探偵令嬢と怪盗の会敵③
扉が閉ざされた瞬間、拘束がほどけた。だが緊張をはらんだ声でハットが警告する。
『オクタヴィア、わかっているな』
「ああ」
立ちあがったオクタヴィアは目の前の光景に目を細める。
その部屋は、もう画廊ではなかった。
薄暗く、妙なにおいのする部屋――アトリエだろう。
壁のあちこちに色の染みが飛び散っている。床には木炭のかすや溶き油の落ちた跡があり、使い込まれたイーゼルが倒れていた。机の上にはペインティングナイフに、油壺といった画材道具一式が並んでいた。立てかけられたキャンバスは、どれもゆがんで見えない。でもどこかで見たような絵が描き込まれている。
「こ、これは夢だ。夢に違いない……げ、現実の、わけがない」
生きた人間の声が上のほうから響いた。オクタヴィアは顔をあげる。
土気色の顔をした、チュリル伯爵がいた。部屋の最奥、壁かと思うほど巨大なキャンバスに、十字の形になって貼り付けられている。
まるで磔だ。
「だ、だってお前は、もう死んだんじゃ……っ――あ、あアァァァ!!」
ぶるぶると震えていた伯爵を呑みこむように、その右腕がキャンバスに沈んだ。半狂乱になって伯爵が叫ぶ。
「こ、これは夢だ。これは夢っ――ぎゃああぁァァァ!」
次に背後のキャンバスからフォークが突き出て、左の手のひらに突き刺さる。そこまでが意識を保つ限界だったのか、伯爵が気絶した。だがすぐに今度はナイフが膝裏から突き出してきて、目を覚ます。気絶させてやる気はないらしい。
「たすけ、助けてくれ、助けてくれぇ!」
絶叫する伯爵の背後のキャンバスには食前酒やパン、フォークやナイフ、燭台、エプロンをつけた使用人――伯爵邸から消えたものが描かれている。
これが本物の『天使の晩餐』だ。
そしてその巨大なキャンバスに向かい、未だ描き続けている男がひとりいた。熱心に、ひたすら何度も塗りたくるのは赤。炎を、描いている。伯爵を火あぶりにする炎だ。
その背中に、オクタヴィアは問いかける。
「お前が『天使の晩餐』を描いたんだな」
せっせと筆を動かしていた男が手を止めて、振り返る。
シャツの袖をめくりあげ、肩まであるざんばらな髪を雑にしばった若い男だった。手にはパレットと、画筆。いかにも画家のような身なりをしている。
「今すぐ描くのをやめろ。こちらに呑みこまれて、戻れなくなる。本当に死ぬぞ」
ぎらぎらと目を光らせている青年は、まだ人の形をしていた。こちらの住人にはなっていない。ここで殺してやれば、きっとあちらの世界で目をさます。伯爵も同じだ。
だがその前に、この元凶を――悪魔の遺産を、見つけねばならない。
「助けてやるから、教えてくれ。何を使ってこの絵を描いたんだ」
「邪魔を、すルなァアァァァ!」
叫びと一緒に、画家が画筆を振り払った。そこから飛び散った赤が、炎になって襲いかかってくる――と思ったら、まるで箱が開くように部屋が開いた。
アトリエの外に突然現れたのは、瓦礫だらけの通路と、色落ちた絵のように朽ちた街並み――滅びた王都の姿だ。そしていつものじっとりと湿った空気と、腐臭に似た滅びのにおい。
アトリエを囲むように燃え広がった炎に弾き飛ばされたオクタヴィアは、ぼろぼろの石畳に着地して叫ぶ。
「ハット! 長剣!」
『Yes, Your Majesty!』
光り輝いたハットが、オクタヴィアの手に剣を呼び出す。その柄を握るなり、横に振り払って襲いかかってきた死人の首を斬り捨てた。
『どうするのだオクタヴィア、どれが遺産かわかったのか!?』
「わからない。でもきっと、あのアトリエの中にあるものだ! 画材道具!」
『それでは絞りきれない! 再現された物がありすぎる!』
「それでも片っ端からやるしかないだろう!」
うなり声をあげて次々襲いかかってくる死人の頭を蹴飛ばし、半分壊れた壁の上に飛び乗って駆け出す。
屋根も壁もなくなったアトリエは、炎に包まれていた。
きちんと熱いのだなと妙なところで感動しながら、炎の壁を破るために剣を突き出す。
だが剣先があっという間に溶け出した。
『いかん、オクタヴィア! あの画家、悪魔の遺産をきちんと使えている――相性がいいやつだ。この炎の威力は本物だぞ!』
「ということは……遺産は筆か!? ハット!」
それでも正統な使用者であるオクタヴィアのほうが力業では勝つ。魔力を乗せて振り払った剣は消えてしまったが、その一撃が起こした風に炎の壁が一筋だけ開いた。
その先にいた画家の手に持っている筆に向かってハットが叫ぶ。
『Searching......Error!』
「はずれか!」
舌打ちした瞬間に、開いた炎の壁から数え切れない量のフォークとナイフが、一斉に飛んできた。間一髪それをよけた背後から、死人の影がかかる。
(しまった、剣が消えて……!)
オクタヴィアの頭上を通りこした剣が、死人を地面に縫い付けた。
一瞬見惚れるほど、美しい剣だった。まっすぐ伸びた刃の部分は鏡のように、オクタヴィアの惚けた顔を映し出している。と思ったら、ひとりでに動き、鮮やかな一閃で周囲にいた死人たちを斬り捨ててしまった。
『……この剣……おい、オクタヴィア! その剣をつかまえろ!』
「あ、ああ。わかっ――」
柄をとろうとしたら、ひょいっと剣が逃げた。それどころか、ふわっと浮いて一直線に飛んでいく。ハットが焦れたように叫んだ。
『おい待て、お前っ――それは聖剣ジャンヌだろう!?』
「炎を描くのは指でもできるよ」
剣が飛んでいく先に人影があった。心地よいその声に、オクタヴィアは剣を握り直して立ちあがる。
半壊した屋敷の上に、若い男が立っていた。先ほどオクタヴィアを助けた剣を取り、こちらを見おろす。
強い風に翻る黒いマントと、つばの広い帽子。頬骨まである黒いマスクで顔を隠しているが、顎の輪郭や薄い唇の形はとても整っている。何より印象的なのは、瞳だった。
全身鴉のように黒い中で、唯一輝く、宝石のような、血のような赤の瞳。
「怪盗クロウ……か?」
先ほど現実で見た影とそっくり同じ形だ。踏み出したオクタヴィアに、その男は目を細め、胸に手をあてマントを広げ、優雅に一礼した。
「初めまして、探偵さん」
「――お前、どうやってここにきた! お前も巻きこまれたのか」
「空間に描けたのだから、キャンバスもはずれ」
オクタヴィアの問いに答える気はないらしい。なぞなぞ遊びのような口調が続く。
「なら彼が絵を、炎を描くために使ったものはひとつだよ、探偵さん」
「炎を、描く……」
「パレットには何があったかな。あるいは、彼の足元には?」
オクタヴィアは息を呑む。薄い唇で、男は――怪盗クロウは笑った。
「道は作ってあげよう」
クロウが屋根の上から剣を振り下ろした。そのすさまじい風圧で、死人も、アトリエを囲んでいた炎も吹き飛ぶ。
一瞬迷ったが、気持ちを切り替えた。あちらのほうが先だ。
「いくぞハット! もう一度、剣でいく」
『Yes, Your Majesty!』
高らかにハットが答えた。