闇堕ち寸前の妃殿下、記憶喪失になったので平和主義に走ります
「殿下、あまり無理をなさらないように……!」
侍女長のソニアが、崩れるように転倒した私――王妃マティルダを必死に支えようとしてくれていた。柔らかな絨毯の上とはいえ、頭を強打したらしく視界がぐらりと揺れる。けれどその瞬間、今まで自分がどんなことをしてきたのか、一切合切が闇の底に沈んでいくように記憶が失せた。やがて瞼を閉じ、思考はそこで途切れた。
次に目を開けたとき、目の前には心配そうに顔を覗き込む何人もの侍女たちがいた。見慣れぬ天井のきらびやかさに、ここがただの部屋ではないと分かる。だが、自分の名前も立場も何もかもがはっきりしない。
「目が覚められましたか? マティルダ様、どうかご無事で……」 「えっと……私、マティルダ……? ええと、その……」
ふわふわとした頭で確認するように口にする。侍女たちは小声で囁き合いながら、少し距離を置いて私を見守っていた。どうやら私は大切な身分らしい。だが、その敬いの中に隠された微妙な“怯え”の色が、妙にひっかかる。
「マティルダ様、いまは安静になさってくださいませ」 「はい。ありがとうございます。ところで、わたくしは……どのような立場なのでしょうか?」 「そ、それは……」
侍女の一人が言いよどむ。その気まずそうな顔を見て、こちらとしてはますます混乱が深まる。――すると、その重苦しい空気を裂くように、扉の外から力強い声が届いた。
「失礼する」
現れたのは、漆黒の髪を長く束ね、冷徹とも評される瞳を持つ男性。濃紺のマントには豪奢な金糸の刺繍が施されている。周囲の人々が一斉に膝をつき、頭を垂れた。私も慌てて同じようにしようとする。
「陛下……!」 「構わぬ。下がっていろ」
侍女たちを下がらせると、男性は私の傍らの椅子に座る。私は固唾を飲んで彼を見つめた。――“陛下”。つまりこの人が王なのだ。私が王妃なのだと、頭では理解するものの、胸は妙な緊張感に包まれる。
「マティルダ、具合はどうだ?」 「はい、少し……頭がぼうっとしております。あの……申し訳ありません、私、何も思い出せなくて……」
すがるように視線を向けると、王――レオンハルト陛下は微かに眉をひそめた。まるで思案しているような表情。そのまま、淡々とした調子で口を開く。
「記憶を失った、と侍医から聞いた。しばらくは動揺もするだろうが、ここはお前の居場所だ。治療と静養に専念するように」 「……ありがとうございます」
冷たく突き放すような態度かと思いきや、その声色にはどこか微かな優しさが滲んでいる。不思議と安心して、ほうっと息をつく。同時に、私が以前どのような振る舞いをしていたのか――その秘密を探りたい欲求が胸を満たしていった。
後日、医師の診立てがあり、私はやはり記憶を失っていることを正式に診断された。それでも国事を一切放り出すわけにはいかないらしく、私がどのように振る舞うべきか、まずは侍女たちに助けを請うことになった。
「マティルダ様は、本来たいそう高位の魔術師にして、陛下の正妃でいらっしゃいます」 「魔術……私にそんな力が?」
ソニアの説明を受け、首を傾げる。今は微塵も実感がわかない。それでも、“先日まで”の私が恐ろしいほどの魔力を扱っていたのだと皆が口々に言うので、間違いないのだろう。だが、そこには決まって暗い表情がつきまとった。
「それにしても、こうして穏やかなマティルダ様をお見かけするのは、なんだか新鮮です」 「え……私って、怖かったんですか?」
あまりに皆が“別人”というので、正直に問いかける。すると、その場にいた侍女たちが互いに視線を交わし、答えに窮した。もちろん私に悪意があるわけではないと分かっていても、過去の言動を正直に伝えるのは容易ではないのだろう。
「色々と……大変なことがありましたので、少しばかり感情が不安定だったのだと」 「そう……だったのですね」
私が首をすくめると、ソニアは申し訳なさそうに微笑む。きっと尋ねられても答えにくいような出来事だったのだろう。けれど、それがどんな過去であれ、失ったままなら今の私に関係はない……とは、思えない。王妃として責任があるのではないだろうか。
城を少しだけ散策してみれば、あちらこちらで私に対して怯え、かつ戸惑った目が向けられるのが分かった。誰もがひっそりと距離を置こうとする。だが、その表情は先入観だけではないように思う。――きっと私は、ほんとうに“闇堕ち寸前”と言われるほどの激しい負の感情を燃やしていたのだろう。
「おはようございます! いいお天気ですね」
けれど何も思い出せない今の私は、ただ素直に人々と接したいと思った。庭で花の手入れをしている使用人に声をかければ、彼らはひどく驚いた顔をしてから、ぎこちなく挨拶を返してくれる。敬語も上下関係もあやふやだが、私は嬉しかった。
驚きや不審の中にも、一度微笑をかわすと、次からはほんの少し気持ちを許してくれる。そんな小さな変化が積み重なり、侍女や騎士たちの態度も徐々に柔らかくなっていった。
王のレオンハルト陛下もまた、私の変化には強く戸惑っているようだった。執務室へお茶を届けに行ったときのこと。
「……お前は、あれから様子がずいぶん変わったな」
机の上に急ぎの文書を広げながら、王は低い声で言う。私は遠慮がちに笑ってみせた。
「正直なところ、私自身も戸惑うばかりです。周囲の話からすると、以前の私はかなり荒んでいたようで……。それでも、今はどこか心が晴れやかで……不思議ですね」 「……そうか」
淡々とした返事。けれど、その瞳の中には、氷が解けるようにほんのわずかな優しさが宿っているのを感じた。もしかすると、王も過去の私に対して葛藤や憎しみを抱えてきたのかもしれない。それでも、今の私をそのまま受け止めようとしてくれている――そう感じて、胸が温かくなった。
「陛下、何かお困りのことはありませんか? 私がお力になれることがありましたら、ぜひお手伝いしたいのです」 「お前が……手伝いを、か」
王は驚いたように目を見開く。そして少し考え込んだあと、静かに口を開いた。
「近隣諸国との条約交渉が難航している。もともとお前は魔力を活かして軍事面で脅威を与えることで、半ば強引に国益を得ようとしていた。しかし今の方針は……そのようなやり方に頼るべきではないと、わたしは感じている」 「はい。私もそう思います。争いの火種はできるだけ取り除いていきたいです」
私がはっきりとそう答えたとき、王の瞳が見開かれた。驚き――それにほのかな安堵の混じった色。
「……なら、協力してくれ。お前の立場と、かつての威厳はまだ健在だ。人々の印象が変化するなら、新たな交渉の道も開けるかもしれない」
私は嬉しくなって、大きく頷く。記憶はない。だが、この国の人々が少しでも争いから遠ざかるのなら、身を尽くしたいと自然に思えた。
こうして王とともに、私は周辺諸国との和平交渉に力を尽くすことになった。と言っても、私はただの素人同然。だからこそ、城内の有能な文官たちの力を借り、必死に条約の文面や相手国の文化・歴史を学び直した。最初は誰もが戸惑いつつも協力してくれ、私の真摯な姿勢を見て、次第に表情をほころばせてくれるようになった。
「マティルダ様、こういった言い回しは……」 「ありがとうございます、なるほど。では、その表現を使って交渉の場で提案してみましょう」
かつての私は傲慢な態度を取っていたらしく、文官らにさえ威圧的な指示をしていたという。今は申し訳なさでいっぱいだ。それでも彼らは、今の私を信じて受け入れてくれている。その優しさに報いたい一心で、私は連日朝から夜まで勉強をし、協議に参加した。
「あなた、無理はしていないか?」
ある晩、すっかり遅い時間になってから執務室を出ようとすると、王がそっと声をかけてくれた。その表情には、微かな憂いがある。
「少しは休め。お前の身体を壊したら……いや、あまり言葉にしないでおこう。とにかく、次の会議は数日後だ。寝るべきときに寝ろ」
私の顔を正面から見つめる王の瞳。その奥に、かすかな熱が揺れているのを感じて胸が高鳴る。どうやら、彼は私のことを心配してくれているようだ。
「はい……ありがとうございます。陛下も、お疲れのようです。少しはお体を休めてくださいませ」
そう言うと、王は気恥ずかしそうにわずかに目をそらし、「ああ」と一言返す。けれどその横顔は、以前よりずっと柔らかい空気を帯びていた。私は胸の奥が熱くなり、こみ上げる幸福感を噛みしめる。
そんなある日、以前の私を崇拝していた“過激派”とも呼べる一部の貴族が、私の新しい方針――力によらない外交――に強く反発していることを知った。彼らはかつての“闇に傾くほどの威圧的な魔力”を武器に、周辺諸国をねじ伏せ、領土を拡大することを望んでいたらしい。
「我らはマティルダ様にこそ、この国の軍事の実権を握っていただきたいのです」 「……でも私は、争いで人を脅すやり方には反対です」
はっきりそう告げると、貴族たちは納得いかない様子で睨みつけてくる。その視線の奥にあるのは、かつての私への盲信と支配欲。おそらく彼らは、以前の私が抱いていた暗い憎悪や破壊衝動に共鳴していたのだろう。
「昔のように、敵国を恐怖で跪かせてください!」 「……もしそれを続ければ、いつかこの国は滅びの道を歩むでしょう。恐怖による支配は、憎しみを溜めるばかりです」
きっぱりと否定した私に、彼らは落胆と怒りをあらわにした。「どうしてそんなに丸くなったのですか」と詰め寄る声を聞きながら、私は胸が痛んだ。――きっと昔の私は、彼らの期待に応えるような行いをしていたのだろう。だがもう、それを繰り返すつもりはない。
「以前のようには戻りません。いまさら嘆いても、現状は変わりようがないのですよ」
そこには、もう取り返しのきかない溝が生まれている。彼らの怒りは、大切な“同士”に裏切られたという感覚からくるものだろう。けれど私にとっても、今の平和的な道を捨てて過去の姿に戻るなど、あり得ない選択だった。
やがて和平交渉は大詰めを迎え、私たちは隣国の大使を招いて城での公式会議に臨んだ。ここで合意に至らなければ、武力衝突を回避するのは難しいと噂されている。以前の私なら、それを好機とばかりに脅しをかけたのかもしれない。だが、今は違う。私も、王も、関係者も全力で交渉に集中し、和平の可能性を探り続けた。
「――この条文は、実際のところ貴国にとって一方的に不利というわけではありません。むしろ商業的には新しい路を開くきっかけとなるはずです」
懸命に相手を説得する私の言葉に、隣国大使は険しい顔をしながらも、徐々に耳を傾けるようになっていく。積み重ねた下準備と、誠意をこめた対話が功を奏したのだ。
それでも最後の一点、相手国側から「貴国の王妃がかつて起こした魔力暴走により、多くの諸侯が被害を被った」という指摘がなされたとき、私は胸が苦しくなる。たとえ記憶を失っていても、それが私の過去の罪であることに変わりはない。
「その件は……なんとお詫びをすればいいのか。私自身が償いのためにできることを、どうか示していただけませんか」
顔を上げ、相手の目をしっかりと見据えて懇願する。すると、大使は言葉を失ったように瞳を見開いた。それから重々しく息をつき、テーブルに置かれた契約書の束を静かに指し示した。
「ならば、我が国の領民に対する支援として、物資と医療の支援を……可能な限り提供していただきたい」 「わかりました。私の名にかけてお約束します」
その答えに、王をはじめ周囲の文官たちも大きく頷き、具体的な協議が再開される。――そしてついに、無事に両国の合意が締結された。会議の場が安堵のため息に包まれ、わずかな拍手さえ起こった。
「よくやったな、マティルダ」
交渉後、廊下を歩く私に声をかけてきたのは王だった。その声は厳粛さを残しつつも、どこか穏やかな響きを帯びている。
「いえ、陛下と皆様の支えがあったからこそ。私一人では到底、こうはなりませんでした」 「……それでもお前の力が大きかったのは確かだ。記憶を失ったとはいえ、かつての強大な魔力の影響力と、今のお前の真摯さが、相手を動かしたのだろう」
私は素直に嬉しくなり、微笑む。すると王は、少しだけ言いにくそうに視線を落とした。戸惑う様子が妙に可愛らしく見える。
「お前をこうして近くに感じるのは、長らくなかったことだ。……すまなかった。もっと早く、お前と向き合うべきだったのかもしれない」
その言葉は、王がどれだけ私との過去に苦しんでいたかを物語っている。――それでも、今こうして互いに歩み寄れたことが嬉しい。私は穏やかに微笑み、「いえ、私も全てを忘れてしまった身ですので」と返した。
「それに、これからは一緒に前を向いて進みたいと思っています。私が過去に何をしていたとしても、いまは……もう戻れないからこそ。二度と暗い道には堕ちないように、この国を守るために、力を使います」
その言葉に王はゆるりと頷き、私の手をそっと取った。その大きく温かい掌に触れたとき、胸に満ちるのは、深い安心と喜び。
後日、和平が成立したことを知ったあの過激な貴族たちは、私に再度接触してきた。けれど、その頃にはすでに世論は「争いから遠ざかった王妃を称える」声に変わっている。私が闇に傾いていた過去を知る人々も、今の態度を見て心を開き始めているのだ。いまさら自分たちの言葉で威圧に走ろうとしても、周囲はついてこない。
「マティルダ様、今こそ魔力で……」 「申し訳ありませんが、あの日お伝えした通りです。私の選ぶ道は変わりません」
はっきり拒絶した私に、彼らは「そんな……!」と声を震わせて絶望した。彼らが私を取り込もうと動き始めたのは、すでに手遅れ。もう私がかつての姿に戻ることはないし、宮廷内にも彼らを支持する勢力はほとんど残っていない。どれほど後悔や憤慨をぶつけられようと、世の流れは変わりようがなかった。
結果として、彼らは自らの行いの報いを受けることになる。それまでに犯した不正が明るみに出て、王の勅命により審議を受ける身となった。「今さら許しを請われても」、それが返せるほど私の過去は甘くないと、彼ら自身が思い知る形になっていた。
夜の王宮のバルコニー。ふと涼しい夜風に当たりたくて外に出ると、ちょうど王も同じ場所で月を見上げていた。
「……考えごとですか?」 「少しな。国の未来について、そして……お前とのことも」
横顔を見つめると、王は照れくさそうに微笑む。記憶をなくした私は、もしかするとどこか抜け落ちている部分があるのかもしれない。それでも、こうして隣に立てることがどれほど幸せか、その気持ちは偽りようがない。
「国の将来は、まだまだ課題が山積みですね。私も、力の及ぶ限りお手伝いしたいです」 「助かるよ。お前が変わってくれて、本当によかった」
柔らかな声。闇堕ち寸前とまで言われた自分が、いまここにこうして存在できている。それは、私を受け入れてくれた人たち、そして何より王の器の大きさあってのことだろう。失った記憶も、私たちにとっては一つの新しいチャンスになったのだ。
王は私の手を取ると、そっと指を絡める。互いに見つめ合う瞳には、もう氷のような冷え切った光はない。そこには確かに、優しくあたたかなぬくもりが宿っていた。
――負の感情を捨て、愛される喜びを知った今だからこそ、私はようやく“王妃”としての本当の責務を果たせるのだと思う。たとえ過去の行いがどうであれ、もう後戻りはしない。愛する人と、そしてこの国の人々とともに、平和のために歩み続ける。それが、闇堕ちの境界をさまよった自分への――そしてかつての私を崇めようとしていた者たちへの、最後の答えになるのだろう。
王妃マティルダとして、真っ直ぐに笑っていられる未来。その眩しさが、私の胸を満たしてやまない。月の光に照らされたバルコニーで、そっと王の肩に寄り添いながら、私はそう確信していた。
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