いつか風船になる日
-10-
呼吸することは罪だと思う。
風船の赤ちゃんを手に取って、わたしはそんなことを思った。
だって、風船だって浮きたくなかったかもしれないのに。
わたしの勝手で膨らますのだ。
「はい。息を吸って」
「すぅぅぅ」
「吐いて」
「ふぅぅぅぅぅぅ」
目をつむって、息をふきこむ。
途中で苦しくなって、チラリと見上げた。
お医者様は、針金みたいな細身の身体をしていた。
眼鏡が厚くて表情は見えない。でも視線は感じる。
わたしを冷徹に観察している。
そして、なにやら手元のカルテに書き始めた。
定められたプログラムに従って動く筆記機械みたいだ。
カルテに書いてある文字はミミズのようにのたくっている。
理解を拒むようなキタナイかキレイかもわからない文字。
もしかしたら、文字じゃなくてイラストなのかもしれない。
カリカリ。シャリシャリ。筆記の音が静かな部屋に響く。
十分に膨らんだ風船を持って、わたしは所在なく先生を見つめる。
大きなリンゴみたいな風船がわたしの手の中でもがいている。
それはかすかに揺れていた。
「くくって」
「はい」
先生の指示に従って、わたしは風船の口を結んだ。
「放して」
「はい」
ふわり。
風船はわたしの手を離れ、空中に浮いた。
文字通りの意味で浮いたのだ。
「どうやら」先生は眼鏡をくいっと上げる。「ヘリウムになっているようです」
「ヘリウム?」
「はい。風間さんの呼吸を成分分析にかけてみたところ、ヘリウムガスになっているようなんです」
風間ふわり。わたしの名前である。
それにしても、ヘリウムとは――。
「ヘリウムって、お祭りのときとかに声を変えたりする、あの?」
「そうです」
「じゃあ、わたしの声がなんだか宇宙人っぽくなっちゃってるのも」
「ヘリウムガスが原因でしょう」
そう、わたしの今の声は、宇宙人っぽく変声されている。
いつもより高く、アニメ声みたいになっていて、すごく変だ。
わたしがわたしじゃないみたい。
「どうしてですか?」
「原因は不明です」
先生はまったく無感動に言い放った。冷たいロボットみたいな声。
対するわたしは、報道番組とかでガラス越しに加工されたような声。
なんの冗談だろう。
わたしがどんなに真面目なことを言っても、これじゃ笑いものだ。
「治らないのですか?」
「難しいでしょう。言うまでもないことですが、人間は呼吸をしなければ生きていけません。人は毎日酸素を吸って二酸化炭素を吐いています。一分一秒欠かさずです。原理的には不明ですが、風間さんは酸素を吸いこんで、それを肺の中でヘリウムに変えているようなのです。ですから、もし、この事態をなんとかしようとすれば、肺をそっくりそのまま入れ替えるしかありません」
「そんなの無理です」
絶対に痛いと思うのだ。
先生は、再び眼鏡をあげて、わたしをなだめるように続ける。
「幸いなことにと言ってはなんですが、ヘリウムには毒性はありません。今後長くこの状態が続くとどうなるかはわかりませんが、今のところは命に関わるものではないと思われます」
「あの……、その……周りのご迷惑なんかには?」
口もとに手を当てて考える先生。
わたしは裁定を待つ被告人の気分。
「昨今は、SDGsなんかが取りざたされていますが、地球温暖化の主原因は二酸化炭素の排出だとされているのですよ。二酸化炭素を排出しない風間さんは地球的に見れば、環境に良い存在だといえます」
そんな話が聞きたいわけではなかったが――、
結局、誰にとっての迷惑なのかという話だ。地球さんから見れば、わたしは迷惑な存在ではないらしい。人間にとってのわたしはどうなんだろう。たぶん、生きていても死んでいてもどうでもいいという感想が平均値なんじゃないだろうか。毒をふりまくテロリストでもない限りは。
それから、いわゆる経過観察というやつで、わたしは事務的に病院を追い出されたのだった。
-9-
わたしがこんなふうになった原因はなんなのかはわからない。でも、いつからそうなったのかは知っている。
昨年の秋、大好きだったおばあちゃんが死んだ。おばあちゃんはお家の近所にひとりで住んでいて、お母さんが仕事で忙しいときにはよく預けられた。
小学生くらいのわたしはおばあちゃんに手を引かれて近所の総合スーパーまで出かけていった。そこで、いつも赤い風船を買ってもらってた。
ヘリウムガスをいっぱいに吸いこんだ風船は、風に揺れて元気に笑っているみたいだった。
子どもの頃のわたしは風船を生き物だと思っていたのだろう。だから、ヘリウムガスが抜けてだんだん元気がなくなっていく姿を見て、わたしは言いようのない哀しみに襲われていたのだと思う。
少しずつ地面に近づいていって、やがてころんと横になる。
風船の死体の出来上がりだ。
わたしは『風船は飛んでいないと風船じゃない』主義者だった。わたしは風船を生き返らせようとして、しぼんでしまった風船に息を吹き込んでみた。人工呼吸で蘇生を試みるような気持ちだった。
そこには純度百パーセントの敬虔な祈りがこめられていたと思う。
当然のことながら、現実は厳しく、人間の吐く息は二酸化炭素多めの重たいものだ。重力に負けて、風船は二度と浮かび上がることはなかった。
わたしはもっと悲しくなったと思う。いっそ、空を飛んでいるときに手を離すべきだったかもしれない。そうすれば、風船は自由にどこまでも飛んで行けたかもしれないのに、なんて。
えっとなんの話だっけ――、そう、おばあちゃんの話だ。わたしが中学生にあがる頃には、さすがに風船は恥ずかしいと思って、おばあちゃんに風船は要らないよって断っていた。
それで、おばあちゃんは少し寂しそうに、けれどわたしのことをいつのまにか大きくなったんだねと褒めてくれたのだった。
おばあちゃんが亡くなったという知らせが届いたのは、それから少し後の話。
近所の人がたまたま倒れているおばあちゃんを見つけてくれて、そのときはもう冷たくなっていたらしい。
わたしは知らせを聞いた時、気絶してしまったようだ。
まるで他人事みたいな言い分だが、本当にあのときのことはよくわからない。電灯が一気に消えたような。ブレーカーが突然落ちたかのような感覚で、わたし自身もよく覚えていない。
けれど、事実として、わたしがおばあちゃんに再び逢えたのは、葬儀のときの最後に火葬場に連れていかれる直前だった。
それから少しして、わたしは声に違和感を覚えはじめた。何かが喉にひっかかったような、上ずったような高い声になってしまっていたのだ。
それがまさか、わたしの吐息がヘリウムガスになっているだなんて誰が思うだろう。
でも――。
もしかしたら、あのときおばあちゃんに風船をもらっていたら、こんなふうにはなっていなかったとも思うのだ。
-8-
わたしは母子家庭に生まれた。父親はいない。会ったこともないのでどんな人かもわからない。お母さんは仕事が忙しくて、あんまり家にいない印象だ。
「ふわり帰ったの?」
玄関口で、お母さんの声が聞こえた。
お母さんは、たぶん夕飯を作っていて、わたしが帰ってきたのを音だけで判断したのだろう。
「帰ったよ」
「おかえり」
「ただいま」
短い符丁のようなやりとり。
台所では、やっぱりお母さんは夕飯を作っていた。
「で――、どうだったの」
「命に別条はないって」
「そう、よかったね」
「うん」
それで会話は終わりだ。
べつに放置プレイをされているわけじゃない。お母さんはわたしを育てるのに忙しいんだと思う。だから、リソースは有限で、生活をしていくにもリソースは必要だから、会話に割くリソースは存在しないのだと思う。
わたしは比較的良い子だったし、良い子であろうと演じてきた。だから、短い言葉で終わるのは、お母さんとの距離感が醸成されてきた結果だともいえる。
完成されたキレイな距離。
だって、近いとキタナイと思う。吐息が交わるくらいの距離になると、相手の息を臭いって思っちゃうかもしれない。逆に、相手もわたしの息を臭いって思っちゃうかもしれない。
においというのは、人間にとって最も"生"を感じさせる感覚だと聞いたことがある。そして、人間は記憶と感覚を混同しがちだ。臭い人って思われたらたぶんその人のなかでのわたしは嫌な人間としてすりこまれるだろう。わたしにとっての相手方もそうなるかもしれない。いくら口で甘い言葉をささやかれても、イヤなものはイヤだとなっちゃうかもしれない。
だったら、そんなふうにならないように最初からキレイな距離を保っていたほうがよいと思う。
「学校は?」
「いく」
病院と同じように事務的なやりとりだった。
人間がスムーズに生きていくためには、およそ事務的であったほうがいい。
学校の準備をしたあと、お風呂に入ってすぐに眠った。
夢は見なかった。
-7-
学校への登校中。
「ふわり!」
「うきゃっ!」
後ろから突然抱きつかれて、わたしは身体が誰かに捕まえられるのを感じた。
こんなことをするのは決まっている。
「泊ちゃん。いきなり抱き着かないでよ」
――密野 泊
泊ちゃんはわたしのクラスメイトで、ほとんど唯一といってもいい友達だ。幼稚園から小学校、いま通ってる中学校といっしょの学校に通っているいわゆる幼なじみ。おばあちゃんにいっしょに風船を分け与えられた風船姉妹でもある。
けれど性格は真反対。
元気で明るくて誰とでもそつなくコミュニケーションをとれる。
顔もかわいい。ちょっとツリ目なところが勝ち気な猫さんみたいだ。
わたしは、よくて陰キャ。
声がアニメ風になってしまった今となっては、クラスメイトと会話するのも困難で、小さな声でぼそぼそと喋ることしかできない。
同じ服を着た、一見すると同一規格の商品のように思えるが、やっぱりその差は歴然としてる。我ながら変態チックだと思うんだけど、泊ちゃんからはどこか安心する匂いがするのだ。
泊ちゃんは光属性だと思う。時々まぶしすぎて目をそむけたくなる。でも、蛾のように夜暗をふらついているわたしは、誘蛾灯にさそわれるみたいに泊ちゃんから目が離せない。
――依存している。
とも言う。その認識はあるのだけれども。
わたしがどうしてもわからないのは、泊ちゃんがどうしてわたしなんかにくっつきたがるかなのだ。十年ほどかかっても解けない謎である。
「ふわり。どうだったの?」
泊ちゃんの顔には心配がにじみ出ていた。
身体のことだと思う。声がおもしろ星人になっているわたしは、意図して低めの声でしゃべっている。それでも、泊ちゃんにバレないわけはなく、病院に行くように言われたのも泊ちゃんからだった。
「ヘリウムなんだって」わたしは短く答えた。
「ヘリウム?」
「そう。ヘリウム」
少しの間――、具体的には一秒ぐらい時間が止まった。
何を言っているのかわからないのだろう。わたしもよくわからない。
「どういうこと?」
「息がヘリウムガスになってるんだって」
「それって大丈夫なの?」
「生きるのに支障はないって」
「そっか。よかったよ」
わたしは泊ちゃんに頭を撫でられていた。
くすぐられるような、なんともむずがゆい気持ち。
わたしは無意識に目をとじてしまう。
泊ちゃんは右手でわたしをからめとってるから逃げられない。
左手はあいかわらず、優しいタッチで撫で続けてる。
わたしを子犬かなにかだと勘違いしてるんじゃなかろうか。
「あいかわらずちっちゃいねー。ちゃんと食べてる?」
「食べるのめんどい」
実際、お母さんが帰ってくるのが遅いとき、わたしは夕飯をすっぽかすことがよくあった。自分で自分のために作る食事に意味があるなんて思えなかったからだ。空腹を感じないわけではなかったが、べつに死ぬほど飢餓なわけでもない。なんとなくからっぽなほうが、わたしに似合ってると思う。
「そのうち呼吸するのもめんどいって言い出しそうだね、この子は」
「呼吸するのもめんどい」
「ほんとに言い出したよ」
「泊ちゃんが相手だと、少しだけ素直になれるんだと思う」
「あらま。かわいらしいこと」
「本当にそう思ってるから」
泊ちゃんの笑顔度数が120パーセントほどアップしたように思う。
「じゃあ聞くけど、本当に大丈夫なんだね?」
「大丈夫だよ。宇宙人声なのは少しだけ嫌だけど、泊ちゃん以外とはあんまり話さないから問題ないし」
「そのうち話すのも面倒って言い出しそうだね。私はテレパスじゃないんだから、ちゃんといいなよ」
「会話に意味を見いだせないの」
「私と喋るのもイヤってか」
「泊ちゃんといっしょにいるときは、究極、言葉はいらないって思ってる」
――言葉はいらない、か。
自分で言っててなんだが、まるでポピュラーなラブソングみたいで、少しおもしろいかなって思った。
「声が恥ずかしいから喋りたくないの?」
「それもある」
「もとから、ふわりはロリボイスだったからあんまり違和感ないよ」
「むう……」
「えいっ」
膨らんだわたしのほっぺたを、泊ちゃんがつつく。
頬の中の空気は漏れて、ヘリウムガスとして排出された。
「ねえ、ふわり」
いたずらっこのような良い笑顔を浮かべる泊ちゃん。
「なに?」
「風船作り放題だよね」
「え? うん……まあそうかな」
「もう少しで文化祭じゃん。ふわりの能力があったらみんな助かるよ」
確かに文化祭とかの飾り付けとかで風船を使うことはあると思う。
もしかすると、わたしと同じく『飛ばない風船は死んでいる』と思っている派閥の子もいるかもしれない。
けれど、根本的なところでその理屈はおかしい。
「ヘリウムガスくらい買ってくればいいと思う」
「まあそりゃそうなんだけどさ。ヘリウムガスってけっこう高いじゃん」
「わたしの呼吸が搾取されてる気がする」
「そんなことないって。みんな感謝するよ。風船女王になれるかも」
「そんなわけないよ」
わたしには泊ちゃんくらいしかいないのだし。
みんな、わたしが明日消えても、べつになんとも思わないだろう。
「ああ、もしかすると、みんなには黙っておきたい系だった?」
「べつに知られてもいいよ」
むしろ興味をもたれるという状況のほうが奇跡に思える。
わたしがスポットライトを浴びるというイメージが湧かない。
でも、薄々感じているのだけれど、泊ちゃんはわたしを人間にしたいのだろう。
風船のようにフワフワ漂うだけの、ただ生きて呼吸しているだけの存在から、きちんと他人と話せて、コミュニケーションをとれて、仲良くなれるようなそんな存在にしたいのだと思う。
それは、わたしとしてもそうなるべきだと思うし、やらなきゃいけないとは思っているんだけれども、できないって思う。存在論的なレベルで不可能だ。
わたしは人間のふりをした風船なのかもしれない。
-6-
「ふぅぅぅぅぅぅぅ」
わたしは風船を生み出すマザーになっている。
風船を生きた風船にするために息を吹きこみ続けている。
文化祭の『うぇるか~む 2-3』というなんとも気の抜ける看板に、生きた風船を何個もハリツケにする係になっていた。もちろん、わたしがくくりつけやすいように、看板は倒した形になっている。作業的にはわたしのみができることなので、みんなは思い思いほかの作業をしている。わたしはひとり、ブルーシートを地面にひいて、外で作業をしていた。
なんのことはない。
結局、世の中の流れみたいなものに押し流されて、わたしは風船製造マシーンと化しているということだ。
けれど、泊ちゃんの言葉に後押しされてとかじゃない。
種明かしをすればカンタン。
クラスのみんなには、担任の先生がご丁寧にもご説明さしあげていた。
――風間さんは少し特殊な体質になってしまいました。
泊ちゃんと先生が共犯という線もないだろう。先生はわたしにとってはちょっと苦手な男の人で、おそらくイジメとかビョーキによる差別とかが発生しないようにしたかったのではと思っている。
――ほとんど意味のない予防線。
客観的に見れば、わたしはイジメられてもいないし、基本的にはいてもいなくても同じ存在だ。無視されているわけでもない。なんといえばいいか、空気みたいな存在なのだと思う。わたしも他のみんなにさして興味があるわけでもないし、そこは絶妙な距離感が働いている。
けれど、先生にとってはそうではなかったらしい。
たぶん先生は『人間はよくお喋りするのが仲が良い』主義者なのかもしれない。
わたしは吐息が相手にかかる距離が怖い。
だから、先生の主義については内心否定している。
けれど、口に出しては言わない。
わたしの思想は、口に出してしまうと嘘っぽくなってしまうからだ。
それに先生が内心でどう思っていたところで、結局のところわたしにとっての影響はない。せいぜい、風船を膨らます役目を与えられるだけのことで、それでいちおうクラスに参画しているという建前を達成できるというわけだ。
文化祭はクラス全員が参加することになっている。何らかの形で参加しなければならない。だったら、まがりなりにも役目を与えられていたほうが気楽だ。それで人間になれた気がする。人間のふりをできる。先生も周りのみんなも安心する。わたしも少し安心する。ウィンウィンの関係だ。共犯といえば、わたしこそが先生の共犯なのだろう。
――泊ちゃんはどうだろう。
ふと湧いた疑問。
いったん息をふきこむのを止める。
泊ちゃんは、わたしが風船女王になるのを望んでいるようだった。
けれど、それは冗談めいた話で、結局、わたしのことを誰かに話すことはなかった。
今日何個めかになる中途半端に膨らんだリンゴのような大きさの風船を見て、わたしはニュートン物理学を思い描く。
リンゴは地面に恋したのだろうか。
それとも、地面がリンゴに恋したのだろうか。
考えごとをしていたせいで力が抜けてしまったのか、風船はわたしの手を離れてしまった。まだまだ風船としては雛のように小さかったけれど、重力を超越して風船は空へと飛び立った。
飛んでる風船は地球のことが嫌いだったのかな?
そんなことを思う。
「大丈夫?」
声をかけられた。少しびっくりして恐る恐る振り返ると、見知ったクラスメイトがいた。えっと……確か名前は……なんだっけ。
「田中くん?」
記憶の底から引っ張り出して、なんとなく正解っぽい名前を伝えてみる。
田中くんは、優等生といっていいと思う。確か生徒会に属していて、学校の成績もよくていつも特待生になっている。風のうわさで聞いた話だと、私学のここで、学校の授業料はほとんど払っていないという話だ。
そして、頭がいいだけでなくて、スポーツもできる。テニスかなにかをやっていて、県の大会で何度も優勝しているらしい。
こんな彼のディティールを知っているのは、田中くんに興味があったからではもちろんない。クラスの他の子が、何度も話題にするので、机につっぷして眠ったふりをしているわたしも、なんとなく覚えてしまったのだ。
ついでに言えば、彼は人気者だといえるだろう。泊ちゃんと同じくらい。
そんな田中くんがわたしに声をかけてくれたのは、おそらく善意の為せるワザだと思う。いまの言葉も、風船を一匹逃してしまったわたしに対するお咎めというニュアンスはなかった。
「ずっと息を吹き込み続けたら酸欠になっちゃうからね。風間さんも休憩しながらぼちぼちやってよ」
田中くんはクラス委員でもあるのだった。
彼にはクラスの出し物が文化祭に間に合うか管理監督する義務もあるのだろう。
「問題ないよ」
「そう? ひとりで看板一個はきつくない?」
「きつくないよ」
クラスの出し物はいつのまにやらバルーンアートに決まっていた。
バルーンアートは思いのほか、生きた風船は使わないものだ。要するに浮かない二酸化炭素多めの風船を組み合わせて創ることが多い。わたしがみんなに混ざってヘリウムガス入りの風船を作ってしまうと、それこそ文字通りの意味で浮いてしまう。みんなの迷惑になる。
逆にクラスの看板は、外に置いておくやつだし、広告気球みたいに浮いて目立ったほうがいいから、わたしの特殊体質も少しは役に立つ。そして、正直に言えば、みんなと関わりにならなくて済むから気楽だった。
「それにしても」田中くんが地面にすわりこみながら言う。「本当にヘリウムガスになってるんだね」
「うん」
「おもしろいな」
田中くんは、空を見上げながら言った。
小さな点のようになってしまった赤い風船を視線で追いかけてる。
しかし、おもしろいとはナニゴトだろう。少し失礼な気がする。
そんなふうに、抗議の空気感をにじませてると、彼は笑った。
「ああごめん。失礼な言い方だったね。風間さんはツライかもしれないのに」
「べつにツラくないよ?」
本当にツライわけではない。ちょっとアニメ声なことを除けば、本当に生きるのに支障はないのだし、むしろ体重を気にする乙女としては少しだけ軽くなっていいんじゃないかとすら思っている。
「なんていうかさ。チートっぽいと思ったんだよね」
「チート?」
「チートっていうのは、ズルって意味でね。小説とかでヒーローがすごい力を持ってたりするでしょ。ああいうのをズルしているみたいだから、チートって言ったりもするんだ」
「ヘリウムガスになっているのがチートなの?」
よく理解できない。なんとなく田中くんの言葉は子どもっぽいと思ってしまう。けれど、そういう子どもっぽいところも含めて、彼が人気なところだ。陽キャとかパリピとか呼ばれる類の人たちは、得てして馬鹿になれる能力が高い。本当に馬鹿というわけではなく、隙を見せることで、相手方に自分が関わってあげなきゃダメだと思わせるシステムなのだろう。
「特別な存在だって思えるじゃん」
「田中くんも特別な存在だと思うけど」
県大会で優勝しまくりの特待生が特別でなくてなんなのだろう。
わたしの息がヘリウムガスになったのは、単にビョーキかなにかの一種で、わたしの努力とか想いなんてものは一切関わっていない。
でも他人からしてみれば、意図せずに超常のちからを得たということで、ズルのように思えたのだろうか。
「ねえ風間さん。僕も看板づくりを手伝ってもいいかな?」
突然の提案に、わたしは一秒ほどフリーズした。
「田中くんの仕事は、看板だけじゃないと思うんだけど」
クラスの優秀な委員長として、現場監督したり、先生と折衝をしたり、いろいろと忙しいはずだ。わたしの看板の進捗が気になるのなら、わたしに毎日報告させればいい。そうでなくても、気になれば進捗確認すればいいだけのはずだ。
「みんなグループを作って、いろいろ作品を作ってるからさ。いまさら僕が参加しづらい状況になっていたんだよね」
「田中くんが入れてって言えば、拒む人は少ないと思う」
「うーん。みんないい人だからそうかもしれないね」
「うん」
「でもだからこそ邪魔をしたくないって思ってさ」
「わたしはいいの?」
「邪魔だった?」
「ううん」
わたしはべつに看板にこだわりはなかった。一世一代の芸術的バルーンアートを完成させてやろうなんて気概はない。
べつにどうでもよかったのだ。
だから最終的には了承の意を告げた。
-5-
病院の定期検診で、体重を測ったら、わたしの体重は28キロになっていた。いくらわたしの背がちっちゃいからって、さすがに軽すぎだった。しかも見た目は年相応だ。ガリガリなわけじゃない。
確かになんかこの頃、身体がふとした瞬間に風に押されたり、月面を闊歩するみたいとは言わないまでも、やたらと身体が軽いなとは思っていた。
ヘリウムガスのせいかなと思って、病院の先生に聞いたらどうやら違うらしい。
「世界は4つの力でできているということはご存知ですか?」
わたしは頭を横に振る。
「重力、電磁力、強い力、弱い力の4つ組です。そのうち、重力だけが他の力に比べて圧倒的に弱いとされます」
「リンゴは地面に落ちますが?」
「しかし、その力もチンケな磁石にすら勝てないでしょう?」
わたしはリンゴが鉄でできていることを想像する。それなりの大きさの磁石があれば、リンゴは重力に逆らって磁石にくっつくだろう。
リンゴがクリップだと想像すれば、さらにわかりやすい。
「でも、重力が弱いからってなんなんです?」
「現代で重力子が観測されないのは、重力子が存在するのが余り物の次元のなかに本体があるからだと言われているのです。つまり本来は巨大な力のはずの重力がたまさか四次元宇宙においては弱い力に見えているというわけですね」
先生はいくぶん興奮しているらしい。ロボットのように思えていたが、観測機械も興奮するのだろうかと、失礼なことを考えてしまう。
「重力子が観測されないというのが、わたしの体重と関係があるんですか?」
「風間さんは肺の中で反重力子を生み出しているかもしれないということです」
「反重力子? ヘリウムじゃなかったんですか?」
「ヘリウムも生成されているようです。しかし、ヘリウムだけでは風間さんの体重が減りすぎです」
「反重力子というのがよくわからないのですが……」
「重力子というものが観測されない以上、仮説の域をでないのですが、一般相対性理論においては、重力というのは時空の歪みとして定義されています。物質はそこにあるだけで、重力を発生させます。ハンカチのような柔らかな平面を広げて、そこに黒い鉄球を落とすことを思い描いてください。ハンカチはたわむでしょう? それが重力と呼ばれているものです」
頭がフット-しそうだ。
「だったら反重力ってなんなんですか?」
「場に対する斥力として存在する負のエネルギーということになりますね」
わたしは自分のことを陰キャだとは思っていたけれど、まさかダークエネルギーを肺に宿しているとは思わなかった。まるで神様から与えられた中二病のような仕打ちに思わず赤面してしまう。
「先生、わたしどうなっちゃうんでしょうか」
「このまま負のエネルギーが高まり続けると、体重がマイナスに突入することになりかねません。対処療法ですが重りをつけて暮らすことをお勧めいたします」
まさか、ドラゴンボールのZ戦士みたいに重りをつけて暮らせと言われるとは思わなかった。でも、入院しろと言われないだけマシなのかな。
「こうなった原因に心当たりはありますか?」
「原因ですか?」
「例えばダイエットとか。風間さんは年齢にしては少々痩せすぎのように思えます。もちろん体重のことではなく見た目のことです」
「ダイエットはしていません。心当たりは……」
あるといえば、ある。
-4-
おばあちゃんが死んだときと同じだと考えれば、きっとわたしの心がからっぽになったからじゃないだろうか。
今よりほんの少し前。
田中くんと看板作りに励むようになって、しばらく後に、わたしは泊ちゃんといっしょに下校していた。
泊ちゃんはニマァっと擬音がするような笑いを浮かべる。
「聞いたよ。ふわり」
「なにを?」
「さいきん田中くんといい雰囲気なんだって?」
「よくわかんないんだけど」
「いっしょに看板作ってるみたいじゃん」
「いっしょに看板作ってるだけだよ」
それ以外のなんの意味があるのだろう。
「田中くんは、ふわりのことが好きなんじゃない?」
「うーん。わたしの息がヘリウムガスになっててチートだって言ってたよ。おもしろいって」
「おもしれー女枠じゃん」
おもしれー女枠というのは、少女コミックとかで男の人からおもしろいと思われるヒロインのことだ。おもしろいイコール興味があるってことで、好きの前段階をにおわせる。わたしも少女なので一応は理解できる。
しかし、なぜか泊ちゃんにそう言われて、わたしは言葉にできないイライラを感じた。
「わたしはおもしろい女じゃないよ」
「ごめんごめん。怒った?」
「怒ってないよ。訂正しただけ」
「私はさ。少し安心したんだ。ふわりが私以外ともちゃんと会話できるって思ってさ。他の人にもちゃんと興味を持てるって思って」
少し寂しそうな声。
違うと思った。わたしは田中くんには悪いけれども、まったく一ミリも興味をもってなんかいない。昏い感情が溢れ出しそうだったが、元から陰キャであるわたしは言葉を抑える術を知っている。
「田中くんとは成り行きで看板を創るようになっただけだよ」とわたしは言った。
「でも拒まなかったでしょ」
「拒むのもエネルギーがいるから」
面倒くさかっただけの話だ。
人は重力を有している。だから、人と人とは惹かれ合う。
わたしはたまたま重力のくびきから肺のなかに溜まったヘリウムガスのぶんだけ解き放たれているけれども、相手がわたしに勝手に重力を感じることはあるだろう。それだけの話だ。わたしは関係ない。
「関係をね」泊ちゃんが反論みたいに言う。「作っていけるって思ってうれしかったんだよ。心でどう思っていても、他の人からどう見えるかって大事じゃん」
客観的にみれば、わたしは田中くんと仲良くしているように見えていたのかもしれない。
拒まなかった。承認した。いっしょに看板を創ることを了承した。
――相手の重力を受け入れた。
迂闊と言われればその通り。責任は、咎はわたしのほうにある。
そのあと、ずっと無言でいたため、気まずい空気のまま別れたのだった。
-3-
「風船つくれないってどういうこと?」
咎める雰囲気もなく、田中くんは聞いてきた。
わたしが風船をもうつくれないかもしれないと言ったからだ。
「反重力子? とかいうのになってるかもしれないって先生にいわれたの」
「先生って、学校の?」
「どこかの偉い科学研究機関の先生」
「へえ。すげえじゃん」
田中くんは目をキラキラさせて、わたしの口元を見つめている……ような気がする。少し恥ずかしいからやめてほしい。わたしは視線をずらすように、半歩だけ身を引いて、田中くんから見て斜めに見えるように立った。
「風船が、ヘリウムなんかよりもずっと浮くから、もしかすると看板自体が浮いちゃうかもしれないんだよ」
わたしは今、コルセットのようなものを装着している。そこに金属棒をいくつかいれて生活していた。先生が言うには、わたしがマイナスの体重になるにはものすごいダークエネルギーが必要になるから、そこまでは心配しなくていいってことだったけど、経過観察の回数が増えたのも事実だ。
しかし、本当のところは――。
そう、結局のところは、わたしは田中くんとの関係を終わらせたかったのだ。
看板をただいっしょに創っているという関係を。
「田中くん。ごめんなさい」頭を下げたまま、わたしは言った。「そういうわけで、もう風船はつくれないの。浮かない風船じゃ田中くんもおもしろくないでしょう。だから――」
「ああ、べつにいいんじゃないかな」
言葉を続けようとしたら、逆に田中くんの言葉が割りこんできた。
「どういう意味?」
「例えば、風間さんが創る風船がひとつマイナス5キログラムだとして、だったら重りを5キロ設置すればいいでしょ」
「それはそうかもしれないけれど」
「それに、浮かない風船でもべつに悪くないんじゃないかな」田中くんの声は相変わらず落ち着ていた。「なんとなくだけどさ、それくらいの方が僕たちにとってバランス取れてる感じしない?」
「…………」
わたしはしばらく黙っていた。
それは単なる思いこみだと言うべきだろうか。田中くんがわたしに執着しているだけだと言うべきなのだろうか。わたしは田中くんとバランスをとろうとは思っていないって。
ただ事実として、田中くんとは喧嘩することもなく曲りなりにも協力体制を築いてこれたのは確かだ。だからこそ、泊ちゃんも誤解したのだろうし。
だから事実として、風間ふわりというキャラクターは、無意識であれなんであれ他者とバランスをとろうとはしている、と思う。わたし自身も、誰かと繋がれるというのは悪くない感覚だと思っているんだ。
ただ不意に、そうじゃないって思ってしまう。
手に持った風船を手放したくなるような一瞬がある。
結局、どっちつかずなのだろう。言葉では、やれ距離感だなんだと言いながら、本当のところは人間が怖いだけ。手に入ったと思ったものをなくしてしまうのが怖いだけ。全部、わたしがからっぽなのが理由だ。
唐突にわたしの中のダークエネルギーが高まっているのを感じた。グッと身体が浮くような感覚。まだ、体重のほうが重いけど、いつまでわたしは地球にいられるのかわからない。このままだと風船みたいに浮かんでしまう。
「あの……」
選択肢はあまり多くない。
ありがちなのは、このまま友達のようにふるまい続けるというものだ。つまり看板をとりあえず完成まで持っていき、とりあえずありがとう、協力できてよかったねというふうに丸くおさめる。これが一番人間らしいふるまいだろう。
あるいは『田中くんはもしかしてわたしのことが好きなのかもしれないけれど、わたしはそうでもないの』とハッキリ伝えるべきだろうか。うぬぼれかもしれないが、ほんのすこしは好意をもたれているのは感じるし、わたし自身もまったくこれっぽちも好意を抱いていないといえば嘘になる。
だから、停止していた。
言葉を言うか言わざるべきか、その狭間の時間でたゆたっていた。
ふと空を見上げると、教室の窓から泊ちゃんの姿が目に入った。教室は三階にあるから、俯瞰の視点で泊ちゃんはわたしたちのほうを見ていたことになる。
――見られてた。
わたしが意味不明なショックを受けていると、泊ちゃんはわたしが気づいたのに気づいたのか、大きく手をふっている。にこやかな笑顔つきだ。
その瞬間に、脳内に大きな釘がぶっ刺さったような感覚がした。
痛い。いたい。イタイ!
グツグツとマグマのような怒りが湧いてきて、もうもうとした憎悪にも似た感情がお腹を中心に渦巻いた。
ダークエネルギーが再充填されて、わたしの斥力が重力を打ち負かす。
わたしは一気に駆け出した。一歩、二歩、三歩。ジャンプ!
視界が急激に高度をあげる。反重力で押し出された身体が、わたしの跳躍力を何十倍にも引き上げてくれる。
ふわっっっ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。
水中でばたつくみたいに、空気をかいで、泊ちゃんに近づいていく。
わたしはもうほとんど何も考えていない。これからあと、空中に浮いていってしまうだとか、これまでの関係が壊れちゃうだとか、そんなことは考えなかった。
ただ一言。
「ち が う か ら !」
わたしは窓辺まで到達し、泊ちゃんの眼前で言ってやった。
泊ちゃんはびっくりしたまま固まってた。
言ったらちょっとスッキリしたのか、ダークエネルギーが霧散して、わたしはふわりふわりとと地上に降りていくのだった。もちろん、スカートの裾は手で抑えることを忘れなかった。
-2-
わたしのやらかしは、速やかに配信サイトにアップロードされ、またたく間に世間を席巻した。お茶の間でも、新聞でも、『ちがうから!』が繰り返し再生されている。死にたい。
わたしの立ち位置は『反重力少女』である。前文に『怪奇』をつけてもいいと思う。よくて珍獣悪くて怪しげな魔法を使う魔女だ。
幸いなことに、例のどこかの偉い科学機関の先生は、わたしのことをかばってくれた。わたしの体重がマイナス5キログラムになることを防ごうとしてくれたのだ。ただ、世の中の人は、わたしの体重がマイナス5キログラムになろうと、マイナス10キログラムになろうとあまり関心がないらしく、先生の言うことには誰も耳を貸さなかった。
学校の校門の前には連日マスコミが押しかけてくるし、文化祭もあわや中止になりかけた。ただひとりわたしのせいで中止というのはあまりにも理にかなっていないということで、なんとか開催される運びになったが、関係各位のみなみなさまがたにはご迷惑をかけることになったようだ。心苦しい。
けれど、わたしは奇妙なことに安心もしていた。あれだけアップロードされて、『ちがうから』という言葉も解釈されて、青少年の心の闇が重力に反逆するとかわけのわからないことを書かれもしたけれど、結局のところ、『わたし』のことに興味がある人なんて誰もいなかったからだ。数百万人に再生されても誰ひとりである。だから、安心したんだと思う。
「ふわり」
放課後になって、マスコミやら偉い人やら、どこかの科学者やらの拘束から解放されると、泊ちゃんに呼び止められた。
「あのさ……」
「ん?」
泊ちゃんの声色はいつもより少し暗い気がする。わたしは首を傾げた。
「ちょっと人のいないところについてきてくれないかな?」
「うんいいよ」
べつに家でもよかったのかもしれないけれど、泊ちゃんも気が急いていたのかもしれない。向かった先は校舎の屋上だった。屋上には二重フェンスがされていて、普段はしまっているんだけど、文化祭のこの時期だけは大型バルーンをうちあげるために解放されている。
ただ、今はもう放課後だから人影はない。
夕焼けに校舎が染まっていく。文化祭はいよいよ明日開催される。みんな準備は終わっていて、明日に向けて今日は早く帰るという人が多いだろう。
わたしが田中くんと作った看板も、とりあえずのところはつつがなく設置された。わたしのバルーンは、逆止弁つきで1ヶ月程度は膨らんだままらしい。
風に揺らめいて、空気の海を泳いでいるのが見える。
「ふわりってさ……」
「うん」
「……なんでもない」
泊ちゃんは言いかけて止める。いつも明るくて物事をハッキリ言う泊ちゃんらしからぬ態度に、わたしはその言葉を飲み込んでしまう。
そして沈黙が訪れる。風だけが吹いている。
「ふわり……その……ごめんね」
「えっ?」
わたしは驚いてしまった。なんで謝られているのかわからない。
「わたしが悪ふざけしたせいで大変なことになってしまったよね」
そう言って、泊ちゃんは頭を下げる。彼女の顔を見てみると、泣いていた。
「えっと……」
どうしよう。わたしは戸惑ってしまう。泊ちゃんが泣くほど責任を感じていたとは思わなかった。
それどころか、責任の多くはわたしにあるとすら思っている。確かに田中くんとわたしはなんでもなくて、泊ちゃんが邪推したことにわたしは怒ったけれど。
その後、配信サイトにアップされて、絶賛時の人みたくなってしまったのは、ただの出来の悪いジョークみたいなものだろう。
「えっと、マスコミとかにとりあげられたのは事故みたいなものだから、泊ちゃんは悪くないよ」
「そりゃそうだけどぉ」
そうなのかい。
メソメソしている泊まりちゃんが珍しい。
いつもはわたしのほうが依存しているのに。
「ふわりが怒鳴ったのって久しぶりじゃん」
「えっと、怒鳴ったというか、違うって訂正したかっただけ」
「私、ふわりの気持ちを勝手に決めつけてたかなって」
「そんなことないよ」
わたしはほとんど即答していた。
気持ちとしては、たしかに違うって思った。
わたしにとってのおばあちゃんにもらった風船は、いまは泊ちゃんという名前だったから。まちがっても田中くんという名前じゃなかった。
けれど、わたしは泣いている泊ちゃんを見て思ったんだ。
わたしも泊ちゃんの気持ちを決めつけていたって。
わたしも泊ちゃんの風船かもしれないって。
それは自惚れだろうか。
わたしの願望が見せるまぼろし?
だとしても、涙を流すくらいの価値はあると信じたい。
「いっしょに帰ろう」
わたしは泊ちゃんに言った。
「うん。うん……」
中学生になってからは少し恥ずかしくてしてなかったけれど、子どものときみたいにわたしたちは手を繋いで帰った。
帰りはいろんな話をした。死んだおばあちゃんのこと。風船のこと。学校のこと。勉強のこと。将来のこと。ダークエネルギーのことも少しは話題にのぼった。けれど、それはいくつもあるわたしたちの話題のひとつでしかなかった。
やっぱりわたしたちは風船姉妹なのだろう。
互いが互いの風船なのだ。
-1-
あれから文化祭はつつがなくおこなわれ、わたしの周りの狂騒もすこしずつ収まっていった。いまだに声は宇宙人でアニメ声だし、時々は体重が軽くなったりもするけれど、地球を離れるほど反重力少女になるわけじゃない。
「ふわりっ!」
「わきゃっ」
背後から抱きつかれて、わたしはやっぱり驚いてしまう。
こんなことをするのは、泊ちゃんしかいない。
――それからなんとはなしに、手をつないで登校する。
考えてみれば、これは外形的には少し恥ずかしい行為かもしれないけれど、いまのわたしには言い訳がある。
わたしがもしも重力に反逆するくらいのダークエネルギーをまとったとき、泊ちゃんがその場で引き止めてくれるというのが保険になるのだ。
つまりこれは生存戦略であって、泊ちゃんは人助けをしているに過ぎないのだ。
「あのさ。ふわり……」
「ん?」
泊ちゃんが言いにくそうに声を抑え気味に喋る。
「もしかして少し太った? あ、いやおデブになってるとかじゃなくて、いい具合に膨らんでいるかなって」
「そうかな? そうかも」
たぶん、それは幸せ太りというやつなのかもしれない。
-0-
今わたしには密かな野望がある。
それは、どこの世界にもありふれた野望で、誰でも幼い頃に一度はやっている。
いちばん思い入れのあって、いちばん大事な風船を膨らませること。
大人になってからは恥ずかしさや人の目を気にしてなかなかできないことだけれども、幸いなことにわたしの経験値はそれなりに高い。あれだけたくさんの風船を膨らませてきたのだから当然だ。
だからいつの日か、密野 泊というヒトガタの風船に思いっきりわたしの吐息をふきこんで膨らませてやるのだ。
大好きだよ。