52話 整理してみよう ~矛盾する感情~
突破口は見つかった。
とはいえ、ここからが大変だ。
机に積まれた帳簿を胸に抱えながら、わたしは深く息をついた。
まるで山のように積み上がった記録――。
そこに記された文字と数字は、いかに正確であろうと、秩序を欠けばただの紙くず同然だ。
「……ええと」
「ロエナと申します」
「では、まずロエナさんは……この樽に付けられている刻印を、書き写していただけますか?」
そう口にすると、ロエナは一瞬、意外そうに瞬きをした。
「お嬢様。敬称は不要でございます」
そう言って、ロエナはすぐに卓上の紙片と筆を取り上げ、慣れた手つきでさらさらと筆を走らせた。
細く整った筆跡は、わたしよりもずっと大人びていて几帳面だった。
……この綺麗な字は昨日の。
「……こうでしょうか?」
差し出された紙には、確かに刻印と同じ形が記されている。
わたしはぱっと顔を明るくし、頷いた。
「ええ! 素晴らしいです!」
その声に、ロエナは僅かに目を丸くした。
褒められることに慣れていないのだろうか。
控えめに視線を伏せたその仕草が、妙に印象に残った。
わたしはその紙を掲げ、後ろに控えていた年配の倉庫係に向ける。
「この印……つまり、この絵に見覚えは?」
男は近寄り、目を細めてじっと紙を見た。
しばらくの沈黙の後、ぽんと掌を打つ。
「ああ、それなら、北の商人が持ち込む干し魚の樽だな。匂いをかげばすぐ分かるさ。」
「そうですか! では、この印を見たら干し魚と覚えていただけますか?」
「絵と品が結びつくなら、俺たちにも覚えやすい」
年配の男は顎をさすりながら笑った。
他の男衆も「なるほど」と唸っている。
わたしは胸を張って宣言した。
「よろしい! ではこれからは、ロエナに刻印を写してもらい、その絵と、皆さんが知っている品とを結びつけてください。紙の山に溺れるのではなく、目で見て覚える。そうすれば、きっと整理は進みます!」
声を張り上げたその瞬間、倉の奥でふわりと空気が揺れた。
……ちょっとだけ、所長の真似をしてみたけど……どう?
胸を張るわたしを見て、男衆は感心したように頷きあった。
精霊たちも部屋の隅で拳を突き上げながら、飛び跳ねている。
その中で、ロエナは少し驚いたように目を瞬かせ、遠慮がちに口を開いた。
「お嬢様は、まるで貴族のご令嬢のように……整理を指揮されるのですね」
その声には、不思議と敬意めいた響きがあった。
◇ ◆ ◇
半分ほど整理を終えたところで、わたしは手を止めて深く息をつく。
棚や箱の間に散らばる紙片や小物を見下ろしながら、少し肩の力を抜いた。
午前中の作業で、指先も腕もパンパンだ。
「…… 半分か。まだまだ先は長いわね」
軽く呟いたところで、ロエナが昼食を運んできた。
簡素ながらも、しっかり煮込まれた肉と野菜、蒸したパン。地下倉庫の冷えた空気に、温かい匂いがほのかに漂う。
「お嬢様、お疲れでしょう。少し休まれてください」
ロエナの声には、真心がこもっている。
わたしは微笑みながら頷いた。
「ありがとう、ロエナ。いただきます」
布を敷き、簡易の座席を作って腰を下ろす。
口にパンを運び、野菜をかじりながら、ふと思い出す。
地下倉庫へ来る途中、「また侍女が機嫌を損ねて…… 処刑されたとか……」と、邸の女中たちのひそひそ話を聞いたことを。
女中たちの声は小さくても、恐怖と不安が滲んでいた。
アゼレアの冷酷さを、わたしも目の当たりにしている。
それなのに、目の前の使用人たちは口を揃えてこう言うのだ。
――「アゼレア様は、本当に優しい方ですよ。私たちにはいつも気を配ってくださいます」
――「怖い? どうせ女中たちの噂話ですよ。 ここではいつも助けていただいて……」
わたしは眉をひそめ、口元に手をあてて考え込む。
…… どうして、こんなに矛盾するの?
目の前で冷酷さを見ているのに、使用人たちは優しい主人だと言う。
ここで見せる顔と、女中たちの恐怖……。
匙を置き、わたしは遠くの棚をなんとなく見つめながら、頭を整理する。
アゼレアの冷酷さは本物。
ダズマを使った人身売買、孤児の処分、昨夜の侍女の件。
この目で見ている。
しかし、身近な者には優しい。
邸の中では恐怖が混在し、恐ろしい令嬢としての評判が立っている。
…… ただ冷酷な令嬢ではないってこと?
冷酷な人間なら、なぜ使用人たちには優しい主人なのか。
利用するだけならば、貴族らしく、ただ指示をすればいい。
わざわざ、優しくする理由がないはず。
……判断材料が少なすぎる。軽率な断定はしちゃいけない。
わたしは深く息をつき、整理作業に戻るため席を立つ。
昼食はひとときの休息にすぎず、午後にはまた、膨大な荷物と書類の整理が待っている。
使用人たちの温かな声と、地下倉庫の冷えた空気の対比に、わたしの頭は少しだけ混乱する。
しかし、その矛盾の中にこそ、アゼレアの真意を知るヒントがあるのだと直感が訴えていた。
昼食を終え、わたしは再び作業へ戻った。
午後の日差しは地下倉庫には届かず、薄暗い空間が続いている。
だが、空気は午前中より少し暖かく、指先が冷たさでかじかむこともない。
「さて、残りも頑張らなくちゃ……」
わたしは頬を軽く叩いて、気合を入れ直す。
絵と品を照らし合わせる作業は単純そうに見えて、微妙な形状の違いや、かすれた文字が頭を悩ませる。
しかし、ロエナと使用人たちは少しずつ手順に慣れてきており、先程よりもよりずっとスムーズだ。
「その品と絵の対応は……」
ロエナが声をかける。
わたしは頷きながら、小さな箱を持ち上げる。
その瞬間、箱の影から微かに精霊が顔をのぞかせた。
……河童ちゃん。
箱の端を持って、重みを少しだけ分散してくれることに、わたしは目を細めて笑う。
……ありがとう。助かるよ。
楽しそうに、河童はただぴょんと跳ねるだけ。
意思を強く要求するような様子はない。
あくまで、手伝いの一環のようだ。
わたしが力を入れなくても、箱を持ち上げる動作が少しだけ軽くなる程度。
それでも、一人じゃないと思えるのは、わたしにとって大きい。
「うん、この方法なら、昼食前よりもずっと早く整理できそう」
使用人たちも手順を覚え、絵と品を確かめながら箱を整理していく。
わたしは一歩下がり、手順の確認と指示を続ける。
時折、棚の隙間から小さな光の粒が漂う。
河童や妖精、古狸がふわりと宙を浮かび、軽く荷物を押すようにして手伝ってくれる。
「これで、箱の内容を絵と照らし合わせる手順はほぼ完璧ね」
わたしが声をかけると、ロエナは笑顔を返す。
使用人たちも自然と作業に集中し、昼前よりも整理が効率的に進んだ。
わたしは少しだけ立ち止まり、倉庫の奥まで見渡す。
整理されていない箱はまだ多いが、棚と箱の間に秩序が生まれつつある。
精霊の手伝いと、使用人たちの慣れ。
この両方で、倉庫は少しずつ、でも確実に形を取り戻していった。
…… これで夜には、午前中の半分以上が片付きそうね。
わたしは小さく頷き、再び手を動かす。
箱を持ち上げ、絵と照合し、品を分類する。
昼食前と同じ作業ではあるが、微かな充実感が胸に広がる。
自分の指示が、使用人たちの動きに反映されるのを見るだけで、静かな満足感を得られる。
そして、倉庫の奥で、微かに精霊たちの気配を感じながらも、わたしは今日中に整理を終えるために集中を切らさない。
午後の作業は、ただの整理作業以上の意味を持っている。
それは、この邸の秘密を知り、理解するための大切な一歩だと思った。
◇ ◆ ◇
地下倉での整理がようやく終わったのは、夕方近くになった頃だった。
最後の箱を棚へと収め、ロエナが帳面に印をつけると、倉庫の中には一息ついたような空気が広がる。
「…… 終わりましたね、お嬢様」
ロエナがほっと息をつき、微笑む。
「片づくもんだなぁ」
使用人たちもそれぞれ額の汗をぬぐい、安堵の吐息を漏らした。
「ええ、みんなのおかげで」
わたしは小さく頷き、わずかに胸を張る。
精霊たちの小さな助力もあったが、整理を成し遂げられたのは何より使用人たちの手際と、ロエナの支えによるところが大きい。
…… これで、胸を張って報告できるね。
わたしは心の中で呟き、倉庫を後にした。
報告のため、侍女に案内してもらい執務室へ向かう。
わたしは入室すると同時に背筋を伸ばし、静かに頭を下げた。
「地下倉の整理、全て完了しました」
机に座っていたアゼレアは、手元の書簡から視線を上げる。
淡い光を帯びた琥珀色の瞳が、わたしを射抜くように見据えた。
「…… 思ったより早かったわね」
声は落ち着いていた。
抑揚は少ないのに、不思議と背筋を正させられる力がある。
……少し、雰囲気が違う。
わたしが言葉を返す前に、アゼレアは短く続けた。
「的確に使用人を動かし、効率を上げた。結果だけ見れば上出来よ」
わたしは僅かに息を呑む。
褒められたはずなのに、そこに温かみはなく、ただ事実を告げられただけだった。
それでも、無視されるよりはずっといい。
「ただし――」
アゼレアの瞳が冷たく細められる。
「片付けただけでは、意味がない。物は価値を持つからこそ存在するの。明日からは整理した品を一つずつ精査しなさい。市場に流せるか、修繕に回すか、それとも廃棄するのか」
「…… わたしが、ですか?」
思わず問い返すと、アゼレアは即座に言い切った。
「そう。あなたが」
淡々と放たれたその一言は、重く響いた。
わたしには到底無理だ、と心が訴える。
だが、アゼレアの眼差しは一片の揺らぎもなく、逃げることを許さない圧がある。
わたしは服の裾をきゅっと握りしめた。
「…… 承知しました」
アゼレアは机上の筆を軽く置き、僅かに頷いた。
「それでいい。夕食は客室に運ばせるわ。下がりなさい」
それだけを告げ、再び視線を文書へと戻す。
まるでわたしが部屋に入った瞬間から、すでに結果を決めていたかのように。
夕刻を過ぎた頃、客室の扉をノックする音が響いた。
「失礼いたします」
食事を運んできたのは年配の侍女で、銀の蓋を載せた盆を静かに卓へ置く。
香ばしい焼き鳥肉と根菜の煮込み、柔らかな白パンに温かなスープ。どれも質素ながら、普段口にしたものより遥かに上等だ。
侍女が下がると、部屋は再び静けさに包まれる。
「…… はぁ」
香りは食欲をそそるのに、なかなか食事は進まなかった。
アゼレアの眼差しが、まだ脳裏に焼き付いている。
――「明日からは整理した品を一つずつ精査しなさい」
その言葉は、まるで刃のように鋭く、わたしの胸にぐさりと突き刺さったままだ。
「わたしに、そんなこと…… できるのかな」
小さな声で呟き、匙をスープに沈める。
温かいのに、喉を通すと胸の奥に冷たさが残った。
昼間、地下倉で使用人たちと交わした会話が思い出される。
彼らにとって、アゼレアは優しい主人だった。
――「アゼレア様はいつも無理を言われない」
――「困ったときには必ず声をかけてくださる」
と、そんな言葉を何度も耳にした。
だけど、わたしの目に映ったアゼレアは、冷酷で残忍な貴族令嬢。
その矛盾は、わたしの胸の奥を掻き乱す。
…… 優しい人なの? 冷たい人なの? どっちが本当なの。
パンをちぎり、口に入れてみるが、味はほとんど感じられなかった。
アゼレアは、使用人たちに見せる顔と、その他に向ける態度とでまるで違う。
そしてその両方が、嘘には思えない。
……なら、どうして?
思考が堂々巡りを始め、夕食は半分も進まない。
小さな器の中にまだ温かな煮込みを残しながら、わたしは食卓に肘をつき、額を押さえた。
「…… どうしよう」
答えは出ない。
けれど、明日は待ってはくれない。
アゼレアが言った通り、自分は判断を迫られるのだ。
まだわたしの手には余る、大きな責任を。
窓の外では夜風が木々を揺らし、かすかなざわめきを立てていた。
その音が、わたしの不安を映すように響き続ける。
ここまで拙い文を読んでいただきありがとうございます!
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面白かったら星5つ。つまらなかったら星1つ。正直な気持ちでかまいません。
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