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Two Rings !  作者: みみつきうさぎ
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第2話「やかたさんのやかた」

■登場人物


大空とんぼ (おおぞら とんぼ)

 高校を中退して家に引きこもっているところを隣家の八方さんに旧式のバイクヤマハ『RZ250』を預けられる


八方さん (はっぽうさん)

 とんぼの隣家の住人 とんぼにある届け物の依頼をする


八方 せせり (やかたせせり)

 十七歳の高校生、北海道の港町にあるとほ宿『やかた』の看板娘 次女 愛車はカワサキ『ニンジャ400』


八方 あげは (やかたあげは)

 長女 『やかた』の棟つながりにあるスナック『胡蝶』のママ 愛車はスズキ『刀ファイナルエディション』


八方 しじみ (やかたしじみ)

 あげはの長女 明るい小学二年生 愛車は自転車ブリヂストン『ハッチ』補助輪やっと取れたところ


八方 栗子 (やかたくりこ)

 『やかた』のふてぶてしいマスコット白猫


鈴木 マルコ (すずきまるこ) 

 旅人ネーム『マルコ』を自称するオフローダー 愛車はスズキ『ジェベル』


デイビー・キング (自称)

 『ハーレー』をこよなく愛し、『ハーレー』乗りにふさわしいライダーをとことん追究する中年男性 愛車は『FLHRC ロードキング クラシック』


美留 愛子 (みとめあいこ)

 女子大生ライダー 愛車はスズキ『隼』


大西 えま (おおにしえま)

 女子大生ライダー 愛車はヤマハ『YZFR1』


北風のシンヤ          

 ただ風と共に走ることを生きがいとするロマンあふれる伝説の中年ライダー 愛車はカワサキ『Z1000』


来鹿 弘明 (らいかひろあき)

 鉄道おたく 主に乗り鉄の青年 愛車は『国鉄キハ54形気動車』


よねやま のん

 自分の最後の場所を探し求める動画配信者 愛車はホンダ『PCX160』


四平 さんぺい (よつひらさんぺい)

 伝説の怪魚を追い求める青年釣り師 愛車はホンダ『ハンターカブ125』


月野 なるみ (つきの なるみ) 

 コスプレーヤーで男の娘 愛車はロイヤルエンフィールド『クラシック350』



 風が冷たい。


 家を出てきた時の布団に包まれていたようなあたたかさがまるで嘘のようだった。とげとげしい指先で頬をつつく空気は、僕の緊張する気持ちさえも容赦なく貫く。


 大きな商業施設越しに見える山肌にびっくりするほどの家が建っているのが見えた。


(あんなに高い所にも家がある……とても眺めが良いだろうな)


 心の中のつぶやきが多くなるのをどこかで否定しながら、僕は海沿い、時には谷に沿って大きく湾曲する山間の道を走った。


 行き先表示板に『札幌』という何度も耳にしたことのある地名が書かれていた。でも、今の僕には興味があまりわかないものだった。ただ、早く届け物を渡して楽になりたい気持ちの方が強い。


 ちょっとした路地に分け入る道でも県道以上の幅、北海道に上陸してからその道幅がとても広いことに驚く。

 僕が子どもの頃に住んでいた街は、昔の畑のあぜ道をそのまま道にしたようなぐねぐねと曲がる塀に囲まれた狭い所ばかりだったので、印象は余計に強い。


 四車線の石狩街道と地図に書いてある道は、次の信号も見えないくらいに離れている。


(誰も走っていない)


 誰も走っていないというのはオーバーな表現だけど、すれ違う車はめったにと言っていいほどなかった。


 商店や建物もほとんどない。

 のろのろ走る僕のバイクの横を猛スピードで抜いていくトラック。

 信号で止まる時も一人、走っている時も一人。

 僕のバイクの音だけが路面のこだままで拾っているように聞こえる。

 僕の気付いていなかった感覚がまた一つ敏感になっていく。


(太陽って、こんなにあたたかいものなのか)


 初めての経験だった。

 真横から差し込む強い力をもつ光。

 石狩川の流れる広い平野に昇ってくる太陽



(自分は、どうしてここにいる?)


 誰も僕を知る人がいない街で、誰も僕を知る人がいない道路で、一人で走る時間。

大きな排気音を出し僕のバイクを追い抜いていく大型アメリカンバイク。


 左手を高々と上げ、僕にサムアップするその姿は、『ロードキング』だった。

 違う僕を知る新しい変な人。


 この道は不思議だ。景色が紙芝居のようにどんどんと変わる。


 広々とした所を走っていると思ったら、北へ向かうにつれて、アップダウンが繰り返され、山がどんどんと大きくなる。そして、海を眼下に見下ろす高台の道になる。


(日本じゃないみたいだ……)


 青空の下、日本海が明るい青と暗い青がマーブル模様で塗られ、白い雪をいただきに残す高い山の稜線が海にそのまま落ちていく崖沿いの道がどこまでも続く。


 全てが吸い込まれるような景色に呆然とした僕は、先を急ぐ気持ちを忘れ、思わずバイクを止めてしまっている。


 ゆっくりと磯へ打ち付ける波がここまで届いてくるようだった。

 芽吹いたばかりの若葉、そして、飛ぶウグイスの長く続く鳴き声。


(僕は、いったいどこにいるんだ)


 そよ風が少しだけあたたかくなったことさえも感じることができる自分に少しだけ気付いた。


 それからは、潮の香りのするトンネルの多い海沿いの道が続く。明るくなって、暗くなる、そして、また明るくなることの繰り返し。


 僕の走っている場所は、知らぬ間にだいぶ海面よりも高くなっていた。見下ろす先の海面がまぶしく光っていた。


(!)


 トンネルとトンネルの間の小さな駐車帯の手前で、急に僕の乗るバイクのエンジンが止まった。

いつもだったら、キックするとすぐにエンジンがかかるはずなのだけれど、ずっと黙っている。

 全く原因が分からない。

今、走ってきた道を振り返ると、バイク屋どころか、ガソリンスタンドさえないことに気付いた。


(まさか……)


 ガス欠だった。


リザーブコックも開けたままだったので、一滴のガソリンすら入っておらず、タンクをたたくと軽やかな音を立てた。


 案の定、スマホも圏外。


 画面から目の話せなくなった落ち込む僕の耳にウグイスの軽やかな鳴き声が届いた。

 慣れない地図の本を開き、自分が現在いるであろう地点を予測したが、「最高の景色が広がる」と赤い文字が躍るだけで、市街地を示す文字はない。


(一番、近い街は?)


約十キロ。


 こんなに早く「危機」という言葉に出会うとは想像もしていなかった。

目の前を通過する車はゆうに百キロは出ているのだろう、あっという間に先の見えない長いトンネルの中に消えていく。

助けを求めた瞬間、ひかれている自分の姿をすぐに想像してしまった

 重い荷物を載せたバイクを僕は押すこと、それはもう決まっていた。


(あぁもう、面倒くさい)


 このままバイクをトンネル待避所の中に放置していこうかとさえ思った。


 悠々と道路を横切る薄茶色の細い身体の犬がいた。


(犬……もう、民家が近いぞ)


 犬……?犬にしては妙な生き物だ、鼻の部分が前につきだしている感が強い、そして、耳だ、いや、足の形も微妙に違う。テレビで見るキツネは黄金色の毛づやで丸々と太っている。しかし、そこにいるのはみすぼらしい毛が抜けている変なものだ。


「キツネ?」


 彼は道脇で止まった。僕に気が付いているのはもちろんだが、こちらをしっかりと見据えている。


こいつは僕に何を求めているのか……少し進むと進んだ分だけついてくる。


 目力の強いそいつはぺろりと長い舌で自分の口をふく。


 餌だ……間違いない……こいつは


「俺に餌を求めている!」


 しかし、食べ物といえば辛い『フリスク』くらいしかない、こいつは食べる?食べるのか?もし、食べたものの辛くて吐き出したりしたら、俺のことを恨むんじゃないか?お稲荷さんの祟りはきついと小学生の頃に読んだ本がある……それは、まずい。


 第一、野生動物への餌やりは野生動物のためにもご法度だ。


 八方さんにこのことは教わっていない。

教わったのは、『エキノコックス』という虫をキツネは持っているので、いくらきれいな水でもたまり水を飲むなとか手で触るなとか……でも、こいつは……。


 もう一度見ると、キツネが三匹に増えていた。


「まさかのファミリー登場かよ……」


 だるまさんが転んだ状態がしばらく続くそのうちに、パタパタとした軽いエンジン音をさせながら一台のオフロードバイクがこっちに走ってくる。

 シールがべたべたと貼られたひさし付きのヘルメットに見覚えがあった。


 オフロードバイクは、僕の立つすぐ横に停車した。


「やぁ、さすがナチュラルボーイくんだね、さっそくそんなに北の友達をつくって、うらやましいなぁ」


 バイクの音に驚いたキツネたちは少し離れたやぶの際まで距離を離した。


「おや、この大自然の奏でる音楽を直に聴くためにエンジンを切ったのかい、やっぱり君は生まれつきのナチュラリストだよ、やっぱり君は根っからの旅人だよ、中世に生を得た吟遊詩人のような」


「あ、あの……」


「ちょっと待って、僕もその大自然のハーモニーを聴いてみたい、君と一緒に」


 エンジンを切り、ヘルメットを取ったマルコさんの髪の毛は、ヘルメットの内装模様がそのまま写し出されたようにきれいに渦巻いていた。


「ああ、ホントだ、眼下の日本海の波の音まで聞こえてくるじゃないか、僕は何度もこの道を走っているけれど、海と鳥と、木々のざわめきがこんなに立体的に、メタルテープのようなきれいな音質で聞こえる所はないよ、自然が作り出す真のドルビーサウンドだね、ほら、ウグイスとカモメの二重唱だ」


 マルコさんは、うっとりと目を閉じている。


「いや……そういう訳じゃなくて……」


 僕はそういうマルコさんに、なかなか切り出すタイミングをつかめなかったが、ようやく事情を説明するとすぐに大きな箱からアルミ缶のようなボトルを取り出した。


「なぁんだ、そんなことだったらすぐに教えてくれればよかったのに、さぁ、タンクのふたを開けて」


 ポンと大きな音をさせ、ボトルのふたをあけたマルコさんは、赤っぽい色の液体をタンクに注ぎこんだ。


「はい、おしまい、エンジンをかけてごらんよ」


 僕のバイクはすぐに元気なエンジン音を上げた。


「ありがとうございます」


「困った時はお互いさま、今度は困った人を君が助けてあげる番さ、ここから峠を下れば港町に入る、そこはね、数年後、廃止される鉄道の駅があるんだ、よかったら君も行かないか」


「僕はスピードを出せないし、スタンドも探さなくちゃならないんで」


「そうか、でもまたどこかで会おうな、おっと忘れないうちに……」


 マルコさんはキャリアに摘んでいたバイクから小さなノートを取り出し、さらさらと何かを書くと僕に手渡した。

 そこには『請求書ガソリン代レギュラー一リットル二千円(手数料・学習代・税込み)』と書かれていた。


(二千……随分と足元を見てくるなぁ)


 しかし、こうなったのもガス欠した自分の責任なのだ。僕はお金をその場で払い、マルコさんを見送った後、バイクにまたがった。


 キツネたちはもう立ち去っていた。どうやらj僕たちを相手にしても何もくれないことを察したらしい。


 山のトンネルを抜けると、はるか向こうまで長い坂道。青と白色の海岸線が水平線と地平線の交わるところまで続いている。


 日本海に面した目的の街は思ったよりも小樽から近い。


 僕は漁具を載せた軽トラの後ろにつくようにして港町へと向かった。

 小さな港町の駅前通りには、古い建物が建ち並んでいた。その中の一軒は大きなつくり酒屋や蔵が建ち並ぶ。


 マルコさんの言った通り線路が途切れた駅と小さな駅舎があった。

 それは駅とは言うには、あまりにも小さく、ホームが改札側に一か所あるだけだった。当然、自動改札機はない。


 薄暗い駅舎の中の時刻表には、一日に、わずか数本しか走っていないことが記されていた。次の列車は夕方まで待たなくてはならない。


 誰もいない駅舎の改札口を通って僕はホームに立った。

 街の騒がしさは目の前を自動車が通り過ぎる時だけで、カモメの鳴き声が駅の発車のアナウンスのように辺りに響いた。


(本当に遠いところまで来たんだ)


 八方さんの教えてくれた目的の場所は、もうここから近い。

 

 今、僕の目の前には、二階建ての古びた建物が鎮座している。

 古びているなんてものじゃない、昭和初期……ううん、もっと古い時代のものかもしれない。二階の窓の上には、金属製の合計の合の字の山のような形をした上の部分だけが、何かのマークのように取り付けられていた。


(カルト宗教の施設か何かか?)


 一瞬、ドキッとしたけれど、考えてみればこんなに古くて倒れそうな秘密結社の建物は存在しそうにない。


 玄関先に立てられた幟には『やかた』と水色っぽい布地に白い文字が染め出されていた。

 僕は大きく息を吸って、扉脇に据え付けられた呼び鈴のボタンを押した。


「はぁい、どうぞ中にお入りください」


 年老いた老人の声を想像していたのだけれど、曇りガラスの扉の奥から聞こえてきた声の主は、間違いなく若い女性だった。


 狐につままれた気分で、ガラス戸を引くと、思ったよりも広い玄関が目の前に広がった。

 正面の壁にかけられた年代物の大きな柱時計の振り子が揺れている。


「いらっしゃい、バイクの泊まりですね、裏に屋根付きの駐輪場があるのでそこにとめてくださいね、その間、荷物はここに置いても大丈夫ですよ」


 この建物とは相対する整った顔立ちと、円く輝く瞳は、そういうことにあまり興味がない僕の心をくすぐった。


「あの……」


「あ、もしかして予約していない飛び込みの方ですか?今日は、まだ、空きがあるので、二、三名くらいでしたら大丈夫です、でも、夕飯はちょっと食材の関係で間に合いません、近くに何軒か食堂もあるから後でご案内いたしますね」


 彼女は僕に言葉の隙を与えないが、早く、僕も用事をすませたい。僕は話をさえぎるようにして声をかけた。


「あの、八方はっぽうさんをご存じですか?お渡しする物をあずかってきたのですが」

「はっぽうさん?」


「あれ?はちかたさんかなぁ、八の字に方角の方って書いてあったから、いつも『はっぽう』さんて読んでいたんだけど」


「そう書いて『やかた』って読みます……あ……」


 女の子は何かに気付いたように話を止めた。今まで太陽のように明るく見えた子の顔から、表情が全て消しとばされたかのように僕には見えた。


「僕、はっぽう……いや、八方やかたさんの家の隣に住んでいる者ですけど……八方さんから渡してほしいと……」


 僕は預かっていた手紙と小さな箱を渡した。


 女の子は、僕が手渡そうとしていた手紙をもぎとるように取り、とても慌てた仕草で封を開け、その場で読み始めた。


 僕は何か気まずくなってきて、この場からすぐに離れたい衝動にかられた。


「どこ、どこにあるの?」


 その子は靴下のまま、広い玄関の土間まで降りてきて、おもむろに僕の腕を両手でつかみ、顔を近付けてきた。


「え?」


「バイクはどこ、教えて、あなたの乗ってきたバイクはどこなの?」


「え……ああ、すぐ建物の横に……」


 女の子は、一度少し戻ってサンダルをはき直し玄関から飛び出していった。僕も気になりすぐに後を追いかけて外へ出た。


 僕が次に見たのは、バイクの前で女の子が顔をくしゃくしゃにして泣いている姿だった。


(大丈夫?何があったの?)


 心の中で、何回も僕はそう思ったけれど、何も言い出すことは出来ず、ただ、この妙な時間の中で翻弄されている。


 ひととき、気を落ち着けた女の子は、家の中に駆け戻っていった。


「お姉ちゃん!お父さんが生きていたよ!」


(生きていた?え?誰が……)


 僕は何かすごいことに巻き込まれそうな予感がした。


「お父さんの居場所が分かったの?だから、心配ないって言っていたじゃない、あの人は昔からそういう人だって、お母さんも言っていたし、でも、昨日まで新潟を探していたのは本当に無駄足だったわね」


 掃除機を片手に階段から降りてきた姉の顔を見て、僕の驚きは続く。


「あら、君は?」


 姉が僕の顔を見て驚きよりも先に、僕の方が驚いた。あのフェリーの中で出会った女の子の母親であった。そして、階段の上からにぎやかな足音が聞こえてくる。


「あ、わーい、私の猫のお兄ちゃん、うちに泊まりにきたの!」


 当然、僕があげたぬいぐるみの白猫を抱えたあの幼い女の子もいた。


「いらっしゃいませ、お兄ちゃん、港のお宿『やかた』へようこそ!」


 一匹の大きく白い猫がのそのそと僕たちの目の前をこれ見よがしに横切っていく。


(おいおい、ぬいぐるみとはまるで似てないぞ)


 僕は玄関に入ってすぐの広間に通されて、年季の入ったソファーに座っている。母親と最初に対応した女の子は何か慌てている声で隣のキッチンで打合せをしている。


「はい、どうぞ」


 あの幼い女の子が、小さなコップに入った麦茶を目の前のテーブルに置いた。


「ねぇ、お兄ちゃん、おじいちゃんのことを知っているの?」


「おじいちゃん?」


「ママね、この前もおじいちゃんを探しに、大きいお船に乗ってしじみと遠い所に行っていたんだよ、お兄ちゃんも大きい船で一緒だったよね」


 銀色の大きなお盆を両手で、ハンドルのようにもったり、身体をクネクネとさせたりしながら僕に話しかけてくる。


「あ、ああ」


「お兄ちゃんのお家はここから遠いの?」


「うん」


「札幌より?」


「うん」


「この前に行った新潟より?」


「うん」


「東京より?」


「その近く」


「大阪?」


「ちょっと遠くなった」


「それじゃぁ、函館」


「もっと遠い」


 女の子は、小さな時から社交的なのか少しも臆さず、僕に色々なことを質問してくる。


「ニャー」


 女の子の声を聞きつけたのか、太り気味の白猫が再びのそりとした足取りで姿を表した。


「お兄ちゃん、これが栗子だよ」


 白猫はふてぶてしい顔付きで、僕を一瞥し、甘えた声で女の子の足下でごろりと横になった。


「大きな猫だな」


 僕が触ろうとしたら、紙を引き裂くような声で僕を威嚇した。


「うわっ」


「こら、栗子、だめでしょ、このお兄ちゃんはね、『栗坊』を生んでくれた人なんだよ」


 何だ?生んだって、僕はそのようなものを産み落としたことなどない。


「栗坊?何なのそれって」


「ほら、あのお兄ちゃんがくれたぬいぐるみだよ」


 向かいのソファーに置かれていたのは、やはり、僕があげたあの白猫のぬいぐるみだった。


 確かにあげた、確かにあげたことは間違いないのだが、それを生んだとは言わないだろう、僕の目の前でこの女の子は何度もふてぶてしい白猫にくり返し言い聞かせている。


「だからシャーって言っちゃだめなんだからね」


 女の子に話し掛けられた白猫は目を細め、ここまで聞こえてくる大きな音で嬉しそうに喉を鳴らしている。


「あの、『大空とんぼ』さんですね」


 僕がおろおろとしている間に、最初に出会った女の子が、手紙を片手に部屋に戻ってきた。まだ、表情からは落ち着きのない雰囲気が伺えた。


「はい……僕が大空ですが」


 その子にフルネームで名前を呼ばれた僕は、いやな予感がした。


「これを読んでもらっていいですか」


 八方さんから預かった手紙のうちの一枚を渡された。


 内容を読んだ瞬間、僕は硬直した。


「大空とんぼ君は、しばらく、宿でヘルパーをさせてください、期間はバイクの部品、修理代金、免許取得費、渡航費、ヘルメット代など含めて百五十万円・税込みを完済できるまで。働いた分のバイト代は宿の雑収入に加えていいです。宿泊費、光熱費については免除してあげるように、食費は実費を受け取ってください、部屋が満室になりそうな時は、テント道具一式を持っているので、フリーのテントスペースを使わせてあげてください、あ、そうそうあのバイクはとんぼ君に譲りました、彼なら俺以上に長く大切に乗ってくれそうな気がしています」


 僕は、何度も目をこすってみたが、そこに書かれている文に間違いはなかった。おまけに最後に八方さんとの連名で、僕の父親の氏名が直筆で書かれ実印が押されている。


(やられた……二人はグルだったんだ)


 何かおかしいとは思っていた。

 家で何もしていない僕に急にバイクを触らせたり、免許を取らせたり、こんな遠い知らない所に行かせたり、違和感は本当に……間違いなくあった。


 僕の手の中から手紙が散りゆく花びらのように滑り落ちていった。


「ねぇ、お姉ちゃん、何て書いてあるの」


 小さな女の子はその紙を拾い上げ、困ったような顔をして立っている女の子に手渡した。


「本当に良いのですか?ちょうど、お姉ちゃんがお父さんを迎えに行くことになったので、これからの季節、人手が足りなかったんです」


 八方さんは彼女の父親で、昔は、病気で亡くなった母親とこの宿を経営していたこと、出稼ぎに行ったまま行方不明になっていたこと、それでも、色々な場所からその給料のほとんどを送ってくれていたこと、連絡が途絶えた最後の場所が新潟県だったので彼女の姉が最近も探しに出かけていたことなどが、彼女の口から直接知ることができた。


「でも、何で八方さんはうちの近くにいたの?」


 僕は、その質問を彼女にぶつけた。


「そこは多分……お父さんがお母さんと初めて出会った街だと思います、お母さんがそこの街の高校を出ていたから……」


 僕はそう言い終わった彼女の目から、父親が健在だったことを安心したのか涙が一粒、こぼれ落ちるのを見た。


 僕はその涙を見たからなのか、彼女に頼まれたことに対し、どう答えたのか、肝心の記憶は今も曖昧になったままだ。


 でも……その日から、僕はこうしてこの宿『やかた』で働いている。そして、やはり自分は単純な人間なのだと、今も自己嫌悪に陥っている。



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