秘密の逢瀬。お嬢さんと手代のお話。
濃ければ濃い程良いらしい。それは床の泥。そこで蓮の根は静かに育てられる。泥の中は、とろりと暖かく優しい。やがて水面に葉を浮かべ、立ち葉を昇らせると、天高く花を開かせる。
「美味しい……、初めてです。香りのあるお茶は……」
店の主が運んできた、香り高い蓮茶を飲みながら男は、ぴしゃりと閉じられた障子を、猫の目の様にほそうく開け、池の花を眺めている女に話す。
「終わりだけど綺麗。明け方に来れば、咲き始めも見れるのに……」
「昼の花も綺麗でした。その……誰と来られたのですか」
明けに来れば、その言葉に、微かな戸惑いをにじませる男。
「気になる?でも知ってると思う」
女は笑う。音なく障子を閉める。駆け引きが始まった。
「知らない、そして気になりません」
「嘘、そうだとしたら間抜けだわ」
「なぜそう思うのですか」
「うちの新しい手代は、馬鹿なのかなって」
「どうしてそうなるので?」
「小町と評判のお店のお嬢さんの事を知らないなんて、明け方の花はそりゃ綺麗よ、慎ましやかで、みんな開いてない」
「この前、よねを連れて歩いていたお嬢さんの様にですか、おぼこっぷりに笑ったのですか、あーあ、蓮の花もよねとですね、はいはい」
言われっぱなしが癪に触った男は言い返す。かたん、空いた湯呑を、少しばかり塗りの剥げた盆の上に戻した。
「そーよ、よねと来たの。ふん、そっちこそ堅物気取りで、挨拶周りに番頭と歩いてた」
せせら笑う女。島田に結い上げ、流行りのびらびら簪、五分玉の紅珊瑚。紅を幾度も塗り重ね玉虫色に光る唇。白粉は薄く叩く程度の江戸の大店の娘。
縞のお仕着せを着込んでいる男、厳しい小僧の修行を終え、一度郷里に宿下りをし、この度目出度くお店に呼び戻された。手代として立場を得たのだ。
「……、少し見ない内に綺麗になられた」
「当たり前のとんとんちき、誰の為に……、綺麗になったと思ってるの」
「婚礼の話があると……聞いております。だからその……、何故急に、今日こんな所に……」
男の前に膝つき合わせ、きちんと座る女。射るように視線を当てる。受け止められず俯き、ボソボソと話す男。ちらりと部屋に敷かれている床を見る。
障子を閉められた部屋の中、ほのぼのと白い光。
どぎまぎしている男と、どきどきしている女。
「お前のためよ、小僧の頃の約束、忘れてやないでしょうね」
「……、何分、子供の頃の話でして……、お武家さんからお話があるお嬢さんに……、いけませんや」
「はあ?私は店のひとり娘、跡継ぎよ!どうして嫁に出なきゃならないのよ!帰ってから忙しいのは分かるけど、妙に避けてばかりでさ、それでよく手代になったわね!」
おきゃんな彼女は、つけつけ話す。じりっと膝をにじり前にでる。びんつけあぶらの香りに、着物に忍ばせている匂袋が混じり合い、男は間近でそれを感じ取ると、くらくらとしてきた。
「あー、うー。その、少しばかり離れて……」
「仁吉は!出来る手代ですもの!お父様もそう言って目をかけているの!何れは嫁を娶らして、暖簾分けしようとか何とか!そんなのだめに決まってるでしょう!」
「は、はひ!なぜに駄目で?」
グイグイ迫る女。あれこれと立場を考え、へっぴり腰な男。
「小さい頃しゃぼん売りが来てさ、麦藁を吹き、しゃぼんを幾つも飛ばしてくれた、覚えてる?私はてんで、作れなかったけどさ」
「そ、それはお嬢さんが、勢い良く吹きすぎるんで。割れちまうんでさ」
「その時、大好きなしゃぼんを吹くのが上手いお前に、お嫁さんになってやると、私は言った」
「はひ?」
「お前は、嬉しそうに『はい』と言った」
にっこりと微笑む女に、何故か恐怖を感じる男。蓮の花を見に行くから、ついて来なさい!と言われ来てみれば……、暑いから茶でもと、女が先に入った店がまさかの、男は頭を抱えている。
「閻魔様に誓ってげんまんした」
うっすらと爪紅を塗った小指を、つっと目の前に突き立てた女。おおお!近い、近いちかい……男はたじろぐ、幼い頃からの付き合いで知っている。一度言い出したら、決して引かないその気性。
「そ!そうでしたかね?何分そのつまり、子供の頃の話で……」
後ろ手をつき身を精一杯、のけぞらせる男。やれ仕方ないと苦笑するであろう旦那様と番頭、嫉妬で鬼となりそうな同僚達の顔が脳裏いっぱいに広がる。
「言った!仁吉!」
「はひ!」
……、柔らかい重さが、一度に被さって来た。敢え無く彼は籠絡されてしまった……。せめてすぐ側の布団の上で……と男は思っていた。
部屋に置かれている大振りな花瓶には、池の蓮の花が葉と共に、涼しげに活けられている。花の香りと女の香りが男を包んで離さない。
「お!お嬢さん!何処で……その……どうやってご存知で」
「枕絵を手に入れて、お前が帰るまでに、読んで読んでひたすら眺めて……覚えて調べといた!」
試してみるのみ!真っ赤になりながら女は男に迫る。
「私の事が嫌いなら引く」
捨て身の覚悟の女は、一度身を離し、帯を解きつつ愛する男にそう言い切る。
「あの、その……、き、嫌いでは、ずうっと……その……おしたいしておりました!」
女にここまで言われたら……男は覚悟を決めて、一息に言い切った。
明るくハキハキとし可愛らしい女を、小僧の頃から心の奥底ではずっと好いていた男。もっともっと、店で下積みをし、手代として自分に自信が持てたら……、その時、お嬢さんがまだ独り身だったら……、その時は。
男の夢は淡雪の様に消え去った……。
「ほんと?本当に?仁吉!好き!大好き」
大輪の花開く様な好いた女の笑顔。頬はほんのりと桃色。それは薄く紅を叩いているだけではない。
……、閨は男と女の戦場と、おっとうが言っていたが……、そうだった。
濃ければ濃い程良いらしい。それは床の泥。そこで蓮の根は静かに育てられる。泥の中は、とろりと暖かく優しい。やがて水面に葉を浮かべ、立ち葉を昇らせると、天高く花を開かせる。
不忍池の池のそばには、小綺麗な茶屋が軒を連ねている。二階に座敷が、店の奥に小部屋がある。少しばかりお高いそこ。
それは、秘密の逢瀬に使われる事が多かったからと言う。
ふたあつ、終わり。