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Two Rings !  作者: みみつきうさぎ
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プロローグ~第1話「バイク乗りには詩人が多い説」

<登場人物>


大空とんぼ (おおぞら とんぼ)

 高校を中退して家に引きこもっているところを隣家の八方さんに旧式のバイクヤマハ『RZ250』を預けられる


八方さん (はっぽうさん)

 とんぼの隣家の住人 とんぼにある届け物の依頼をする


八方 せせり (やかたせせり)

 十七歳の高校生、北海道の港町にあるとほ宿『やかた』の看板娘 次女 愛車はカワサキ『ニンジャ400』


八方 あげは (やかたあげは)

 長女 『やかた』の棟つながりにあるスナック『胡蝶』のママ 愛車はスズキ『刀ファイナルエディション』


八方 しじみ (やかたしじみ)

 あげはの長女 明るい小学二年生 愛車は自転車ブリヂストン『ハッチ』補助輪やっと取れたところ


八方 栗子 (やかたくりこ)

 『やかた』のふてぶてしいマスコット白猫


鈴木 マルコ (すずきまるこ) 

 旅人ネーム『マルコ』を自称するオフローダー 愛車はスズキ『ジェベル』


デイビー・キング (自称)

 『ハーレー』をこよなく愛し、『ハーレー』乗りにふさわしいライダーをとことん追究する中年男性 愛車は『FLHRC ロードキング クラシック』


美留 愛子 (みとめあいこ)

 女子大生ライダー 愛車はスズキ『隼』


大西 えま (おおにしえま)

 女子大生ライダー 愛車はヤマハ『YZFR1』


北風のシンヤ          

 ただ風と共に走ることを生きがいとするロマンあふれる伝説の中年ライダー 愛車はカワサキ『Z1000』


来鹿 弘明 (らいかひろあき)

 鉄道おたく 主に乗り鉄の青年 愛車は『国鉄キハ54形気動車』


よねやま のん

 自分の最後の場所を探し求める動画配信者 愛車はホンダ『PCX160』


四平 さんぺい (よつひらさんぺい)

 伝説の怪魚を追い求める青年釣り師 愛車はホンダ『ハンターカブ125』


月野 なるみ (つきの なるみ) 

 コスプレーヤーで男の娘 愛車はロイヤルエンフィールド『クラシック350』


プロローグ~「朝の掃除の場面はいつもこういった展開から始まることが多い」



 窓から差し込む陽の光は、どんなに冷えたものでも暖かいものへと変えてくれる幸せの時間。

 夜の空気で冷え切った廊下が午前中のこの時間だけは、古い木の香りを立てながら木目をその明るさの中で際立たせていく。


 そこに丸々と太った一匹の白猫が堂々とすべての往来を妨げるように寝転がっている。まさにこの猫のこの猫のためによる万里の長城だ。


 普通の猫であれば掃除機を非常に嫌がるものだが、今、僕の目の前に大きな腹を見せて廊下の真ん中に寝転がるこのおっさんオーラを噴出させる猫は、怖がる素振りさえ見せない。むしろ「俺の安眠を妨害するな」と言いたげに薄目を開けつつ挑戦的な鋭い視線を向けてくる。


「どけよ」


 掃除機の頭で、後ろ脚を軽くこづいても脚の真ん中に伸びた太いしっぽをパタンと二、三度ほど床に打ち付けただけで、眠り続けるふりをする。


 そう、ただの『ふり』だ、こいつは決して寝ていない。


 その証拠に、僕が手で避けようとするといきなり囓り付く、この薄目でどこに嚙みつこうかと手練れのスナイパーのように照準を当てているのだ。


 好きな人に動物がよくすると言われる甘噛みなど生易しいモノではない、四つの脚の全部の爪を最大限に伸ばし、僕の手の甲に思い切り突き立てる、まさに白い悪魔だ。


 しかし、僕とて、そういつもやすやすと痛い思いをしたくない。


 『軍手』


この太い綿糸で構築された歴史あふれる衣料品は完璧に僕の傷だらけの両手を守ってくれるであろう。


「移動しろよ、掃除の邪魔なんだよ」


 僕がそう言って手を掛けた瞬間、猫の叫び声が聞こえ、くるぶしの少し上の所に激痛が走った。


「痛!」


 寝そべったまま、横にスライディングをしたこの猫は、僕の足首に全身の力を使って噛み付いていた。


「お前、許さねぇ」


 猫は口を離したものの、それでも寝たまま僕の方に片耳だけを向けている。


「どうかしたの?」


 玄関の引き扉が開いて顔を出した子、彼女がこの宿のオーナーの一人でもあり、この猫の主人の一人でもある『せせり』さんだ。


 白猫は彼女の顔を見ると甘えた声を出して起き上がると、のそのそと歩き出し、足に巻き付つきながら全身を擦りつけている。


「あら栗子ちゃん、今日はずいぶん甘えるのねぇ、とんぼくんが来てから、栗子ちゃんはいつもご機嫌ね」


 白猫はこれみよがしに尾をピンと立てたまま、僕の顔を見ながら明るい鳴き声を上げた。


(こいつは……妖怪だ)


「とんぼくん、今日の泊まり客は、今のところ十名で、そのうち二名が一人部屋だから、お布団移動しておいてね」


 そう僕に頼む彼女の顔は笑っている。後ろ手に二つにしばった彼女の長い髪が揺れた。

 そそくさとサンダルを履く彼女は玄関先に、浅葱地に宿の名前が白く染め抜かれたのぼりを立てた。


 山から海へと吹き下ろすように流れる風がのぼりをはためかす。


 僕はこの夏の始めから、北海道の小さな街にあるこの宿『やかた』で働いている……いや、働かされていると言った方が正確であろう。



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第一話「バイク乗りには詩人が多い説」



ハンドルはしっかりと握った。

ブレーキもきく。

石段の前に人はいない。

深呼吸もした。

友達の笑っている顔は心のどこかで僕が転べばいいと思っているのだろう。

神社の石段は十段ばかり、その石段を僕は自転車で駆け下りる……はずだった。


気が付くと僕は仰向けのままアスファルトの地面に倒れていた。


白樺の葉の間から差し込む陽の光がとてもまぶしい。


「おしい!もうちょっとで新記録だったな」


「思いっきり跳ねてたぞ」


心配する素振りを見せることもなく友達は腹を抱えて笑っている。


「次は行けるよ」


 僕はそう言ってゆっくりと上半身を起こした。


「でもよぉ、お前のチャリ見てみろよ」


 フレームが曲がり、パンクもしていた僕の自転車を見て、二人の友達は指さし、カモメのようにけたたましい声で笑う、そんな馬鹿げたことでも小学生の頃の僕は夢中になって何かをしていた気がする。





 去年の冬、僕の母が亡くなった。病院に見舞いに行くたびにやせ細る母の姿を僕は見たくなかった。

 弟のようにかわいがっていた犬の『コロ』も母の後を追うように僕のベッドの横で眠るように死んでいた。


 僕の心に見えないひびがいくつも走ったような気がした。


 父さんの転勤の関係で、この街に来てから一年が過ぎ、僕は十六歳になっていた。


 僕の家とその隣の家は地元の農家の持ち家で、二階のない部屋が三つだけの小さな家だった。でも、アパートを借りるよりもずっと家賃が安くて、良いところを見付けることができたと父さんはずっと喜んでいた。


 僕の家の隣には「八方はっぽうさん」という見た感じ六十歳くらいのおじさんが一人で住んでいる。


 八方さんは普段、働いている様子もなく、冬も春も夏も秋も、扉を開けたまま狭い玄関の上がりに腰をかけ、ぼんやりと外を見ながら煙草を吸っていた。時折、僕を手で差し招き、缶コーヒーを一本くれた。


「今日も休みかい?」


「は……はい」


「そうか、休みは休んだ方がいい、無理に回し過ぎたら過ぎただけ、どんな馬力のあるエンジンでもへたっちまう、そして、疲れると目の前の面白いもんだって、どんなにべっぴんさんだってつまらないものに見えちまう」


 今年の秋から学校に通うことができなくなっていた僕がいた。

 中学の時も学校がそんなに楽しいと思っていた訳じゃない。でも、これまで半年は我慢してみた。高校に入学してきてから、どこかでずっと自分が孤立していた感。


 僕は自ら人の中に入っていく性格じゃないのを分かっている。


 聞きたくもない人の自慢話に笑顔で相づちを返せないことも分かっている。

でも、学校に通えなくなることの理由を、自分は分からなくなっていた。ただ何となく心にできたひびから大切なものがこぼれ落ちていたような感じはしていた。



 朝が来る。


 病院の先生の言葉を借りると、『精神的』な腹痛がおきた。

 ごまかしているわけじゃない。


 本当に痛くなって我慢ができなくなるし、いつも胃の下の方を手でかき混ぜられているような吐き気が止まらなかった。


 日曜日の夕方から月曜日の朝にかけての時間は本当に苦しくて、朝の通学時間や夕方の近所の小学生の声が聞こえる時間が特に嫌だった。


 父さんは始めこそ、大声を上げて僕を叱ったけれど、そのうち何も言わなくなっていた。最近は、そんな父さんを見て、自分がこの世に存在していると迷惑をかけるのではないかと考えるようにもなってきていた。


 僕は高校を中退した。


 うしろめたさによる「劣等感」と「疎外感」


 みんなが僕を後ろから指さしていつも笑っているように感じていた。

 そのうち首を吊ってしまおうか、電車に飛び込んでしまおうか、そんなネガティブなことばかりを考えているだけの僕がいた。

 人によってはたいしたことのないことだと思うかもしれないけれど、いくつもの鉄のおもりが身体中にのっかっている終わりの見えない苦しみの連続。

 それがずっとグルグルと回っている。



「いるかい?」


 その日のことはよくおぼえている。

珍しく八方さんの方から僕の家を訪ねてきた。

 父さんは玄関の鍵を閉め忘れていたらしい。

 こたつで横になっている僕の姿が半分開けたままだった部屋の戸の間から、八方さんには丸見えだった。

 目が合った僕の顔を見るや、八方さんはにこにこと笑いながら言った。


「なおすのを手伝ってもらいたいもんがある、俺一人じゃぁ、どうにもならないんだ」


 僕が返事をしようか迷っている間に、八方さんは部屋に上がり込み、こたつの中へおもむろに足を入れ、かごの中に入っているみかんを剥き始めた。


「腐る一歩手前のちょうどいい熟れ頃だ、このみかんっつうのは青いものも爽やかな匂いがして良いが、このくらいに熟れた奴ほど中身は甘くなっている、ほれ、食うか?」


 僕は首を振った。


「すぐ終わる、まぁ、頼むわ、年寄り一人じゃ手におえねぇんだよ」


 残りのみかんを口にほおばり、八方さんは立ち上がった。


 僕は八方さんの言葉に嫌々ながらも映画に出てくるゾンビのように、僕は後ろをついていった。


 カラスでも雀でもない鳥が一声どこかで鳴いていた。


「今年は本当に暖冬だなぁ、谷のウグイスの声も早く聞けそうだ」


 八方さんは鳴き声のする方へ向いてつぶやくように言った。

 家の中にずっといた僕には全く関係の無いことだったけれど、雲一つ無い空から降り注ぐ太陽の光は、まぶしかった。


 薄目を開けて見ると、垣根の山茶花の花が咲く八方さんの玄関前の軒下に、白い車体に赤くこすけたシートの古いバイクが一台置かれていた。


「ヤマハRZ250(にいはん)、こんな古くさいなりでも、最高の馬鹿バイクだ」


 スクーターならそばで見たことはあったけれど、バイクをすぐ近くで見るのは僕には初めてのことだった。

 タイヤはひび割れ、エンジンから延びるパイプは錆びがとても浮いていた。けれど、ガソリンを入れるタンクやライトは、新品とは言えないまでも、とてもきれいに磨かれていた。


「キックがうまくできなくてなぁ、足が悪いもんだから、俺のかわりにこいつを冬眠から起こしてやってくれないか」


 そう言って、八方さんは黒いプラスチックの頭が付いた鍵を僕に渡した。


「しっかり、Nの緑のランプがついているのを見ろよ、で、蹴るときは左のクラッチをしっかり握れ、それで右手のアクセルを回すんだ」


 僕は言われるがまま、バイクにまたがり右の足の裏をキックペダルに載せ、思いっきり踏み込んだ。

 けれど、バイクから何も音はしなかった。僕はそれから何度も挑戦したけれど、結果は同じだった。


「まだ、もう少し時間はかかるのかもな、こいつは単純なつくりのエンジンなんだがぁ、そのために変な汚れがすぐにこびりついちまう、元気な時は、そんなもんもケツの穴から吹き飛ばすんだが、具合が悪くなると全部、中身を洗わなくちゃなんねぇ、ちょっと、そこの工具箱のレンチ取ってくれ」


「これですか」


「そりゃ、ペンチだ、良い機会だ、お前は俺よりずっと賢そうだ、手を動かしながら名前を覚えていけ」


 人に注意されても今の僕には腹を立てたりする気もおきない。

 八方さんが何のためにこの古いバイクを動かそうとしているのか、僕には理解できなかった。

 ネジをゆるめ、分解して、磨いて、また組み立て直すのは、借りた軍手を付けていても手はベトベトに汚れるし、油臭いし、とても面倒くさい作業だった。


 断る気力もない僕はただ言われたとおりのことだけしかしなかった。

 時々、友達が学校に行かない僕を笑っているような気配を背中で感じたけど、ただの錯覚の繰り返しだった。


 それから八方さんに頼まれたことをネットで調べたり、部品をオークションで獲るのを手伝ったりした。パイプ状のガラクタのような部品ばかりだったけれど、値段は想像していたよりも高い値がついていた。それでもふた月もしないうちに、この古いバイクは僕のキックで、大きないびきのような音を上げた。


「こんな小さな奴でも力は馬三十五頭分以上のいななきだ」


 白い排煙が八方さんの嬉しそうな表情を隠すように目の前に沸き立つ。

あまりかいだことの無い少し甘いオイルの匂いが僕の鼻の奥を刺激した。

 バイクにはすぐに新しいナンバープレートが取り付けられた。


「免許取ってこい、若いうちに中免とっちまった方が後々、面倒くさくなくていい、このじゃじゃ馬で慣れりゃ限定解除なんて百回も受けりゃ合格する」


 八方さんは高価な宝石を触るように、白地に青い縁取りの入ったバイクのタンクを大切に磨きながら僕にそう言った。


「面倒くさいな、人にも会わなきゃならな……」


「人だと思わなきゃいい、だいだい、この季節の教習所に通う野郎に、学校行っているお坊ちゃん、お嬢ちゃんがいると思うか?お前の言うその面倒くさい奴らなら、高三の冬休みぐらいに車とりに行くぐらいだ、あん?何、驚いているんだ、時間はあんだろ、親父さんに言って住民票を持って早く手続きに行ってこい、ようやっと目を覚ましたこいつが早く散歩に出たがっている」


「八方さんは乗らないの?」


「俺が乗ってこけたらケガしちまう、この年でケガしちまったら、治りが悪いんだ」


 この頃には、八方さんが今まで以上に僕を見る目がとても優しくなっていた感じがしたし、八方さんになら色々なことを話すことができる僕もいた。


 僕はその日の晩、おそるおそる父さんに八方さんの言葉をそのまま伝えた。父さんは、既に八方さんから聞いていたのか、短い返事をしただけで僕のわがままな願いを承認した。

 シーズン的にこの期間は教習所に空きがあった。


 八方さんは「中免、中免」と言っていたけれど、今は普通自動二輪と言うことが分かった。

 八の字、クランク……それと一本橋、学校に行っている時よりも本当に面白い時間だと思った。

 通っている間、八方さんは油で黒くなった左手の指で『V』の字を作って(八方さんいわく、『ピース』と言うらしい)僕を見送り、それ以外の時間は、色々とバイクの部品をいじっていたようだ。


 僕が免許をとって帰宅すると、八方さんは、真新しいヘルメットとグローブ、そしてフェリーの二等チケットをくれた。


「こいつは、今まで手伝ってくれたお礼だ、ついでにもう一つ頼みがある、こいつを届けてほしい、できればここに書かれた日までに……」


 白い紙で包装された小さな箱のようなものと、相手先の住所と建物の名前が書かれた紙、そして手紙を渡された。


「郵便か宅急便で送った方が安全で早いじゃないですか」


「それができたら苦労はしないよ、それからちょっと俺は留守にしなくちゃなんなくなってな、連絡はいらないよ」


「やっと仕事見つかったんですか」


「ああ、お前さんみたいにな」


 八方さんは僕の言葉に少し驚きながらもそう言って軽く頷いた。


「それならメールします」


「携帯を俺が持っていると思うのか、その日までに届けてくれりゃこのミッションは完遂だ、それとなぁ、慣れないうちはノロノロ走っても良いが、こいつが走りを要求したら一緒に峠で遊んでやってくれ、ただ死神とダンスだけは踊るなよ」


「死神とダンス?何ですかそれ」


「それ以上でもそれ以下でもない」


「死神ってどういう風に踊るんですか」


「分かった、それ以上言うな、言った俺も何か恥ずかしくなってきた」


「そう……ですか」


 安請け合いをしたけれど、そこに書かれていた住所は、北海道の、それも地図でさえも意識していない場所だった。途中に寄る場所もいくつか書いてあったが、どれも全く知らない場所。でも僕は不安よりも、自分のことを誰も知らない世界に行ってしまいたい気持ちの方が強かった。



 次の日から僕は準備をはじめた。


 八方さんに教えられたまま、家から遠いリサイクル店で、大きなスポーツバック、それに古いシュラフ(寝袋)や銀マット、テントを買った。準備をする合間にも、八方さんはふらふらと僕の傍らに近付いては、色々なノウハウをぼやくような口調で教えてくれた。僕はたぶん半分も聞いていなかったと思う。


 周囲の人の目を気にしながら遠くのホームセンターにも行った。


 ツーサイクル用のオイル缶一本をぎゅうぎゅう詰めのバッグの中に立て、ようやく数日分の着替えをリュックへ詰め終えたのは、出発する前の夜おそくだった。



 出発当日は曇りで、そんなに暑くはなく、藤の花の周りを熊蜂が大きな羽音をたてて飛んでいた。


ハンドルは握った。

ブレーキもきく。

家の前に車はない。

深呼吸もした。

クラッチを切って

そして、最後に僕は八方さんの家を振り返って見た。

 窓のカーテンはまだ閉まったままだった。




 出発を決めたこの日は、高校に通っていれば夏休みが始まる一日前。本当は、次の日の早朝出れば間に合うはずなのだけど、早くこの場所から離れてみたかった。


 昼過ぎ、僕は混みあう国道を、のろのろとしたスピードで北上した。それでも自転車とは違う、いつまでも下り坂が続く道のように快適そのものだった。


(いいか、高速道路ってぇのは、時間を金で買っている道路だ、つまりだ、大人以上なら走ってもいいところさ、しかし、若者は金はないが時間はある、その街の見どころってのは遅いスピードであればあるほど目に付きやすいんだよ、だからお前さんが行くのはすべて下道だ)


 八方さんの言っていたことだ。


 県境の川を電車や車の窓から見たことはあったけれど、実際に自分が運転をし、長い橋を渡ると、その河川敷の広さに驚いた。長い竿を持った釣り人が川の流れの中に立っている。


 隣県に入ると山はもっと道路に近くなった。


 ぶどうやリンゴと書かれたこすけた看板が道沿いに目立ってくる。この辺から僕は住んでいる場所と空気がどこか違っているように感じてきた。口では上手く言い表せないけれど、落ち葉を焼いたような少し甘い空気が鼻の奥に広がる。


 渡っていくどの川も濁った水は流れていない。


 その日のうちにフェリーターミナルまで行くことができるかと思ったが、それは甘く、少しほっとした途端、強い眠気が襲ってきた。


 国道脇の小さな公園のベンチで少し休むつもりが、いつの間にか横になって寝てしまっていた。


(寒い……)


 西の空にわずかに残るオレンジ色が、その日の移動の終わりをあまりの寒さに目を覚ました僕に宣告した。


 もう七月だというのに、この寒さは信じられないものであった。


 テントを設営できるキャンプ場は、もう少し国道を行った先にある。でも、もう運転する気力はない。カゼをひいている訳でもないのに、こんなに寒いと思ったのは生まれて初めてのような気がした。


 急遽、芝生にテントを立てようと思ったが、暗くて手元が良く分からない。


(立て方を練習しておけば良かった)


 しかし、今は後悔や空腹感よりも、寒気と眠気の方が勝った。

 僕は諦め、ベンチの上に銀マットを敷き、テントの外側のカバーを包み巻いた中に飛び込むように入った。顔だけは冷たかったが、だんだんと体温が戻ってきた。


 周囲からは、無造作に投げ捨てられた粗大ゴミのように見えたのではないかと思う。


 公園のベンチ、それが僕の記念すべき旅の一日目の宿だった。



(腹……減ったな)


 吐く息のように空の色が白み始める。


 僕を起こしたのは、国道から聞こえてくる大型トラックの通り過ぎていく音だった。


(こんなに早く目が覚めたのは久しぶりだ)


 フェリーは今日の夕方発なので、時間にはまだ余裕がある。


 朝露でテントシートについた芝草をタオルで払い、荷物をバッグの中へ無造作に押し込んだ。


 一羽のカラスは餌が落ちているのではないかと、近くの梢で僕の様子を伺っている。


 バイクにまたがり、チョークを引いてキックを二、三回繰り返すとエンジンも大あくびするように音を上げた。


 僕は早々に公園から撤収した。


 長いトンネルの中の冷たい空気が顔の上を走った。僕はヘルメットのバイザーを下ろした。僕の吐く息で瞬く間に視界が遮られていく。


(う……見えない)


 慌ててバイザーを上げると、頬を針で刺されているような痛みが走る。


 長く暗いトンネルを抜けると、こんな山奥に建っているのが不思議だと思えるくらいの、大きなホテルや古めかしいマンションがスキー場の横に建ち並んでいた。どんな人たちが住んでいるのだろうと道の傍らにバイクを止めて少しだけ見ていたけれど、季節外れ、それも早い時間なので、ひっそりと静まりかえっていた。


 そして、また長い、とても長い下り坂が続く。


 すぐ側に迫っていた山が少しずつ離れ、田んぼの海の中に家や道路が浮いているように見えてきた。


 新幹線の高架橋が道に寄り添うように続く。

 川幅が広がり、岸辺には釣りを楽しむ人たちが座っているのが見えた。


(街はどこも同じ顔をしている)


 気温が上がるにつれ、行き交う車の量が急に増える。

 新潟市内に入り、道路の案内板に従いながら進むと、白いとてつもなく大きな船が停泊していた。ターミナルで手続きを終え、辺りをきょろきょろと見回していると、誘導係の人が、僕の行き先と便を確かめ、車とは離れたところの左側の駐車場に誘導した。


 先に大きなバイクを止めていた五十才くらいの男は、僕のバイクを見るなり、なれなれしく話し掛けてきた。


「ずいぶん、古いバイクに乗っているんだなぁ、それだったら結構安かっただろ」


 缶コーヒーを片手に近寄りながら、バイクのメーターやエンジン周りを観察していた。


「免許は?はぁ、大型もとっていないのか、そりゃ、可哀想だ」


「免許もとったばかりですから」


「へぇー、でも、馬力がないと坂とかきついよ、やっぱ排気量が大きい方が何かと楽なんだよね、限定解除はいいぞ、こんな虫みたいなバイクは乗っていてもつまらないぞ、よくこれで満足できるな、やっぱり若いからだろうな」


 その男の飾りのいっぱい付いたバイクは、種類に疎い僕でも聞いたことのあるアメリカンだった。


「こんな時代遅れの臭い煙吐き出す奴じゃなくてさぁ、もうちょっといいのなかったの?ABS付きなんて今は常識だよ」


 口調が段々と相手を見下すようになってきたので、僕は生返事をしながら荷物を整理し始めた。


「ユー、生粋のハーレー乗りに無駄な講釈は似合わないぜ、この少年が何に乗ろうがユーのライフには関係ない」


 僕の背中を通り越して野太い声がした。

 振り返ってみると、銀色のチェーンをいっぱいぶら下げた革ジャン姿の赤いバンダナを巻いた初老の男が立っていた。真っ黒いサングラスに髭をたくわえた男がターミナル売店の買い物袋を手に立っていた。中身はすべてイカの干物のように見えた。


「この『ロードキング』はお宅のか、このカスタムはすごいねぇ、うちの近くでは見たことないよ」


 中年男性は急に口調を変え、初老の男のバイクにその関心を移していた。


「最近、多いんだよ、あの手の輩、決まって『限定解除』って言う奴ほど、四十過ぎてから教習所でとっている人が多いね、年なんかどうでもいいし、どんなバイクでもいいんだけどな、君のバイクだって、僕から見たら、前のオーナーがとっても丁寧に乗っていたことが分かる……そして昭和の名車をまさかこんなに間近に見られるとはね、よく、こんな良い状態で保管できていたね、このツーサイクルエンジンの吐き出す煙の良い匂いは懐かしいくらいだよ」


 薄い髪の毛を七三分けにした細身の青年は、爽やかな笑顔で僕たちの一連のやりとりを見ていたのだろう、気さくに話しかけてきた。


「君も北ツーに憧れてきたんだろう?」


「あ、いや……」


「隠しても分かる、僕も旅人の端くれだからね、君にもある種、同じ雰囲気を感じるよ、これは君にとって観光や旅行ではない記念すべく『旅』なんだってね、僕は旅人ネーム『マルコ』、よろしく、お近付きの印に僕が踏破したオリジナルの林道マップを船の中で見せてあげるよ、君の旅人ネームは?」


「旅人?」


「もしかしてまだもっていないの?旅は仮の自分を脱ぎ捨て、本当の自分をさらけ出す、この『マルコ』っていうのは名作『母を訪ねて三千里』から受け継いだんだよ、ないなら僕が付けてあげようか?『ペッピーノ』なんて素敵だと思わない?」


「いや……いいです」


「遠慮するなよ」


「していないんですけど」


「『アメデオ』くんなんて、どうだい、かわいくて、目のくりっとした君にピッタリだと思うんだけど」


「いえ、あの……あとで自分で決めます」


 別の意味で、その人も僕の心の中に図々しいほど入ってくる。差し出された手を僕はつくり笑いをして握った。僕は多分、すごく複雑な顔をしていたのだと思う。


 他のバイクが次々と到着してくる。『隼』という漢字が車体に書かれたやつや『忍者』と英字で書かれた大きなバイクは、ほんの短い距離を大きな音を立て加速したと思ったら、ぴたりと定位置で鮮やかに止まった。

 その華麗な運転技術をアピールしたいのかなと僕は何となく思った。その後ろにはフェラーリのような真っ赤で速そうなバイクで『ヅカチー』と目立つ文字が書かれている。


 次にゆっくりと走ってきた新聞配達で使っているバイクには山のような荷物が載っている。錆び付いたチェーンがガラガラと音を立てているバイク。買ったばかりのように全てがピカピカと輝く夏のバッタのような黄緑色のバイク。


 そのうち何人かの頭の毛が薄いおじさんたちが、僕のバイクを見るなり「懐かしい」と昔の恋人にでもあったように優しい目をしていた。


「これは君のなのかい?」


「い、いえ違います」


「親父さんの?」


「いえ、知り合いの人から……」


「写真、撮らせてもらってもいいかい?俺の初めて好きになったバイクがこれだったんだ、ガンマやKRと迷ってね、結局しばらくしてVTを買っちゃったんだけど」


(ガンマ?)


 知らない単語が多く飛び交う僕は、この古いバイクに自然と人が集まってくるのが不思議だった。

 平均年齢は一目見ただけで、僕より二十年も三十年も上のベテランライダーばかりだったけれど、どの大人も子供のような無邪気な笑顔をしている。

 茶髪の四十代くらいな女の人の周りには、年相応の人たちがすぐに集まるのが見ていてそれ以上に不思議だった。大学生くらいの五人組の女性ライダーが到着したときは、年関係なくワラワラと集まっていた。


 でも、中には、僕のように一人でスマホをいじるだけの人もいる。ただ、バイクが来る度に顔を上げて何かを確かめているようだった。


 そうこうしているうちに、すごい台数のバイクが僕の後ろに並んでいた。連休初日というだけあって、ターミナルビルの前には大型バスが停車し、隣の駐車場の車の台数は、規定の場所からあふれるくらいの勢いで増えていった。


 乗船時、はじめに僕に話し掛けてきたアメリカンな男はヨロヨロとしているうちに立ちごけをし、甲板員の人にバイクを起こすのを手伝ってもらっていた。昔の僕だったら「ざまあみろ」と言っていたかもしれない。でも、今の僕は虚勢を張っていた昔の自分を見ているようで、無意識のうちに目を背けてしまっていた。


(船に乗ったらな……)


 八方さんが教えてくれた通り、荷物を下ろし、レジ袋にヘルメットを突っ込んで棚に入れ、サンダルに履き替え、最小限の荷物だけをもってフロントのある階へと上がっていった。

 広い部屋にあてがわれたスペースは一番通路側だった。


(景色が見える窓際が良いと思うかもしれないが、それは素人だ、通路側がいちばん便利だ、近くにコンセントがあれば最高だ、だが、コンセントの独り占めだけはするな、理由?理由は乗ってから自分で確かめるんだな、場所を確保したらすぐに財布とバイクのキー、百円玉を握り締め、タオルを持って風呂に行け、いいな、風呂が一番だ)


 百円は貴重品入れロッカーに使うためだった。


 僕が一番だと思ったけれど、もう先客が二人もいた。


「さすが、チェリー君は僕が見込んだとおり十分に旅人だね」


「ユー、しっかり身体を洗ってから入ること、それがガイボーイのエチケットだ」


 『ロードキング』と『マルコ』さんが、タオルを頭にのせ並んで湯船の中に浸かっていた。


 風呂に身体をしずめた瞬間、昨日からのかたまった筋肉が一気にときほぐれていく感じはインスタントラーメンが鍋のお湯の中で広がっていくのに似ているかもしれない。


 もう今日一日が終わったような気持ちに包まれた。


「バスタイムはモーターサイクリストにとってハッピーなプレゼントだ」


 『ロードキング』はそう言って大きな右手の親指を立てた。


「この風呂以上の湯が林道の奥に待っているよ」


「ユーのお気に入りは?」


「東北では沼尻元湯か玉川かなぁ奥薬研も捨てがたい、近畿では十津川、九州はだいたいどこの県にもお気に入りはあるし、四国も祖谷なんかはお湯が正直ですね、北海道では岩間かヌプントムラウシ、深いダートの奥の野湯は自分を待っていてくれる恋人のようだよ」


「マイメモリーにも刻まれている、スワンプヒップはグッドなレモンテイストだな、ヌプンの林道はもうオーケーなのか?」


「ハーレー乗りさんにしちゃ、すごい詳しいですねぇ、ハーレー乗りさんにも神のような旅人がいると聞いたことがあるけど、実はあなたなんじゃないですか、それでも岩間の川渡りはきついでしょ」


「ユー、知っているか?ディビットソンは太平洋だって渡るんだ」


「ああ、噂の東北のね、いつか僕も会ってみたいものですねぇ、その伝説のハーレーに」


「ドリームズ、ケムトゥルー、偉大な心の神もユーたちを待っていると思う」


「おおっ、腕にタトゥー入れているんですね」


「タトゥーはディビットソンにすべてを捧げた証明書だ、ステッペンウルフが恋人のささやきなら、ストーンズの『ギミーシェルター』は昔からの子守歌、そういうことだ」


「そういうことですよねぇ、僕は千春の『大空と大地の……』」


「まさしくそういうことだ」


 何がそういうことなのだろう?

 二人の会話がかっこいいのか悪いのか、さっきから僕はとても微妙な印象を受けている。

いや……かっこ悪いだろう。それとも聞く人が聞けば……だめだ、意気投合した二人は背中の流しっこを始めたぞ。

 だめだ、これ以上、あの二人に近付くことは危険だ。


 すっかり身体が温まった頃に、子供から大人まで色々な人たちが浴室に入ってきた。僕は二人に軽く挨拶をし、浴槽から逃げるようにあがった。


(風呂から上がったらビールだ、飲めない奴はコークでもいい、ラウンジのソファーで地図の一枚でも広げて見ていりゃ、誰これ、話し掛けてくる、昔はそういう奴らばかりだった)


 八方さんの教えてくれたことは、全部、事実だと思うので、僕はラウンジに地図を持っていくのをやめた。人が集まってきてはすごく困る。だいいち地図はアプリで十分だ。


 しかし、気が付くと、もうスマホは圏外、アプリは使用不能になっていた。


 ウロウロしながら船内を見学しているうち、小さなゲームコーナーが目に入った。昔の筐体が並ぶ中でクレーンゲームだけがやけに目立っていた。


 僕は上着のポケットにロッカーから戻された百円玉があるのに気付いた。節約旅行に違いはないのだけれど、赤いリボンを付けた白猫のわりと大きめなぬいぐるみがすぐに取れそうな所に転がっていた。


(久しぶりだな)


 僕は苦労することもなく、釣り上げるというより半分持ち上げるようにして落とすことができた。とってはみたものの、それは僕にとって邪魔な物であるという事実を気付くことに時間はそうかからなかった。


 ふと視線を感じた。小学校低学年くらいの女の子が僕の手にぶら下がるぬいぐるみをじっと見つめている。


「あげるよ」


「えっ、本当にくれるの?」


「うん」


「この子、うちの『くりこ』ちゃんにそっくりなの!」


 くりこちゃん?多分かわいい子猫なんだろう。

 女の子はよっぽど嬉しかったのか、満面の笑顔で頭を何度も何度も下げ、ぬいぐるみを大事そうに抱え、廊下を走っていった。


 しかし、ぬいぐるみをあげたことに対して、変態じみた下心があるかと思われたら面倒かもしれない。僕は、そそくさとその場から離れるように立ち去った。


 何となく廊下がふわふわしているように感じる。

 家ではなかなか眠れなかったのに、今はまた眠くてたまらない。

 僕は大部屋の自分のスペースに戻り、寝転んだ。

床に寝転ぶと船のエンジンの出すうなりが聞こえてくる。


僕の隣は家族連れだったが、城壁のように鞄やみやげ袋で境目がしっかりとつくられていた。

 ビニル革製の直方体型枕は快適とはいえないが贅沢は言っていられない。

 まぶたは気付かぬうちに寝落ちしていた。


 夢の中では僕の頭の上を今朝、餌をもらおうとしていた公園のカラスが、ただ輪になってグルグルと回っていた。そのうち、カラスはタイヤになり、八方さんの乗る大型アメリカンのバイクへと変わった。僕は違うカラスになって、その後ろを追いかけるように飛んでいた。


 八方さんは運転しながら僕を見上げて言った。


(どうだ、見えないもんが見えてくるだろう?だがな、バイクで見る景色はそんなもんじゃねぇぞ次から次へと飛び込んでくるんだ、山とか川とか海とか、そして変なオッサンとか……)


 夢は突然終わった。僕の寝ている横を小さな子どもたちが大きな足音を立てて、走っていった。


「静かに、周りに迷惑かけるでしょ」


 そうとう舞い上がっているのだろう、子供らは母親の注意する声を無視してエントランスホールの方へ行ってしまったようであった。


 時計を見ると午後七時を過ぎている。


 わずか一時間の仮眠でも、眠気がこんなに消えるものなのだなと思った。


 しばらく横になっていたが、まだ、電波の圏外は続いている。このことは八方さんから聞いていない。この時間は「つながらない」と分かるとよけい「つなげたい」という気持ちが上回ってくる。僕は何度もスリープを解除したが、どんどんとバッテリーの残量パーセントが減っていくだけだった。

 そんなとりとめの無いことをやっているうちに、次第にのどが渇いてきたので、僕はスマホと充電アダプターをポケットに入れ、エントランスに行った。


 ソファーのところで、バンダナを巻いている『ロードキング』を中心とした六十才くらいの初老男性の集団が目に入った。


「あのライハなら去年行ったよ、管理人がうるせぇよな、俺たちが遠くから来て泊まってやっているのによ、年下のくせになめてるよな」


「あんなボロいところで五百円も出すなんて信じられねぇ、無料で十分だ」


「エサヌカとオロロンラインでよ、ほら、稚咲内を過ぎた直線で百八十だしたぜ」


「そこ一般道だろ、そりゃ違反行為じゃないか、サーキットに行け、サーキット、俺のRワンは『もてぎ』で250オーバー余裕だよ」


「話、盛ってるんじゃないか」


 缶ビールやつまみの入った袋があふれんばかりにテーブルの上にのせられ、大きな声でくだらない武勇伝らしきことをそれぞれ彼らは自慢している。


 別のテーブルでは、『マルコ』さんと、同じような日焼けをした三十代くらいの人たちが数名、真剣な顔付きをしながら一冊の地図本をのぞき込んでいる。


「函岳の歌登方面は、春先の雪解け水とこの前の雨でダートがまだ荒れているらしい」


「あ、俺のでかい地図で確かめてみるか?」


「そこに林道が存在する限り、ゲートが閉じられていようが、やはり行くべきだ、俺は挑戦するよ、有名な登山家だって言っていたじゃん、そこに山があるからだって」


「挑戦か、そうだよな、良い言葉だ、よし、それなら、いつアタックする?」


「さっき、気圧配置見たら、だいぶ快復が見込めるね」


 彼らの発する言葉にはまたある意味、別の種類の熱がムンムンと込められている。


(どうでもいいことを……大人って馬鹿が多い)


 僕は気付かないふりをして、そちらの方には視線をやらずに自動販売機の並ぶコーナーへ向かった。


 廊下側の窓際に小さなテーブルセットが空いたので、それもちょうど良いことにコンセントが一つあいていた。僕はジュースを片手にそこに座り、アダプターをスマホにセットし、窓の外を眺めた。


 青い波が延々と広がる。


 フェリーの速度は自分が思っているよりも速いスピードに思えた。

 自分のバイクと同じくらいだと思った。


(他人のやることにケチをつけてるけどさぁ、でも、お前は人の言われたことを言われるままにやっているだけじゃないの)


 数か月前の僕が、海を見る今の僕を執拗になじった。


(別に変わろうと思っているわけじゃない)


 買ってきたオレンジジュースがとても苦く感じた。


「ねぇ、そこのコンセント一緒に使ってもいい?」


 ショートカットの髪型が似合う僕とそんなに年の離れていない女の子だった。外国ミュージシャンのロゴが付いたTシャツにジーンズ姿のラフなスタイルは僕とは真逆なアクティブなオーラを放っていた。


「いいですよ、もう充電終わったし」


 充電は終わっていないが、会話が面倒くさいので僕はアダプターを抜いた。


「ごめんね、ねぇ、こっち、あいてるって」


「ラッキー」


 雰囲気のよく似たもう一人の子が三つ叉ソケットとスマホアダプターを持って来て、コンセントに接続した。


「この上、置かせてもらうね、ここに座っていい?」


 テーブルの上に置かれた一つはロゴと同じスマホケース、もう一つはピンク色のスケルトンケース。


「あっ、ああ……どうぞ、僕は部屋に戻……」


「今日、バイクに乗ってた子たちだよね、バイク乗り同士、こっち来て一緒に呑まないか」


 缶を片手に僕が立ち上がりかけたその時、一人の青年が後から来たメガネをかけた子の方に話しかけてきた。


「ごめんね、今、三人で大切な打ち合わせしていて」


「うん、そうなの、もし時間があったらその時は合流するから」


 二人しかいないのに、なぜ三人なのかと思った。


「残念だなぁ、まぁ夕食の時にでも」


 青年が残念そうに去って行く。

 その奥に、大量のバイク乗り集団の男たちの視線があった。


「ごめん、ちょっとだけ一緒に座っていてくれる?私たちが女子二人組だと知ったら、みんなしつこくて」


「そう、女子部屋にいても退屈だと思ったら、これだもんね」


 退屈なのは同じかもしれないが、僕には迷惑なことだった。何しろ、背中から痛いほどの視線が突き刺さってくる。

 でも、僕はその場から立ち去っていくほどの勇気もない。


「ねえ、君もバイク乗ってたよね、いくつなの?」


「十七にもう少しでなるけど」


「やっぱり年下かぁ、なら高校生でしょ」


 中退していることは話す必要もないと思い、僕は適当に返事を笑ってごまかした。


「私たち何しているように見える?」


「大学生ですか?」


「ピンポーン、正解です!ねぇ、君はどこ回る予定なの?」


「えっと……メモした紙を忘れてきました、でも初めて行くところです」


「私たちはね、ずっと上の方……」


「山の上ですか?」


「えっ?北よ北、宗谷岬、ずっと行ってみたかったんだ、そこにはね、貝で出来た真っ白い道もあるんだって」


 僕は彼女たちの一方的なペースに無理矢理乗らされているようであった。


「トイレ行きます」


 陽気に話し続けることは、あまり得意ではない。


 僕はありきたりな理由を付けてこの場から離れ、自分の部屋に戻った。



「あ、お兄ちゃん、ママ、あのお兄ちゃんだよ」


 途中の廊下で、ぬいぐるみをあげたあの女の子が僕を指さしていた。

 後ろでは、女の子によく似た若い母親が笑っている。母親と言うよりも、さっきの女子大生の友達と言っても変わらない感じがした。


 そんなに化粧をしていない顔は、誰が見てもきれいな人だと感じるに違いない。でも、今の僕にはまるで関係ない存在。


 母親は女の子がとても喜んでいたことが嬉しかったようで、僕に丁寧な礼を何度もしてくれた。僕は少し視線をそらせたまま何か一言、二言話したと思うのだが、あまり覚えてはいない。


 誰かがカップ麺を食べていたらしい。部屋の中にその臭いが充満していた。


(やっぱり面倒くさい……)


 僕は買っておいた菓子パンをバックから出し、寝転びながら食べた。のどにつまりそうになり、ようやくそこでジュースをさっきのテーブルに置き忘れたことに気付いた。だけど、引き返すほどの気力もわかなく、ヘッドホンを付けて音楽を聴きながら目を閉じた。


 子供の足音ももう気にならなくなっている。


(船では寝ろ、ただひたすらに、そして力を貯めたら走りだせ)


 僕はまた眠ってしまったらしい。船に乗ると本当に良く眠れるという八方さんの言葉は嘘じゃないと分かった。


 接岸一時間前、朝三時の船内放送で僕はようやく目を覚ました。二日間、連続での異常な早起きになってしまっている。


 まだ薄暗い窓の外の景色の中で陸地がずいぶんと近付いている。スマホが圏内であるのを確認したが、バッテリーがわずかな量になっていた。乾電池式のバッテリーはバイクの荷物の中にいれたままである。 それに気付いた僕は充電コードをあわててバッグから取り出して、昨日のテーブル下のコンセントを目指した。多分、他のところにもコンセントがあったと思ったけれど、その時の僕は昨日の場所しか思い浮かばなかった。


 既に気の早い人は荷物をまとめ、エントランスホールのソファーに座っている。昨日の場所に人がいないのを確かめ、僕はコンセントを差し込み、ぎりぎりのところで少しだけ充電することができた。


「はい、昨日の忘れ物」


 僕の頭越しにジュースの缶が出てきた。驚いた僕が振り返ると昨日の子が立っていた。


「何、その驚いた顔は、君、途中でわたしたちから逃げたでしょ、あのあと、おじさんたちの誘いを断るのたいへんだったんだよ、あ、それ、飲みかけじゃないから、昨日のやつはお姉さんが捨てておいたからね」


「あ、ありがとうございます」


「また、どこかで会おうね、元高校生!」


「え?何でそれを」


「だって隠す必要のないことでしょ、悪いことしてるわけじゃないんだから堂々としなさい」


  明るく笑うその子がいなくなるのを見て、ちょっと悪いことをしたのだと感じてきた。

 また襲ってくる自分自身への嫌悪感。


 フェリーが沖埠頭を通過する。


 山がすぐそばに迫っているけれど、オレンジ色の街灯が点り建物がひしめきあう初めて見る街。


「ここが小樽……」


 エントランスホールが荷物をもった人々で賑やかになってくる。

 バッテリー残量が三十パーセントくらいまでたまったのを確認して、僕は部屋に戻った。


(いいか、接岸したからってすぐに下船できると思ったら大間違いだ、バイクはだいたい乗用車をあらかた出してから、下ろされる、ゆっくり準備すりゃいいよ、荷物の固定だけはしっかりしとけ、ぶっ倒れてみんなの前で拾い集めるのは恥ずかしいからな、それとな、エンジンはすぐにかけるな、素人ほど、下船まで時間があるのにアイドリングで無駄な煙ばかり出しやがるのよ、あんな狭い場所でそれやられちゃ、窒息しそうになる、お前のだらっとしたペースでちょうどいい……それで、やっと外に出たらすることは深呼吸して、叫べ)


 八方さんの言葉が、本当にぼやいているかのように僕の耳元に届く。真剣に聞いていなかったはずなのに。


(何で叫ぶのだろう)


 まだ分からない。


 僕がバイクの所に降りた時、既に何人もアイドリングを始めていた。あらためて見回すとライダーの平均年齢はずいぶんと高いけれど、想像以上の数のバイクが乗船していた。


 僕がゆっくりと荷物を固定していると、少し離れた所の『マルコ』さんも、同じくブロックを重ねるように荷物をうず高く積み上げている。


 そこにいる大人たちの顔は不思議なことに乗船した時よりももっと幼げに見えてきた。

誰もが僕と違って笑っている。


(いいか、アイドリングは自分の目の前に並んでいる車が動き出してからだ)


 僕はヘルメットのあごひもを締め、グローブをはめ、キーを回した。


(チョーク、チョークを忘れない)


 独り言を言いながら、キックをする。

 三日目、今日もバイクは快調な音をあげて目を覚ました。

 甲板員の誘導が始まり、先頭のバイクの後尾灯から赤い光の列が離れていく。必要以上におおきくエンジンをふかしながら走り出すバイクも何台かいた。


 僕の順番が来た。


 アクセルをひねり、ゆっくりとクラッチをつなぐ。

 床の溝と突起物に気を付けながらのろのろと進み、やっと出口。


「おぉっ!」


 白くなる東の空が正面に見えた。左に長く、とても長くのびる山なみ、その上に雲一つ無い空がずっと広がる。


 あの野宿で吸った冷たい空気。


 思わず声を出してしまった僕がいた。


(ほら、つい叫んでしまうだろう?この地を訪れる者は誰でも詩人になるのさ)


 心の中の八方さんがここでもやっぱり笑った。



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