57話 手遅れ ~番人と裏口~
湯あみを終えると、アゼレア邸は深い呼吸をしているみたいに静まり返る。
木々の葉が触れ合う微かな音と、遠くの見張りの交代を告げる鈴の音。
北庭へ向かう小道は昼間よりも広く見えるのに、足を運ぶたび闇が濃くなる。
責任者室のロウソクを消すときに固めた決意は、胸の奥にまだ熱かった。
帳簿の空白、雨の轍、轍の痕、薬草めいた匂い。
その全部が同じ場所を指していた。
確かめるなら今夜。
見張りの目が薄くなる、この時に。
……この邸に来て七日目、もう覚えたよ。
砂利に足音を落とさないよう、小さく歩幅を刻む。
暗がりを精霊たちの先導とともに進む。
鼻先をかすめる、乾いた草の匂い。
焦がした何かの、気配。
あの蔵が近い。
昼間見たぬかるみの手前に立つ。
泥はもう冷え、月の白い光を吸い込んで鈍く光っている。
指で触れれば、まだ柔らかい。
今夜も、誰かが通ったはず。
息を整え、影の濃い方へ身を滑らせようとした、そのとき。
「……おやぁ?」
暗がりから、ろれつの回らない声が落ちてきた。
低く笑う気配と一緒に、ゆらゆらと人影が小道ににじみ出てくる。
片手に酒瓶、襟元ははだけ、足取りは蛇行。
月に照らされた頬は赤く、目は半分閉じている。
「こんな時間に、どこのお坊――いや、お嬢ちゃんだぁ?」
……こっちの台詞よ。この時間、使用人はここにはいないはずなのに。
酒の匂いが風に乗って鼻を刺す。
安い蒸留酒のきつい匂い。
「迷子かぁ? 夜の庭ぁは、狐が出るぜえ。ひっく」
脇へ寄ろうとすると、ふらりと一歩、こちらの前に滑り込んだ。
偶然のふりをして、道を塞ぐみたいに。
「すみません、少し……風に当たっていただけです」
声が震えないよう、腹の奥で押しとどめる。
「風ぇ? 風は南からだぁ。北はよくない、よくない」
男は指をぶらぶらさせて、北庭を示す。
「ほらぁ、あっちは、姫さまぁのお怒りが出るところだ。近寄るなぁ、なぁ?」
……姫様――アゼレアのこと?
わざと大袈裟に怯える素振り。
その口元の笑いが、酔いの影に隠れて読めない。
「戻るなら、送ってってやるよぉ。ほら、夜風は子供に毒だ」
肩に置かれそうになった手を、半歩さがって避ける。
精霊たちも男を取り囲むが、酒の匂いが嫌なのか、一定の距離を保ち、近づこうとしない。
……くっさ! この人、どんだけ飲んでるのよ。
ふらり、ふらり……男は転ばない。
砂利で足を取られる気配がない。
ふらふら揺れるたび、必ず、道の真ん中に戻る。
その動きを見て、わたしは嫌な考えが頭を巡る。
メネズの手の者だろうか。
それとも、北の蔵へ行く者を見張る役だろうか。
男は上機嫌に鼻歌を始めた。
旋律は雑だが、歩調だけは乱れない。
「嬢ちゃん、夜は寝るものだぁ。蔵の方は鼠が出る。噛まれたら大ごとだぁ。狐も出る。幽霊も出る」
そう言いながら、わざとらしく身震いして見せ、あははと笑う。
「幽霊は、出ません」
思わず口からすべり落ちた言葉に、男は目だけで笑った。
「強い子だ。強い子ほど、早よ寝る。な?」
わたしは唇をぎゅっと結ぶ。
……これじゃ、通れない。
ここで押し切れば、声を上げられる。
誰かを呼ばれたら、今夜わたしがここに来たという事実が跡になる。
それではロエナや、使用人たちに迷惑がかかってしまう。
「戻ります」
そう言って、わたしは踵を返す。
背中に、酔っ払いの軽い拍手がぱちぱちと聞こえる。
「賢い、賢い。嬢ちゃんは賢い子だ。ほら、足元見な。転ぶなよぉ」
言葉だけは優しい。
けれど、薄い笑い声がそのまま背中に貼り付いて離れない。
来た道を戻る間、何度か振り返りたくなった。けれど振り返らなかった。
背中を見せたときに、足音がどう変わるかだけを聴いた。
男の足音は、わたしの足音に合わせて、一定の距離を保ったまま遠ざかる。
ふらつく音の裏に、規則正しい靴の底の硬さが潜んでいる気がした。でも、気のせいかもしれない。
そう自分に言い聞かせる。
邸の明かりが見える場所まで戻ったとき、はじめて振り返った。
もう誰もいない。
北庭の方は、月の光だけが雲の隙間から差し込んでいた。
客室の扉を閉め、後ろ手で鍵を閉める。
ここまで来れば安全だろう。
今のわたしにとって、唯一のセーフゾーンだ。
ふぅと息を吐いたとたん、膝の力が抜けそうになった。
机に手をついて、目を閉じると、鼻の奥に酒の匂いがまだ残っている。
……怖かったぁ。
まだ震えは止まらないが、わたしは帳簿の端に小さな字で書き付ける。
……さてと、記録しなきゃね。
夜、北庭手前で酔った使用人に遭遇。
蔵方面への進入、阻まれる。
言動は粗雑だが、足取りは乱れず。
意図的に道を塞ぐ。
ネメズの関係者の可能性。再接近は別手段で。
筆先が震え、紙に微かな傷を残した。
ふと、ロエナの顔が浮かぶ。
……余計な不安は、渡さない。言わないでおこう。
明日の昼、別の入口から距離を測る。
倉の鍵穴の形、錠の傷も明るい時に見直す。
――「アゼレアの真意を探れ」
所長の声が、乾いた紙の上にもう一度落ちた気がした。
窓の外の風が一度強くなって、すぐに止む。
月が雲に隠れ、部屋が一段と暗くなった。
胸の鼓動はまだ速いけれど、それは恐怖だけじゃない。
エステラ譲りの負けん気のせいだろうか、自己分析しつつ少し笑ってしまう。
……似るもんだね。
悔しさと、次の手を考える熱が同じ場所で渦を巻いている。
「……負けない」
小さく声にして、帳簿を閉じた。
今夜は退いた。次は、わたしの番だ。
◇ ◆ ◇
朝もやの名残が窓に淡く残り、責任者室に差し込む光はまだ冷たい。
机に広げた帳簿を前にしても、あの夜の光景が頭から離れない。
所長に報告しようにも、連絡はなかった。
酔っ払いの使用人。
月明かりに照らされた笑い顔、酒臭い息。
偶然に見えて、道を塞ぐ足取りだけは決して崩れなかった。
「……あれは、本当にただの酔っ払い?」
囁く声が自分の耳に重く響いた。
もしかすると、メネズの手の者かもしれない。
北の蔵に近づくのを止めるために、わざと夜に番をしていたのではないか。
ロエナが静かに入ってきて、机に朝食代わりのパンと温いスープを置いた。
「お嬢さま、顔色が優れません」
「大丈夫。少し寝不足なだけ」
わたしは笑ってみせるが、ロエナの瞳はまだ不安を隠せないでいた。
スープを口に運びながら、帳簿をめくる。
何度見返しても、数字は揃っていない。
油樽、塩袋、小瓶、酒精。
どれも戻り記録が抜けている。
「これだけじゃ、足りない」
昨夜、証拠を押さえようとして蔵に近づいた。
でも、妨害された。
ならば次は痕跡だ。
帳簿に残った数字の穴を、拾い集めるしかない。
――「些末に見えるものほど重要」
今なら、所長が言っていた意味がよくわかる。
わたしはページの余白に走り書きする。
油樽、十から七。 消費記録なし。
塩袋、八から五。 消費記録なし。
小瓶、十六から七。 返却なし。
酒精の減り。 厨房未使用。
「数字は嘘をつかない。もし誰かが隠しても、帳簿は覚えてる……」
つい声に出る。
筆先を強く押し当てる。
小さな字が積み重なり、矛盾が輪郭を描いていく。
別の部屋で倉庫の出入り記録をまとめていたとき、若い下働きの使用人が口を滑らせた。
「そういえば、北庭の小径で夜に人影を見たことが……誰かって聞かれても、暗くて分からないけど」
別の者は言った。
「空樽を運んだ記憶がないんです。なのに、記録には返却済みの印が……」
皆が怯えたように声を落とす。
「代理人の命令なら、逆らえないから……」
代理人メネズ。
ここでもその名前。
責任者室に戻り、記録と証言を突き合わせる。
矛盾は確かに積み重なっている。
だけど、それだけでは状況証拠にすぎない。
……証拠は消されてる。
でも、消された跡があるなら、それを集めればいい。
筆を走らせる指が止まらない。
昨夜、退かざるを得なかった悔しさが、胸の奥で燃えている。
「もう一度」
そう呟いた声に、ロエナが振り返る。
心配そうな瞳に気づき、わたしは慌てて、にこりと笑う。
「大丈夫。まだ、やれることがあるから」
昼下がり、空気は柔らかく、光が庭の芝をまだらに照らしていた。
使用人たちは家事に忙しく、北庭の小道にはほとんど人影がない。
わたしは小さな布玉を抱えて、わざとらしく軽やかに跳ねながら進んだ。
……遊びよ。遊びのふり。
心の中で繰り返す。
ただの子供が、遊びで庭を駆けている。
それ以上に見えないように。
子供が子供のふりをする。
布玉を転がしながら、北の蔵の前にたどり着く。
わざと玉を強く弾いて、蔵の壁際に転がしてみせる。
「わぁ、いっちゃったぁ……」
我ながら下手糞な演技でそう呟いて、蔵のまわりをぐるりと回り込む。
正面の錠前は、やはり黒々と輝いていた。
昼の光に照らされると、その不自然さはいっそう際立つ。古びた蔵の木戸に、まるで昨日つけたような新しさだ。
「正面は……やっぱり無理」
わたしはそっと玉を拾い上げ、わざと裏手に転がすと、布玉は草をかき分け、蔵の影へと消えた。
蔵の裏は北風が吹きつけるせいか、じめじめと湿って苔が張りついていた。
板の隙間からは冷たい風がしみ出していて、草もまばらにしか生えていない。
わたしは布玉を探すふりをして、しゃがみ込む。
土に手を触れると、乾いた泥が崩れた。
そこには小さな靴跡が、いくつも交差していた。
……また、子供の足跡だ。
間近で見る。
確かに大人の靴とは違う丸みと浅さ。
何度も踏まれているのか、踏み固められ、筋のように続いていた。
胸のドキドキが止まらない。
でも、これだけでは裏口がある証拠にはならない。
そのとき、頬にふわりと風が触れた。
葉一枚も揺れていないのに、髪だけが小さく撫でられる。
「……みんな?」
小声で呼ぶと、淡い光の粒が視界の端に瞬いた。
庭の空気に紛れるように、小さな精霊たちが集まっていた。
そのうちの一つが、土の上をくるくると舞い、ある一点を示すように動く。
「何かあるの?」
近づいて覗き込む。
苔に覆われた壁際。
よく見れば、板の下端にわずかな隙間があり、泥の色が不自然に濃い。
小さな手で押してみると、簡単に土が崩れ、中から冷たい空気が流れ出した。
「穴?」
大人の片足が入るほどの裂け目。
大人では無理だが、子供なら潜り込めるかもしれない。
さらに精霊が、板と板の隙間をすり抜けるようにきらめいた。
次の瞬間、内側からかすかな匂いが漏れた。
焦げ草の匂い。
夜に嗅いだ、あの蔵特有の臭気だ。
「やっぱり……ここから出入りしてる」
昼の光に照らされ、足跡と穴と匂いが重なって、はっきりと繋がった。
わたしは布玉をぎゅっと握りしめる。
北の蔵には裏口があった。
子供の足跡が導いた線は、精霊たちが照らしてくれた。
「ありがとう……」
光の粒たちに小さく頭を下げる。
精霊たちは満足そうにくるりと舞い、やがて陽光に溶けるように散っていった。
胸の奥に力が集まる。
「……必ず」
裏口を見つけた今、もう逃げる理由はない。
その瞬間、蔵の正面の方から人の足音が聞こえた。
誰かが巡回している。
わたしは布玉を握りしめ、草の影に身を潜めた。
次は夜だ。この裏口から中に入る。
その決意だけを胸に、わたしは足音が過ぎるのをじっと待った。
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