55話 繋ぐ ~課題の終わりと始まる責務~
夕食を終え、ロエナが食事を運んできた台車とともに退出した。
一人になった客室で、わたしは机にロウソクを灯し、帳簿を開いた。
昼間の整理で積み重なった疲労のせいか、文字や数字が霞んで見える。
「……やっぱり、まだ全然、まとまらないなぁ」
愚痴とともにため息が漏れた瞬間。
(聞こえるか)
冷ややかながら落ち着いた声が、頭の奥に響く。
その声に、自然と背筋が伸びた。
(っ! 所長! ……何度経験しても、念話ってびっくりしますね)
(元気そうで何よりだ。さて、今日の状況を報告しなさい。学んだこと、気づいたことを、順序立てて述べよ)
……最初、呆れてなかった?
所長に促され、わたしは今日の作業を振り返った。
絵と品を照らし合わせる作業には慣れてきたが、それ以上の体系化に苦しんでいること。
ただ羅列をまとめているだけのように感じ、手応えがないこと。
一通り話し終えると、念話の向こうで短い沈黙が落ちる。
(……ふむ。君は答えを急ぎすぎているな)
所長の声は冷徹ながらも核心を突いていた。
(在庫整理とは、並べ替えではない。流れを読み、必然性を見出し、未来に役立つ仕組みにすることだ。用途・使用者・補充頻度。三つの軸で分類せよ。それで羅列が体系へ変わる)
「用途、使用者、補充頻度……」
わたしは筆を走らせ、書き留める。
霧のような不安の中に、細い道筋が見えてきた気がした。
(分からぬことを恐れるな。分かるところから広げよ。理解の網は必ず繋がる)
(はい……所長)
胸に重なっていたものが、ふっと軽くなった。
そこで、ふとわたしは思い出したように顔を上げる。
(あっ、そういえば!)
(今度はどうした)
倉庫を整理している時に見つけた黒曜石。
アイナに渡した黒曜石というのが気になって、ずっとこれが引っかかっていた。
(今日、倉庫を見ていて箱の中に黒光りする石がありました。深い黒で、光の加減で紫がかって見えるような……表面はツルツルで、でも割れたところは鋭い感じでした。品名は黒曜石だったんですが……産地がトバルって……)
しばしの沈黙、やがて所長の声が低く響く。
(……その特徴は黒曜石に合致するな)
(やっぱり黒曜石なんですね。でも、サンドレアムで採れるんですか?)
わたしが学んだ限りでは、サンドレアム領では採掘していない。
たしか、もっと西の地域が主な産地だったはずだ。
しかし、鉱石の箱には産地にはサンドレアム領トバルとなっていたのだ。
(トバル南部には二つの鉱脈がある。ひとつは鉄や銅が採れ現役だが、もうひとつはすでに廃坑となり、打ち捨てられているはずだ……)
……廃坑ねぇ。じゃぁ、あの箱の中は結構、昔の鉱石も混じってるのね。
わたしは小首を傾げたが、それ以上深く考えは及ばなかった。
しかし、所長は違ったようだ。
(ルルーナ……でかした)
その一言に、わたしの頬が一気に熱くなる。
滅多に口にしない褒め言葉に、胸がいっぱいになった。
(っ……ありがとうございます!)
(今後も気を抜くな。倉庫の在庫だけでなく、どこから運ばれてきたのかにも注目せよ。それが在庫再構築の要だ)
(はい、必ず!)
(それと、明日は所用で念話ができるかはわからん。不測の事態ではないので、気にすることはない)
念話が途切れ、夜の客室に再び静寂が戻る。
わたしは帳簿を閉じ、そっと胸に手を当てる。
少しずつでも、前に進んでいる。
そう信じられる夜だった。
◇ ◆ ◇
扉の隙間から差し込むわずかな朝の光は、かえって雑多な荷の影を濃くしていた。
机の上に並べた木札と帳簿の数字は、どう並べ替えても噛み合わない。
「……また違う」
ページをめくるたびに、欠けた数字や余った品が出てくる。
一度整理したはずなのに、また崩れる。
昨日の手応えが幻のように思えた。
「お嬢さま……」
ロエナの声がする。
だが答える余裕はなく、わたしは唇を噛みしめた。
……このままじゃ、間に合わない。
そのとき、乾いた靴音が近づいた。
アゼレアだ。
琥珀色の瞳が、机上の木札とわたしを一瞥する。
「形だけ整えて悦に入るのは子供の遊びよ。……数字に命を与えなければ、役には立たない」
冷たくも澄んだ声。
心臓を鷲づかみにされるような言葉だった。
「夕刻までにひとつでも体系を示しなさい。できなければ、それまでのこと」
わたしが顔を上げるより早く、アゼレアは背を翻した。
残された空気は重く、吐く息すら詰まりそうだった。
昼を過ぎても、帳簿と実物の齟齬は消えない。
欠けた数字、用途のわからない品、重複した記録。
混乱するたびに書き直し、木札を並べ替えるが、すぐに行き詰まる。
「はぁ……」
前任者はどれだけ杜撰だったのだろう。
目を通すたびに、齟齬が見つかる。
間違いだらけの帳簿を前にため息が漏れ、わたしは机に突っ伏した。
「お嬢さま」
ロエナがおずおずと一枚の紙を差し出した。
そこには、拙い字で畑で使う、鍛冶場で使うと書かれている。
「俺たちも、使う場所なら覚えてます。字は下手ですけど……」
「そうだ。俺も、木材は大工に運んだ覚えがある」
「油は宿屋に回したな」
使用人たちが次々と口を開く。
わたしは目を見開き、慌てて木札に絵や印を描き込んだ。
「鍛冶場ならハンマー、畑なら稲の絵……これでどう?」
「あっ、これならわかります!」
散らかった木札に少しずつ意味が宿る。
線が繋がり、用途別の流れが形になっていく。
「……うん、見えてきた」
昨日の所長の声が蘇る。
――「用途、使用者、補充頻度」
わたしは震える手で、次の木札に印を刻んだ。
小さな工夫でも形になる。
その実感が、不安の闇にかすかな光を灯し、胸の奥が熱くなる。
わたしは昼食も満足にとらず、ひたすら整理に励んだ。
机の上には、絵や印のついた木札が用途ごとに並んでいる。
午前に比べれば、明らかに整っていた。
わたしは深呼吸をして、額の汗をぬぐった。
「……これなら」
扉が軋む音が聞こえた。
その音に背筋がこわばる。
アゼレアが再び現れたのだ。
琥珀色の瞳が、木札の列をすっとなぞる。
沈黙が続く。
心臓の鼓動が早くなり、耳に響く。
「朝よりは、形になってきたわね」
短い言葉。
少しは認められた――そう思った矢先。
「でも、まだ体系とは呼べない。数字と物が一致するだけでは駄目ね。誰が見ても、すぐに動かせる仕組みでなければ意味がない」
期待を突き落とす冷たい声。
「三日目で仕上げなさい。それができなければ――そこで終わりよ」
アゼレアは振り返らずに去っていった。
倉庫に残されたのは、震える声だけだった。
「……まだ足りない」
二日目の作業を終え、わたしは客室に戻る。
客室の机に帳簿を広げても、文字は霞んで見える。
指先に力が入らず、木札が一枚、ぱたりと落ちた。
所長との念話も繋がらない。
昨日、「明日は所用がある」と言われていたことを思い出す。
「……今日は、一人なんだ」
不安が押し寄せる。
……もし失敗したら? 三日目が過ぎたら?
震える手で必死に書き込みを続ける。
用途の印、補充の順番。
だが線はすぐに絡まり、頭が真っ白になる。
「……どうしたら」
思わず声が漏れた。
そのとき、机の端にそっと湯気の立つカップが置かれる。
「お嬢さま、少しお休みください」
ロエナだった。
心配そうに覗き込む目が温かい。
「でも……まだ、終わってないの」
「それでは駄目です! 本当に倒れてしまいます」
叱っているのに、ロエナの声は優しかった。
机に突っ伏したわたしの背を、静かに撫でる手。
張り詰めた糸がほどけ、視界がにじんでいく。
夜の帳が降りる中、ノートには震える字でいくつもの線が引かれていた。
未完成のままの体系。
けれど、その傍らには温もりが残っている。
「……ごめんね、ロエナ」
小さく呟くと、徐々に瞼が重くなっていった。
早朝。
昨夜は疲れでぐっすり寝たせいか、頭がスッキリしている。
ここのところ、緊張の連続でまともに眠れていなかったんだなと実感した。
……ロエナ、ありがとう。
わたしは机に散らばった木札を見下ろし、深く深呼吸した。
昨日は細かく分けすぎて、線が絡まってしまった。
鍛冶場で使う、畑で使う、調理で使う――それぞれを必死に分類したせいで、かえって全体が見えなくなっていたのだ。
「……まずは大きくまとめよう」
生産、加工、補修。
大きな枠を先に作り、その下に枝分かれさせる。
木札に描いた絵や印を入れ替えていくと、昨日のごちゃごちゃが少しずつほどけ、線がすっきり繋がっていった。
昨日は細かさに囚われすぎた。
大きな流れを掴む方が、大事なんだ。
「お嬢さま、昨日より見やすいです!」
「これなら俺たちでも一目でわかります」
ロエナや使用人たちの声に、確かな手ごたえを感じる。
昨日の絶望が嘘みたいに、少しずつ前へ進んでいる実感があった。
気付けば、夢中で手を動かしていた。
完了間際の昼前には、混乱が嘘のように整然としていた。
机の上には、木札や紙片が用途ごとにまとめられ、簡単な印や絵で分類されている。
流れを示す線も引かれ、誰が見てもどの物資が、どこで、どれくらい使われるかがわかる仕組みに整えられていた。
わたしは最後の木札を置き、深呼吸をした。
「……これで、全部」
在庫の木札と帳簿を整え終えたとき、倉庫に冷たい靴音が響いた。
アゼレアがゆっくり歩み寄り、机上をじっと眺める。
琥珀の瞳に光が揺れ、沈黙が長く続いた。
その長い沈黙が、わたしの心臓をじりじりと締め付ける。
……大丈夫。きっと大丈夫。
わたしの喉が渇き、手のひらに汗がにじむ。
「……ふん」
小さな吐息が漏れた。
冷徹に吊り上げられていた唇が、ほんのわずかに緩む。
だがその表情はすぐにかき消え、いつもの氷の仮面に戻った。
「……よくやったわ」
吐息のような声。
「形だけでなく、誰が見ても使える体系になっている……合格よ」
強張った体から、力がどっと抜けるのがわかる。
「これからは、あなたが管理を任される。失敗すれば、責を問う。それでもやるのなら……背負いなさい」
「……はい」
けれど、続けられた言葉は容赦なかった。
わたしは小さな声しか出なかった。
それでも頷く。
遊びの課題ではなく、もう責務だ。
その瞬間から、机に積まれた木札と帳簿は、ただの紙切れではなくなった。
アゼレアが背を向ける。
「明日からは自分の目で確かめなさい」
その扉が閉まる一瞬、琥珀の瞳が振り返った気がした。
それは嘲りでも、怒りでもない。
かすかな――わたしには読み切れない感情が宿っていた。
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