第1話 サクラ舞い散る夜
宮城野スタジアムのコンコースは、春の陽気にそぐわない薄暗さで覆われていた。剥がれたペンキ、ひび割れたコンクリート、そしてどこからか漂うカビ臭。バックネット裏の屋根に覆われた最上段では、雨漏りの水滴がポタポタとバケツに落ちる音が響く。観客席はまばらで、熱心なファンと暇つぶしにきた地元民がぽつぽつと座っているだけだ。
試合開始前、場内アナウンスが掠れたスピーカーから流れ、仙台シルバーフォックスの開幕戦が始まることを告げる。
松島翔太は,ベンチに腰を下ろし、タオルを握りしめていた。18歳、高卒ルーキー。背番号7のユニフォームはまだ新品の匂いがした。目の前のグラウンドは、雑草がところどころ顔を出し、ラインの石灰が薄れている。プロ野球選手としての第一歩を踏み出す場所が、こんな老朽化したスタジアムだなんて、子供の頃の夢とは少し違っていた。
「緊張してるか、松島?」
隣に座る登米大輔、チームのキャプテンが低い声で尋ねる。
38歳のベテラン外野手は、額に刻まれた深い皺と、日に焼けた顔で翔太を見た。背番号1のユニフォームは、洗いざらしで少し色褪せている。
「いや、緊張ってより…なんか変な感じっす。こんな大事な試合なのに、スタンドガラガラで」
翔太は苦笑いしながら、観客席を見上げた。開幕戦だというのに、収容3万人のスタジアムに集まったのはせいぜい6000人。拍手もまばらで、応援団の太鼓の音だけが虚しく響く。
「慣れろ。うちはそういう球団だ」
登米は肩をすくめ、グラウンドに目を戻した。
「お前、今日のスタメンだろ。チャンスなんだから、結果出せよ」
「はい、頑張ります!」
翔太は力強く頷き、ヘルメットを手に立ち上がった。ドラフト5位、鳴り物入りとは言えないが、チームの層の薄さ、そして話題性が欲しい球団の方針から開幕スタメンに抜擢された。内野手として、ショートを守る。
子供の頃、テレビでシルバーフォックスの試合を見て育った。
あの頃のチームはもっと輝いていた気がするのに。
フィールドでは、チアリーダーたちが試合開始前のパフォーマンスを始めていた。鮮やかなシルバーのポンポンが春風に揺れ、軽快な音楽に合わせてダンスが繰り広げられる。リーダーの泉彩花は、ポニーテールに結んだ髪を弾ませながら、笑顔で観客を煽る。白とシルバーのチアユニフォームは、彼女の華奢な体にぴったりとフィットし、動きに合わせてスカートの裾がふわりと舞う。
「ゴーゴー!シルバーフォックス、ファイトー!」
彩花の声は、掠れたスピーカーにも負けない明るさで響く。彼女の瞳は、ダッグアウトの翔太を一瞬だけ捉えた。幼馴染の彼がプロのユニフォームを着ている姿に、胸が熱くなる。あの頃の約束を、彩花は今でも覚えている。「翔太がプロ野球選手になったら、彩花はチアリーダーになる」。そして、その先の約束も――。
「彩花、ちょっと気合い入りすぎじゃない?」
隣で踊るチアメンバーが笑いながら囁く。彩花はハッとして笑顔を貼り付けた。
「だって、開幕戦だよ! 盛り上げなきゃ!」
彼女の声は弾むが、心の中では別の思いが渦巻いていた。翔太がスタメンで出る試合。絶対に失敗させたくない。
しかし、彩花の思いとは裏腹に試合は、予想通り厳しい展開だった。シルバーフォックスは初回に2点を失い、3回にはエラー絡みでさらに3点。翔太はショートで堅実な守備を見せるものの、打席では何もすることが出来ず2打席連続の見逃し三振。スタンドからはため息と野次が混じる。
「松島! ! プロ野球選手向いてないからさっさと荷物まとめて家に帰れ!」
野次に、翔太は唇を噛んだ。ダッグアウトに戻ると、登米が肩を叩く。
「気にするな。次だ、次」
試合は結局、2-7で敗北。翔太はこの日、4打数0安打4三振。
バットに当てることすらできなかった。
ロッカールームは重い空気に包まれ、選手たちは黙々と着替える。登米だけが、淡々と後輩たちに声をかけた。
「開幕戦で負けるのはいつものことだ。明日からだぞ」
翔太はユニフォームを脱ぎながら、今日の試合を反芻していた。
そのとき、スタジアムの外野席に設けられた簡易ステージで、異様な空気が流れた。スーツ姿の少女がマイクを手に立ち、観客に向かって話し始めたのだ。
藤堂すずめ、18歳。仙台シルバーフォックスの新社長だ。黒のテーラードジャケットに、白いブラウス、タイトなスカート。長い黒髪は緩やかなウェーブで肩に落ち、鋭い目つきが場を支配する。
「皆様、今月から仙台シルバーフォックス球団の新社長に就任いたしました藤堂すずめです。本日は開幕戦にお越しいただき、ありがとうございます」
彼女の声は、冷静で、どこか威厳を帯びていた。観客席のざわめきが一瞬静まる。
「我々は現在、厳しい状況にあります。資金難、施設の老朽化、そして成績の低迷。しかし、私はこのチームを必ず再生させます。皆様のご支援が必要です。共に、シルバーフォックスを再び輝かせましょう。本日は残念な試合でしたが引き続き応援のほどよろしくおねがいいたします。」
すずめの言葉に、観客からまばらな拍手が起こる。だが、その中に冷ややかな声も混じる。
「なんでこんな若い女が新社長なんだよ! 球団潰す気か!」
すずめは動じず、軽く微笑んだ。
「ご批判は受け止めます。ですが、結果で皆様の信頼を勝ち取ります」
異様な空気、そしてすずめの声を聴いた選手たちがロッカールームからダッグアウトに出てきた。
翔太は外野席に見える小さなその姿をじっと見つめていた。
18歳で社長? 藤堂財閥の令嬢だと噂で聞いたことがあるが、こんな若い子が本当にチームを立て直せるのか。半信半疑だったが、彼女の言葉には不思議な力があった。
あの社長、本気でチームを変えるつもりなのか?
ロッカールームに戻り、そんなことを考えていたそのとき、ロッカールームのドアがノックされ、彩花が顔を覗かせた。チアのユニフォームからカジュアルなデニムのショートパンツと白のTシャツに着替えている。ポニーテールはほどかれ、髪が肩に落ちていた。
「翔太、お疲れ! 一緒に帰ろ!」
彩花の声は少し緊張している。翔太は少し驚きながらも頷いた。
「うん、いいよ。外で待ってて」
二人がスタジアムの裏口を出ると、春の夜風が冷たく頬を撫で、桜が舞う。スタジアムに隣接する公園の街灯がぼんやりと光る中、彩花は少しもじもじしながら口を開く。
「翔太、今日、初めてのプロの試合だったよね。すっごくかっこよかったよ!」
「いや、全然ダメだったよ。何もできなかった…」
翔太は苦笑いするが、彩花は首を振る。
「そんなことない! 翔太がショートで守ってる姿、めっちゃ輝いてた! 私、チアやってて、翔太の活躍応援できるの、ほんと嬉しいんだから!」
彩花の笑顔に、翔太の胸が少し温かくなる。幼馴染の彼女は、いつもこうやって励ましてくれる。
「ありがとな、彩花。明日、絶対打つからさ」
そのとき、スタジアムの駐車場の方から足音が近づいてきた。新社長だった。彼女は黒のコートを羽織り、ヒールを鳴らしながら二人に近づく。
「松島翔太選手、ですね」
すずめの声は、演説のときと同じく冷静だった。翔太は少し身構える。
「はい、そうです。社長、ですよね?」
「藤堂すずめです。今日の試合、お疲れ様でした。結果は残念でしたが、あなたの守備は光るものがありました」
「え、どうも…」
翔太は少し面食らう。社長がわざわざ選手に話しかけてくるなんて。
そのまま流れるようにすずめの視線が、彩花に移る。
「泉彩花さん、新人チアリーダー。今日のパフォーマンス、観客を盛り上げていましたね。素晴らしい仕事です」
「え、社長に褒められるなんて…ありがとうございます!」
彩花は頬を赤らめ、ぺこりと頭を下げる。
すずめは再び翔太に目を戻し、静かに言った。
「松島選手、明日から、球団の新たな取り組みにご協力いただきたい。ファンとの交流イベントをスターモール仙台で開催します。あなたのようなこれからを担う若手選手の参加が不可欠です」
「ファンイベント? 俺、なんかそういうの苦手なんですけど…」
翔太は頭を掻くが、すずめは微笑む。
「慣れます。あなたには、シルバーフォックスの顔になってもらうつもりです」
その言葉に、翔太は言葉を失った。
彩花は少し不安げにすずめを見つめ、すずめはそんな彩花に気づかず、踵を返して去っていく。
ヒールの音が夜の駐車場に響き、春の夜は静かに更けていった。
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