令嬢探偵の求婚から破談まで
アルタヴィス伯爵家に王子が訪問したのは、オクタヴィアの養父であるアルタヴィス伯爵が亡くなったあと。今から一年ほど前だった。
喪があけてすぐ、王子直々の訪問に、伯爵代行を名乗り出た叔父も何事かとあたふたしていたが、蓋を開けてみればアルタヴィス伯爵家の令嬢と縁談を結びたいという求婚話だった。
養父は何をどう工作したのか、養女であるオクタヴィアに爵位を譲るように女王と話をつけていた。血統主義の強い爵位の扱いとしては異例の措置だ。それと引き換えの縁談だったのかもしれない。
最初は当然、養女とはいえアルタヴィス伯爵家の継承権を持つオクタヴィアが、エドワードの求婚相手だった。だがオクタヴィアが返事に窮している間に、エドワードと従姉妹のジェシーが恋仲になってしまった。
知らないうちにオクタヴィアは捨てられたことになり、エドワードと結婚するジェシーに継承権も移るに決まっているからお前は用なしだと、鞄ひとつに入るだけの荷物を持たされ、オクタヴィアは屋敷から追い出された。
まあいいかと、オクタヴィアはそのまま王都に出てきた。
幸い、養父はもしものためと王都にオクタヴィア名義の屋敷を用意してくれていた。薄汚れた帽子に化けていたハットは持ち出せたし、何も問題はなかった。
後悔も未練もなかった。養父はとてもよくしてくれたし大好きだったが、養父が望むような『普通の女の子』あるいは『幸せな令嬢』に、自分は向かなかったと思う。
十二になるまで母親と一緒に人目をさけ、ときには人を傷つけることすら厭わずに、ハットや帝國の遺産に助けられながら生きてきた自分には、どだい普通の女の子も幸せな令嬢も無理な話だったのだ。
もちろん、養父には感謝している。学んだことも変わったこともたくさんある。
たとえば、今は命を狙われることもなければ、食べるのにも困ってない。日の昇る時間に堂々と道を歩いて買い物だってできるし、雨風しのぐ家がある。未だにずれているようだが、常識らしきものだって覚えた。
だが、オクタヴィアは、ハットを含む帝國の遺産をどうしても捨てられない。悪魔の遺産など自分には関係ないと、目を背けられない。
母の命と一緒に奪われた、だいじなともだちを。
だからエドワードとの婚約はなくなってよかったのだ。ただ、世間様はそうは思わないらしいと、ジェシーの手紙でなんとなく察している。
エドワードもやはり何か思うところがあるのだろうか。思えば、オクタヴィアを見る彼の目は、いつもどこか苛立たしげで、何か言いたげだった。
「半年ぶりか、オクタヴィア。……王都に出たとは聞いていたが、こんな場所で会うとはな」
そして今日もやはり忌々しいとばかりに、オクタヴィアを見おろしている。
「探偵事務所を開いたとか聞いたのだが、何の冗談だ。嫌がらせか」
「嫌がらせ?」
「伯爵令嬢が探偵など、アルタヴィス伯爵家のいい恥さらしだろう。そんな非常識な人間が身内にいるから、母上も俺とジェシーの婚約を認めてくださらないのだ」
さっぱりつながりがわからず、オクタヴィアは目を白黒させる。
反応のないオクタヴィアに苛立ったようにエドワードが荒々しい歩調で階段からおりてきた。
「お前のせいで俺は――」
「エドワード王子殿下」
すっとオクタヴィアを背にかばうようにレイヴンが前に出た。
「我々は仕事中ですので、これで失礼します。行こう、オクタヴィア」
「あ……ああ」
オクタヴィアの腰に手を回したレイヴンが階段をあがり、ごく自然にエドワードと階段ですれ違った。あまりに拍子抜けする対応だったのか、エドワードがまばたいている。オクタヴィアも助かったとはいえ、これでいいのかと思ってしまう流れだ。
「おいお前! 何者――」
「名乗るほどの者ではありませんよ、王子様。それとも異端審問官殿と呼べば?」
はっとしてオクタヴィアは振り返る。その視線にひるんだのか、エドワードは口を閉ざした。
見覚えがあったのは顔だけではない。服装もだ。マントも上下もすべて白で統一された礼装。唯一色があるのは、カフスと軍紐の金。帯剣した剣の柄でさえ白銀に輝く、異端審問官の制服である。胸につけてある星型のバッジは、階級章だ。数はひとつ、異端審問官になりたて――すなわち下っ端である。
オクタヴィアの視線から逃げるように目を背け、エドワードが答えた。
「異端審問官は、王子として大事な務めのひとつだ」
「それはそれは。頑張ってください」
それだけ言い捨てて、レイヴンはエドワードを一瞥もせず、階段を昇りきる。そして廊下に入ったところでささやいた。
「ごめん」
「え?」
「調査不足だ。あんなものがまざってるとは思わなかった」
顔は笑顔だが、いつもより口調がひややかだ。ひょっとして怒っているのだろうか。
「女王に謁見を拒まれていたのは知ってたけど、異端審問官になっていたとは。相当怒りを買ったんだろうね。確かに王子が異端審問官になるのは珍しくないが、仮にも王族が、星ひとつのあんな下っ端の地位にはつかない。最低でも、異端審問長くらいにはなるはずなのに……チュリル伯爵のところへは、前の調査の確認の使いっ走りできたのかな。それとも単独行動か」
レイヴンはあの一瞬の邂逅でエドワードの階級まで見抜いたうえ、ここにいた理由まで仮説を立てている。オクタヴィアは目をぱちぱちさせるしかないというのに。
「また顔を合わせることになるかもしれない。どうする?」
「ど、どうするって……何が?」
「気分が悪いだろう」
「いや全然。ちょっと何を言っているか、よくわからなかったし」
レイヴンが足を止めた。腰を抱かれたままのオクタヴィアの足も止まる。
「……全然?」
「ぜんぜん。それに、エドワード様には悪いことをした。嫌われるのは道理だ」
「……君が何か、彼に非礼を?」
レイヴンが眉をひそめている。迷うオクタヴィアの頭上で、厳かにハットが言った。
『教えてやれ、オクタヴィア。全知全能たる俺様が許す』
ハットがそう言うならいいのだろう。一息置いて、オクタヴィアは話し出す。
「まだ出会ったばかりの頃に、剣術には自信があるからとおっしゃられて……わ、わたしもそこそこに武術には覚えがあったものだから、手合わせをしたんだ」
ちゃんと手加減はするつもりだったと、心の中でオクタヴィアは付け足す。ハットにも養父にも散々、「お前はちょっと母親に鍛えられすぎて特殊」と警告は受けていたので、それなりに自覚はあった。
だが意外にもエドワードは強くて、ちょっと本気を出してしまったのだ。
「……その、運悪く、私の剣が彼に当たってしまって」
「――負けたから逆恨み? 君は何も悪くないじゃないか」
「い、いや。それだけじゃ……なくて……」
『言え、オクタヴィア。こいつは気に入らんが、先ほどの対応に対する褒美はやらねばならん』
褒美になるのだろうか、こんな話が。迷いつつ、オクタヴィアは先に念押しする。
「……黙っていてくれるか。エドワード様の名誉のために」
「もちろんだよ。約束する」
まっすぐ目を見て約束してくれたレイヴンを信じて、オクタヴィアは口を開く。
「……切れてしまったんだ……」
「怪我をさせたと?」
「いや、その。怪我はなかったんだが……ズ、ズボンのベルトと、生地を、ちょっとすぱんと切ってしまって……」
剣を構えたまま、エドワードのズボンは足元までずり落ちてしまった。
なぜか顔をそむけ、片手で口をふさいだレイヴンが、何やらこらえながら尋ねる。
「つ、つまり……下履き一枚の姿を、君にさらすことになったと……?」
「わ、私しかいなかったから、まだよかったんだが……」
下履きの一部もちぎれて、あやうく見える所だった。急所を慌てて両手でおさえ、剣も放り出し背を向けて駆け出したあの姿に、今も申し訳なく思う。
「本当に、気の毒なことをしてしまった。だからエドワード様が私に怒っているのは当然なん……レイヴン?」
いつの間にか廊下の壁に向けてレイヴンはしゃがみこんでいた。いつも悠然としている彼にしては行儀が悪い。
「どうした。気分でも悪……そ、そうだよな。不愉快な話を聞かせてしまった」
「い……いや……わ、私は今、人生で初めて、心の底から笑っている気が……ぶっ」
『こいつの人生、笑いの沸点低すぎだろう』
ハットは呆れているが、レイヴンはぶるぶる震えている。その背後に立ったオクタヴィアが、背中をなでてやろうかと手を伸ばしかけたときだった。
廊下の奥から、何やら重々しげに正午の鐘が鳴る。はっとオクタヴィアは思い出した。
「そういえば時間」
「さ、先に行ってオクタヴィア。紹介状を持ってれば大丈夫だから、突き当たりを曲がって、一番奥の部屋で説明を……わ、私はあとから……っだ、だめだまた笑いが」
「わ、わかった」
レイヴンは心配だが、とにもかくにも仕事だとオクタヴィアは頷く。時計の鐘はまだ鳴っている。廊下の突き当たりを曲がったところで、そっと頭上に話しかけてみた。
「大丈夫かな、レイヴンは」
『大丈夫だ。あいつならさっきの話を必ずいいように使うだろう。全知全能の俺にはわかる』
「……何の話だ?」
『気にするな、それよりほらあそこだ。気を引き締めろ』
頷いて、オクタヴィアは一番奥に見える両開きの扉を十二回目の鐘と一緒に開いた。