側から少しずつ運び出したのだろうか。
……誰かが、証拠を回収したんだ。
線の先には、新しい土が撒かれ、痕跡を隠そうとしていた跡が見える。
それは偶然ではなく、意図的。
わたしが来る前に、誰かが先回りしたのだ。
「……間に合わなかった」
拳を握るが、力が抜ける。
そのとき、闇の中で淡い光が瞬いた。
小さな精霊が、埃の積もった棚板の一角を指すように舞う。
ゆっくり近づくと、そこに掠れた文字が刻まれていた。
……調合。
かすかに読めるだけの走り書き。
そして、その下に赤黒い染みが滲んでいた。
「……消し忘れたのね」
囁いた声が空気に吸い込まれる。
まるで消された跡を拾えと告げるように、精霊たちはくるくると舞い、やがて散っていった。
わたしは裏口から這い出し、夜の庭に戻る。
冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、泥だらけの手を握りしめた。
足元に、昼間見つけた小さな靴跡が続いている。
裏口の裂け目に、重なるようにして散っていたあの足跡。
……やっぱり、子供がここから出入りしていたんだ。
逃げ出せたのか、それとも連れ出されたのかはわからない。
だが、確かにここに孤児たちはいた。
証拠は消された。
でも、空っぽの樽、消えた瓶、床の線、灰の匂い。
あれらは全部、偶然じゃない。
月が雲間から顔を出し、庭を白く照らした。
その光を浴びながら、わたしは唇を噛みしめる。
「……必ず見つけてやるんだから」
闇の奥で誰かが見ていた気がしたが、わたしは振り返らず、所長の連絡を待つため、客室へと足を早めた。
しかし、その日も結局、所長からの念話は届かなかった……。
◇ ◆ ◇
翌日、責任者室の机に帳簿を広げた。
夜に潜り込んだ蔵の冷気と、焦げた草のような匂いがまだ鼻に残っている気がする。
眠気よりも胸の奥のざわめきが強く、手にした筆は震えていた。
「……空の樽、消費記録なし。小瓶の跡、返却記録なし」
どう考えてもおかしい。
「床の擦れ跡、搬入経路に記録なし」
声に出しながら、余白に書きつけていく。
数字が増えるごとに、矛盾の輪郭が濃くなっていった。
……やっぱり隠してる。
ページをめくる手が止まる。
記録と残滓を重ねると、どうしても浮かぶ像がある。
あの蔵。そして、孤児の足跡。
唇をぎゅっと噛む。
きっと、このまま黙っていれば安全だっただろう。
でも、もし本当に子供たちが巻き込まれているなら……。
「聞かなきゃ」
小さく呟き、帳簿を抱えて執務室へ向かった。
執務室の扉を叩くと、低い声で「入れ」と返ってきた。
中は重苦しい沈黙に満ち、窓際に立つアゼレアが振り返る。
琥珀の瞳が、冷たくわたしを射抜いた。
「何の用?」
机の上に帳簿を置き、震える指で頁を開いた。
「数字が、合いません」
言葉を選びながら、矛盾を並べていく。
「油も、塩も、小瓶も、記録通りに消費された形跡がありません。それに……蔵の裏で見た足跡。あれは、子供のものです――この邸で、何を隠しているんですか?」
怖くて声が震えた。
けれど視線だけは逸らさなかった。
アゼレアはしばらく沈黙し、やがて小さく笑った。
「……ずいぶんと積極的ね」
冷たさの中に、何かを量るような響きが混じる。
「けれど数字の矛盾なんて、建前に過ぎないでしょう?」
アゼレアはゆっくり歩み寄り、机に指先を置く。
わたしは震えないように、ぎゅっと服の裾を握る。
「あなたが本当に知りたいのは――孤児たちのこと」
ドクンっと心臓が大きく跳ねた。
喉に声が詰まる。
アゼレアはすべて見抜いている。
「答えてください……アゼレア様」
わたしが必死に絞り出した声は震えていたが、言葉だけは確かだった。
そのとき、廊下から荒々しい足音が近づいてきた。
次の瞬間、扉がバンッと勢いよく開かれた。
「アゼレア!」
重々しい声が室内を震わせる。
わたしはそれに驚きつつも、その人物を見た。
入ってきたのは、現アード・トバル――メネズだ。
すでに興奮しているのか、その顔はうっすらと赤みを帯びていた。
頬に深い皺を刻み、目は鋭く光っている。
後ろには数人の従者が従い、まるでわたしの退路を塞ぐかのように入り口に並び、こちらに冷たい視線を向けてきた。
その瞬間、部屋の空気が一気に張り詰めた。
「一体どういうことだっ! 蔵の品が消えたとは!」
顔をしかめて、威圧するような怒声に、わたしの体がびくりと震えた。
「叔父上、一体何があったのです?」
「おまえの邸で保管しておいた品が消えたのだっ!! 説明せよ! どう責任を取るつもりだ!」
その言葉に、部屋の空気がさらに重たくなるのを肌で感じる。
だが、アゼレアは全く動じた様子もなく、ただ淡々と返す。
「叔父上の蔵の管理は、私の管轄ではありませんのよ。そもそも、あの辺りは立ち入り禁止。そのうえ、鍵すら受け取っていないというのに」
……管理していたのは……やっぱりメネズ?
「では一体誰だ! 誰の差し金だ! まさか――お前か」
その視線が、真っ直ぐこちらへ突き刺さる。
メネズが顔を向けると、従者たちも一斉に冷ややかな視線をわたしに向ける。
……えっ!?
わたしは血の気が引き、手の中の帳簿が揺れた。
どうするのが正解だろうか。
焦りが、大きくなる。
「わ、わたしは――」
言いかけた瞬間、強く机を叩く音が部屋中に響いた。
「黙れ! 小娘如きが口を開く場ではない!」
怒鳴られて、背筋が凍りついたみたいに固まった。
アゼレアは一歩前に出て、侮蔑するように琥珀色の瞳を細めた。
「叔父上。大声は無用です」
メネズは深く眉間に皺を刻み、さらに怒りを増したようだ。
アゼレアを血走った目で、ぎろりと睨みつける。
主人の怒りに呼応するように、従者たちは目で合図を送り合い、腰の剣に手をかけた。
「彼女はただの在庫管理の責任者。何も知りませんわ」
「なんだと……貴様が拾ってきたおもちゃではなかったか? なぜ小娘が責任者になっておる」
アゼレアは心底呆れた声で言った。
「責任者が不在でしたの。あのままでは、使用人たちが使い物になりませんわ」
「貴様があれもこれも、気分で処分してしまうからであろう!」
アゼレアが、わたしに視線を向ける。
「ですが、叔父上が任命した前任よりも……仕事はできてよ?」
……アゼレアは何を考えているの?
メネズの怒りは止まることを知らず、会話を交わすごとに膨れ上がる。
わたしにはアゼレアの考えはわからず、二人の応酬をただ見守るしかなかった。
アゼレアの冷静な態度とメネズの焦り、その差がわたしは怖い。
ひたすら冷静に対応するアゼレアは続けた。
「それよりも、ダズマです。まさか、捜索を命じたわけではありませんよね?」
それを聞いたメネズは眉をひそめ、若干の冷静さを取り戻したようだ。
「どういうことだ? 品が消えたと報告したのは奴だぞ。今も捜索中だ」
アゼレアが口の端を上げて、微笑む。
「捜索? 本当に? ……逃げたのではなくて?」
メネズは「馬鹿な!」と否定するものの、目が大きく見開き、怒りよりも疑念が上回ったように見える。
従者たちにも動揺が伝わったのか、お互いに顔を見合わせ不安そうにざわめくのが、わたしにもはっきり見えた。
「まさか……。いや、そんなはずは」
明らかにメネズが動揺した。
視線が泳ぎ、必死に言葉を探している。
アゼレアがメネズから遠ざけるように、わたしの震える肩に手を置き誘導する。
……アゼレア?
そして再び窓際に立つと、窓の外に顔を向け、すぐに戻した。
わたしをちらりと確認したアゼレアは、肩に置いた手を離し、一歩前へ出た。
「叔父上、早くしないと手遅れになるのでは?」
メネズが目に見えて焦っているのが、わたしにも伝わってきた。
額には汗が滲み、うろうろと戸惑う。
どうすればいいのか、必死に考えているように見える。
「少し黙れ、アゼレア! くそっ、まだ何か……何か手は……!」
怒鳴り返すメネズの声には、焦燥が滲んでいた。
彼も何かに気づいている。
――何かが、もう手遅れになりつつあることを。
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