56話 繋ぐ ~見えてきた糸~
夕刻、責任者室へ移動し整理した帳簿をめくっていると、見慣れぬ署名が目に留まった。
代理人用の印の脇に、震える筆跡で書かれた名前。
「……メネズ」
……たしか、現アードの名前だったはず。
なぜ、市長である人物の名がここにあるのか。
しかも、正規の帳簿とは別の薄汚れた紙片に。
使用人に尋ねても、皆首を振る。
「わたしたちには、わかりません……」
けれど確かに、署名はそこに残っていた。
命を繋ぎとめた夜。
客室のロウソクが揺れる中、頭に響く声を感じた。
(――聞こえるか、ルルーナ)
所長の声。
低く、しかし確かな響き。
(はい……聞こえます)
(まずは、無事だな。手短に話す。時間がないのでな。トバル南の廃坑で、孤児たちが見つかった。数は多くはないが、人の手で集められていた形跡がある)
(それってどういう……)
農地の奥。
あの廃屋で聞いた処分の言葉。
……処分場。
嫌な思いが込み上げて、胸が苦しい。思い出すだけで背筋が冷たくなる。
(あの……所長)
(こちらのことは、何も考えなくてよい)
短く言い切る声。
(よいか、黒曜石の件だ。この情報をアイナに渡したアゼレアの真意を探れ。敵か、味方か――見極めよ)
(……わかりました)
胸の奥に力を込めて答えると、すぅーっと所長の声が聞こえなくなった。
闇に沈む部屋で、机上の帳簿だけがなおも不気味に存在感を放っていた。
余白の赤黒い染み、震える署名――メネズ。
……彼女は知ってるの?
わたしに見つけさせようとしているのか。
廃坑を見つけたように、何かを……。
握りしめた拳に、汗が滲んだ。
◇ ◆ ◇
朝の光が差し込む責任者室。
机の上には、整え直した帳簿と木札の束。
数字は揃っているはずなのに、余白に刻まれた不自然な署名や、赤黒い染みが視界から離れない。
「……やっぱり、確かめなきゃ」
わたしは深呼吸して、筆を取り、記録を洗い直す。
最初に目を留めたのは、油樽。
帳簿には十とあるのに、棚にあるのは七。
厨房にも、鍛冶場にも、その消費記録はなかった。
……樽が三つも、どこに消えたの……?
次に布袋。
塩袋が八と記されているが、倉庫に残っている数と合わない。しかも使用人の誰も「増えた覚えはない」と口を揃える。
わたしは首を傾げて、頭を捻る。
ひとつひとつは小さな齟齬だ。
けれど、ページを繰るたびに同じ空白が積み重なっていく。
「そういえば……夜更けに、門の外で車輪の音を聞いたことがあります」
帳簿を抱えて戻ってきたロエナが、小声で続けた。
「雨の日で……人通りはないはずなのに」
別の使用人は思い出したように付け加える。
「ああ、雨の日か。北庭の通路に、朝だけ濃い轍が残っていた日がありました。雨で流れる前に見たので……」
夜の荷車。雨の日にだけ残る轍。
何か引っかかる。
偶然にしては、出来すぎている。
ページをめくると、古い紙の余白に掠れた走り書きがあった。
かろうじて調合という二文字だけが読めた。
傍には、赤黒い染みが滲んで乾いている。
「調合……?」
薬草を混ぜるのか、食材を漬けるのか。
どちらも調合だ。けれども、台所の記録にはそんな作業は載っていない。
……トマトの時と同じ。何かを偽装してる?
さらに調べを進めると、通行証の控えの束の中に奇妙なものを見つけた。
通常は執事の印が押されるはずの場所に、見慣れない丸印。
そして――リュード商会。
その横に、震えるような癖字で署名が添えられている。
「……メネズ」
声が震えた。
リュード商会と現アードの名。
……どうしてここに。
机の上に並ぶ帳簿と控え。
油樽、塩袋、夜の荷車、轍、調合の文字、リュード商会、そしてメネズの署名。
小さな点が、一本の線に繋がり始めていた。
「……これは、偶然なんかじゃない」
拳に力をこめ、わたしは席を立った。
……いくわよ。小さな調査官。
◇ ◆ ◇
昼下がりの陽射しは傾き、アゼレア邸の中庭を淡く照らしていた。
白い砂利の小道に光が反射して眩しい。けれど北庭へ続く小道は、なぜか陰鬱な空気が漂っている。
草木の手入れは行き届いているのに、空気が湿って重苦しい。
見取り図に記された小さな印を思い出す。
……北側小蔵。
使用人の倉庫とは別に、ひっそりと存在する保管庫。
邸から出ると、わたしの周りに集まってくる精霊たち。
あの邸はよほど居心地が悪いのか、室内ではあまり姿を見なかった。
わたしの前を、まるで向かう先を読んでいるかのように、小さな精霊たちが先導する。
……よし。行こう!
高い生け垣の先に、ひときわ古びた木造の建物が姿を現した。
壁板は灰色に風化して、雨風にさらされて黒ずんでいる。
蔵の周囲には草が生い茂り、わずかな風で乾いた葉が擦れ合い、かさかさと音を立てた。
一歩近づくごとに、靴裏の感触が変わる。
北庭の小道は砂利敷きのはずなのに、蔵の前だけ土がむき出しになり、雨でぬかるんだ跡が残っていた。
精霊が指さす場所を、腰をかがめて覗き込むと、はっきりと残った轍が二本。
「……荷車の跡」
指先でなぞると、まだ湿り気を帯びている。
少なくともここ数日のうちに、何度も荷車が出入りした証だ。
けれど帳簿には、その動きは一切載っていない。
……不自然だよね。
そう思うと、背筋を冷たい汗が伝う。
わたしは蔵の正面へ回ってみた。
古びた木戸に、ひときわ新しい鉄の錠前がかけられていた。
周囲の木材はひび割れ、釘は錆びついているのに、錠前だけが無骨な黒光りを放っている。
「比較的、新しい……変よね」
使用人用の蔵なら、こんな頑丈な錠前をつける必要はない。
大切に守られているのは中身か、それとも秘密そのものか。
鼻を近づけると、微かな匂いがした。
焦がした草のような、乾いた薬草のような、鼻に刺さる刺激臭。
料理に使う油や、肉の匂いではないのは確かだ。
「……台所じゃない匂い」
かすかな言葉が唇から漏れる。
木戸の継ぎ目には、黒い煤のような粉がこびりついていた。
指でそっと擦ると、ざらりとした感触。
燃やした灰が風に流れ、隙間から漏れ出したように見える。
……何かを混ぜて、火にかけてる?
ふと、地面に目が止まった。
轍のそばに、大人のものよりもずっと小さな足跡が交じっている。
雨で半ば潰れていたが、形は確かに――子供の靴跡だった。
「……子供?」
思わず声が漏れた。
蔵に物を運ぶのは大人の仕事のはず。
けれどこの足跡は、明らかに軽く、小さな歩幅で続いている。
それも一度ではない。複数回、何度も出入りした跡。
わたしは、いつの間にか拳を握りこんでいた。
そうではないと思いたいが、所長が言っていた廃坑の子供たち。
あれと関係があるのだろうか。
「お嬢様!」
背後から呼び声がする。
振り返ると、ロエナが息を切らしながら駆け寄ってきた。
「どうしてここに……! この辺りは立ち入り禁止と聞いております」
「でも、ここがおかしいの」
声を潜めて答える。
「荷車の跡、錠前、匂い……それに、子供の足跡まである」
ロエナは目を見開き、しばらく口を閉ざした。
やがて小さく首を振り、震える声で言う。
「ここは……代理人の保管庫と呼ばれていました。私たち下の者は、決して触れるなと」
代理人。その言葉に、帳簿の署名が蘇る。
……メネズ。
「……やっぱり」
囁いた声は、自分でも驚くほど強張っていた。
蔵の前に立つだけで、全身の血が重くなるような圧迫感。そして、見えない壁が心を押しつぶしてくる。
ここで、何かが作られている。
そして、それは――隠さなければならないもの。
ロエナが不安げに袖を握った。
「戻りましょう、お嬢様。本当に危険です」
けれど足が離れない。
風に煽られた木戸が、かすかに軋んだ。
その隙間から、鼻を刺す匂いが再び漏れ出す。
喉が詰まる。
精霊たちも、早く戻れと手をしっしと振って合図する。
わたしは蔵をじっと見つめた。
ここで目を逸らしてはいけない。
けれど、今はまだ中へ入る術もない。
「……ロエナ、戻ろっか」
……今は確かめるだけでいい。
言葉を絞り出すと、ロエナがほっと息をついた。
振り返る瞬間、蔵の影の奥で誰かの視線を感じた。
気になり振り返っても、そこにはただ古びた木戸が沈黙しているだけ。
心臓の鼓動が収まらないまま、北庭を後にした。
北庭の小蔵を後にしても、胸の鼓動は収まらなかった。
泥に刻まれた車輪の跡、子供の足跡、焦げたような匂い。そのすべてが、普通ではないと告げていた。
「……やっぱり、何かが隠されてる」
声に出すと、自分の言葉でさらに背筋が冷える。
ロエナは黙ったまま寄り添い、責任者室まで戻ると机の端に紙束を置いた。
「お嬢様……どうか、深入りはなさらないでください」
わたしの身を案じる優しい目。
祈るような声に、わたしは曖昧に頷いた。
ロエナがお茶の用意のため退出すると、わたしは机に帳簿を広げ直し、震える指で署名をなぞる。
……メネズ。
もし彼が関わっているのなら……。
「この蔵も、あの轍も、全部……」
わたしは、考えを最後まで言葉にすることが怖くて唇を噛んだ。
そのとき、扉が静かに開いた。
「……熱心ね」
ドクンッと心臓が跳ね上がる。
アゼレアがそこに立っていた。
琥珀色の瞳が、帳簿とわたしを一度に射抜く。
アゼレアはゆっくり歩み寄り、机の上に広げられた紙束へ視線を落とした。
紙束に指先がわずかに触れる。
「子供の足跡。夜の荷車……好奇心が過ぎるわね」
その声は淡々としていたが、首筋に氷の刃を押し当てられたように冷たかった。
「……わ、わたしは」
言い訳を探すが、言葉が喉に詰まる。
アゼレアはわずかに目を細め、静かに告げた。
「この邸で見ていいものと、見なくていいものがある。見なくていいものに手を伸ばせば……それは、あなたの責任になる」
言葉は冷徹だった。
だが一瞬、琥珀の瞳に揺らぎが走ったように見えた。
それは忠告か、それとも試しなのか。
「あなたは管理を任された責任者よ。だからこそ……知らなくてもいいことに踏み込むなら、覚悟しておきなさい」
そう言い残し、アゼレアは踵を返す。
衣擦れの音が遠ざかり、責任者室には再び静寂が落ちた。
机の上には、赤黒い染みとメネズの署名。
わたしは拳を握り、震えを押し殺した。
胸の奥で所長の声が蘇る。
――「アゼレアの真意を探れ」
けれどその真意に近づくほど、鋭い釘が突きつけられる。
……アゼレアは敵? それとも、味方?
あの瞳は何も語らない。
けれど確かに――試されている。
そんな気がしてならなかった……。
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