大森林の少女
自由貿易都市マイラに続く街道には、多くの人が行き交っていた。
戦禍を避けるため、つい先日まで店を畳んでいた商人たちも戻り、道の両側は露店で埋めつくされてた。
そんな喧騒のなかをひとりの少女が歩いていた。
この辺りでは滅多に見ない、その容貌に擦れ違う人たちは皆、振り返った。
頭ひとつ大きい背丈、短く切り揃えられた若草色の髪は、愛くるしい顔によく似合っていた。
細長く尖った耳は、彼女を妖精のような高貴なものに飾りたてた。
少女は、周囲の視線を気にすることなく、生まれて初めての街歩きを楽しんでいた。
店先には色々な商品が置かれていた。
北の高原で作られている乳製品や蜂蜜、魔法都市の精巧な魔道具、水の豊富な土地で収穫された野菜や果実などだ。南部の土地でしか取れない宝石や伝統の織物にも、彼女は目を輝かせた。
傍らで、それを見ていた店番の少年が声をかけてきた。
「お姉さん、良かったら見ていってよ。どれもいいものばかりだよ」
自由貿易都市マイラは、アストライアと呼ばれるこの大陸のほぼ中央に位置する。
そのマイラのずっと東、クレア山脈とナウル高地に挟まれる様に、針葉樹の巨大な森が広がっていた。
人はその場所を大精霊の森と呼んだ。
街歩きを楽しむ無邪気な少女は、ほんの少し前まで、この森の中で暮らしていた。
近年、戦乱の絶えないこの大地で、外界と隔絶されたこの森は、揺り籠のなかのように平和だった。
「今日も異常なぁーし」
朝日の差し込む森の、比較的若い樹木の横枝に腰をおろし、少女はその長い足を交互に振っていた。
誰に頼まれたわけでもなく、森を巡回するのが彼女の日課だった。
『変わり者の妹はやはり、変わり者だなあ』
村の者たちは、そんな彼女をあざ笑った。
外部の都市との折衝を任されていた彼女の兄は、いかに自分たちが閉鎖的で退行的であるかを訴え続けた。
それが前族長の怒りを買った。
彼は故郷を追われ、その存在さえも無かったことにされた。
『己の気持ちに正直であれ』
兄がたびたび口にした言葉は、彼女の大切な決まりとなった。
それが自分が生きている理由であり、証なのだと、ルルアは今日も森を散策していた。
「ふああ……」と大きな欠伸をしたルルアの耳が、ぴくりと動いた。
獣のような素早さで身を隠し、ルルアは前方を窺った。
はるか前に、黒い影がうごめいているのが見えた。
「熊だ」
森で遭遇するのは、珍しくない魔獣だが、その力と敏捷さは恐るべきものだった。
ルルアは腰の小剣に手をやった。
グラディウス――兄からの贈り物である、その無骨な剣の柄を撫でるのは、ルルアが心を落ち着かせるために必要な儀式であった。
次にルルアは両手で印を結び、彼女が信仰する神に祈りを捧げた。
「風よ、風の神よ。偉大なるクレアミスの息子である旋風のオノマーラよ。その風をもって、敵を穿て」
ルルアの手元でざわめいた風は、やがて圧縮されて一本の白い矢となった。その矢を背中の弓につがえると、ルルアは弦を引き絞った。 慎重に狙いを定めると、迷うことなくそれを放った。
風はうなりをあげて加速して、魔獣の頭を貫いた。
「グオオッ」絶叫をあげたのち、どすんと大きな体が倒れた。
森は再び、静けさに包まれた。ルルアの若草色の長い髪が、ふわりと舞い上がった。
その日の晩、ルルアは、親友と夕食を共にしていた。
「また、森に行ってたの?」
呆れ顔でリューリカがいった。
「うん、今日はマウラ川の下流の方」
「ちょっと、それってカルドニアの近くじゃあないの。お母さんがいってたよ。カルドニア人は、私たちを食べるって」
「あはは、そんなわけないでしょう」
気苦労の多い親友をルルアは笑い飛ばした。
「笑い事じゃあないよ」
リューリカは、ぷくーっと頬を膨らませた。
小柄な背に大きな瞳、やや赤みがかった黄金色の髪をうしろで束ね編み込んだ、その姿は人形のように愛らしかったが、怒った顔は、もっと可愛かった。
リューリカは、幼い頃からずっとルルアと一緒に育った。ルルアが突拍子もないことをしても、それは一寸だけ強い好奇心のせいなのだ――そう思って、受け入れてきた。
しかし、それによって生まれる同族との軋轢に、リューリカは、いつも心を痛めていた。
「今日は、泊まっていくんでしょう?」
「いやでもさ、あまりリューリカに迷惑は、かけられないよ。おばさんだって、私がいると困るだろうし」
「そんなことない! 私は、ルルアと一緒に生きてゆくって決めているの。お母さんだって、私の気持ちをわかってくれているよ」
リューリカは、いつだってルルアの味方だった。兄がいなくなって、孤独になったルルアの居場所であり続けてくれた。
しかし、それだからこそルルアは思う。 このまま、甘えていては、いけないんだと。
「ありがとう。じゃあ、今晩は泊めてもらおうかなぁ」
リューリカの愛らしい目元を見ながら、ルルアの心は、ちくりと痛んだ。
翌朝、まだ暗いうちにルルアは目を覚ました。静かに寝息を立てているリューリカを起こさないように、そっと親友の家を出た。
小鳥が囀る林を抜け、昨日熊を仕留めたあたりまでくると、ルルアは何か違和感を覚えた。
(音が……音がしない)
虫や鳥、魔獣たちの鳴き声や足音――そういったものが、何も聞こえなかった。
(まるで、死の森だ)
森の奥に進むにつれて、違和感は恐れへと変わっていった。
(血の匂い!)
この深い森の中で、もし何かがいるとしたら、魔獣またはその餌となる小動物くらいだ。
時折、魔獣同士が縄張り争いをすることはあるが、それにしても――
(この血の匂いは、少し異常だ)
ルルアは、木陰に隠れて辺りの様子を窺った。森を巡回することで、手に入れた視力と鋭い感覚は、かなり先の景色をとらえていた。
複数の魔獣が、倒れていた。一体は熊だ。
(もう少し、小さいやつが、四、…………いや、五か)
多分、もうすでに絶命している。周囲に人影はない。その奥に、何やら墓標のようなものが立っている。
(ここから見えるのは、これが限界か)
ルルアは、足音を消して、少しずつ前進した。目的の場所に近づくにつれて、その異様な光景が広がってきた。
魔獣が舌を出して、倒れている。その大きな骸の向こうに、人がいた。
こちらに背を向けて、座っている。その横には、一本の剣。長剣よりも、ひと回り長いその刀身は、離れたところから見ると、まさに墓標だ。
他人が、近寄ることを許さない墓守――それが、ルルアの第一印象だった。
これだけの魔獣を恐らく、一撃で屠っている。かなりの手練れだ。
(ひょっとして、カルドニア人?)
リューリカが、心配していた通りかもしれない。そんなことを考えていると、不意に相手が口を開いた。
「おい、嬢ちゃん」
驚いたルルアは、茂みから飛び出しそうになった。
(こっちを見ていないのに)
相手は、自分を認識している。逃げようと思ったが、動けない。一定の距離を保っているが、もう既に足がからめとられているような気分だった。
「こんな所で、何をしているんだい?」
さりげなくいっているようで、まるで尋問だ。しかし、ルルアは臆することなくいった。
「あなたこそ、何をしているの?ここは、滅多に人が立ち入らない場所。あなた、カルドニア人じゃあないの?」
「カルドニア人? この俺がぁ? ガッハッハッ、こりゃあ傑作だ。嬢ちゃん、あんた、面白い冗談をいうなぁ」
未だに背を向けた相手は、腹を抱えて笑っている。
「なによ。こんな所で怪しいことをしているのは、カルドニア人くらいしか、いないじゃない」
ルルアは、警戒しながらも、いわずにはいられなかった。
「いいかい嬢ちゃん、俺は狩る側の人間だ。向こうに、魔獣の死骸があったろう?」
相手が何をいってるのか、ルルアは理解できなかった。
「あいつらは、ああ見えて、結構頭が良くてな。自分が敵わない相手だと学習したら、まず、喧嘩を売ってこない」
背中越しに、続けていった。
「だがなぁ、世の中には、敵わないとわかっていて、喧嘩を売ってくるやつがいる。知ってるか? そいつが、カルドニア人だ」
「そして――」
おもむろに、立ち上がると、男は剣を抜き、その時初めてこちらを向いた。
「俺は、やつらを狩るものだ」
癖のある、くすんだ緑色の長髪をひとつに束ね、口には無精ひげ、蒼い色の瞳は冷たく光り、真っ直ぐにルルアを捉えていた。
「狩る、狩られるなんて、どうでもいい。ここは、大精霊の森。神聖な大地を血で汚すのなら、誰だって許さない」
ルルアは、きっぱりと、いい放った。
男は、暫くの間、ルルアをじっと睨んでいたが、すぐに――
「あーっ、おっかねえなぁ」と首を横に振った。
「悪かった、悪かった。ここにいたのは、…………そうさなぁ、ちょっとしたヤボ用だ。もう立ち去ろうと、思っていたんだ。だから、そう怒りなさんな」
そういうと、おとこは持っていた剣を鞘に納め、ルルアに背を向けた。
「お節介かもしれないけどな、嬢ちゃん、この辺りをうろつかない方がいいぜ。カルドニア人が来るからな。ガッハッハッハ」
一見、冗談ともとれる、意味深なことばを残し、男は森へ消えていった。
「何だったの、もう!」
ルルアは、憤慨しつつ、男の周りに漂っていた不穏な空気に、恐れを抱いていた。
全六話で完結の予定です。投稿は、月曜の午後にしようと思っていますが、間に合わない場合もあるかもしれません。ご容赦を。