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月面飛行(2019n)

作者: 長矢 定

 一人で旅をする人がいます。国内、国外を問わず……。楽しいのでしょうね。でも、何を目的にしているのでしょうか? 何を得たいのでしょうか……

 一人で世界を旅するなんて、根性なしの私には真似できません。でも、そういう人の中から月を旅する人が出てくるのかもしれませんね。もっとも空気や水、食料など高価になりますから、バックパッカーのような安価な月旅行は望めないでしょう。お金持ちの道楽かな。そういえば、月を周回し地球へ戻るプランを買い取った日本人がいますね。うらやましい、というか、そこまでして月へ行こうとする気持ちは理解できないものがあります。一般人の月旅行は遠からず現実となる、のでしょうか……

 そんなことを考えながら書いたお話です。

 海外旅行が当たり前となったように、いつか、月旅行も珍しくない時代になるのでしょうね。


●登場人物

◆水沢 理彩(31)月面旅行者

◇矢野 美咲(31)理彩の友人

□ムジャス(40代)月往還船貨物責任者

□トスカー(40代)月往還船運航・設備管理担当

□バロフス夫妻 月面ツアー参加者

□ブランカ    〃

□シュジェン   〃

□ヴィガニー(30代)月面施設運用スタッフ


    プロローグ


 緊張が頂点に達したその時、轟音と激しい振動に包まれた。

 身体が、天を向いた座席の背もたれに押しつけられる。呻き声も押し潰された。歪んだ顔で、その拷問に耐える。

 リサは、なんとか呼吸だけを続けた。長い。想像よりもロケットの上昇は長く続く。いつまで続くの……

 ポンと身体がシートから飛び出るような衝撃。

 何?

 身体を締め付けていた圧力がスーッと消える。楽になった。

 リサの目から涙が出ている。苦痛に耐えた涙? 地球の重力から解放された喜び?

 自然と笑顔になり、周囲に座る四人の顔を順に見た。皆、無事であることを喜び、感動している。

 そう。小さなカプセルに押し込められた五人は、宇宙に出たのだ。




    一


「なぜ、月に行くの?」

 街角のカフェで友人に聞かれ、水沢理彩は顔を曇らせた。覚悟はしていたが、ソレを話すのは骨の折れる作業になる。ただ、友人の問い掛けが純粋な疑問であり、思い止まらせようなどという思惑がないことが救いだった。

 リサはカプチーノを飲みながら、何から話そうか思案する。すると、対面に座った矢野美咲が問い掛けを重ねた。

「旅費も高いでしょ? どうしたの?」

 リサは小さな溜め息をついてから、それに答える。

「今までに貯めたお金を頭金にして申し込んだわ。残りは帰ってからのローンよ」

「ローン? 長いの?」

「そうね、長いわ。それに今まで以上に働かないとダメね」

 とリサは笑って見せた。

「でも、仕事を辞めるのでしょ。どうするのよ」

「帰ってから考えるわ……」

 リサはそう答える。笑うしかなかった。

「呆れた。そこまでして行きたいの?」

「月旅行は倍率が高いのよ。お金があっても行けるとは限らないわ。この機会が貴重なの。これを逃したら一生行けないかもしれない……」

「かもしれないけど、人生を懸けることはないと思うわ」

「あら、そうかしら。この地球を抜け出して月へ行けるのよ。人生を懸けてもおかしくはないでしょ」

 友人の美咲は顔を顰めた。肩を落とし、長い息を吐く。

「理解できないわ」

 そう言ってから美咲は視線を外す。

「結婚は諦めたの?」とサラリと尋ねる。

「諦めたわけじゃないわ」リサはそう言い、少し間を空けてから答えた。

「だって、新しい出会いがあるかもしれないでしょ」

 二人は同い年、三〇を過ぎた独身女性だった。ただ、美咲は理想を高く持ち積極的に相手を探していたが、リサは自然な出会いを待っているタイプと異なっていた。そのため、普段から行動を共にすることはない。たまに、こうしてお茶を飲みながら近況を話し、将来について語り合う関係だった。

 美咲は視線を戻す。男性に対して控えめなリサの態度に時折苛立つこともあったが、一つ明らかなのは、どちらであっても結婚に結びつけるのは難しいということだ。話を戻した。

「そんなに月に行きたい理由は何?」

 リサは視線を返し、小さく頷く。

「空を飛びたいのよ」

「空……。鳥みたいに?」

「そう、鳥のように自由に空を飛んでみたい……。子どものころからの夢よ」

「前にもそんなこと言ってたわね。それでパラグライダーを始めたのでしょ。用具を一式揃え、ライセンスも取得した。違ったかしら?」

「そうよ」とリサが頷く。

「パラグライダーはどうしたの? もうやめたの?」

「やめたわけじゃないけど、アレ、大変なのよ。道具は仕舞う場所に困り普段は邪魔だし、狭い部屋の中では広げることもできないわ。休みの日に飛びに行こうと思っても、その日に限って雨が降る、風が強い、寒すぎる……。上手くいかないのよ」

 その話に美咲はふーんとだけ返した。厄介なのはやらなくても想像できる。

「でもね、パラグライダーの仲間内でも話題になったわ。月に行けば鳥のように優雅に飛び回れる……。知ってるでしょ?」

「ニュースか何かで見たことがあるわ。月にある大きなドームの中で人が飛び回っている、アレのことでしょ?」

「ソレよ」とリサが頷く。

「月の重力は地球の六分の一しかないのよ。身軽になるわ。そこで脇の下や足の間に膜を張った専用のフライトスーツを着て、大きなドームの中を飛び回るの」

「そういう野生動物がいたわね……。何と言ったかしら?」

「ムササビ、でしょ」

「そう、ムササビ。高い木の上から膜を広げて飛び降りたりする」

「そうね。でも月ではちょっと違うのよ。大きなドームの中で空気が淀んじゃいけないから強制的に対流させてるの。空調が大型で吹き出しが強いのよ。特定の場所に上昇気流が常にあって、それに乗っかれば月の低重力と相まって天井までスッと飛び上がるわ。コツさえ掴めば、ずっと飛んでいられるの。凄いでしょ」

 それを聞き、美咲は口を開いたが言葉が出てこなかった。どう返せばよいのかわからない。その顔を見て、リサは構うこと無く話しを続けた。

「ドームを造った本来の目的は、月で仕事をする人たちに憩いの場を提供することだったの。月の施設は閉ざされた狭い部屋ばかりだったから、月へ行った誰もが閉所恐怖気味になるのよ。だから広くガランとした場所を造ることになったの。ドームの天井には青空が投影され、白い雲が形を変えながら流れていくのよ。そこに人工芝を敷いて、ゴロリと横になるの。天気のよい日に公園で日向ぼっこをする感覚ね」

 リサはそこで話を区切ったが、美咲の反応はなかった。

「でもね、月にいた人たちの評判はよくなかったのよ。地球の暮らしを思い出すような公園施設より、月ならではの体験ができる楽しい場所にしたい……。そこで出てきたのが自由に飛び回ることができる飛行施設なの。地球からわざわざ運んだ模造の植物なんかも、邪魔だからと取り払ったそうよ」

「そうなの、知らなかったわ」と美咲が応える。

「地球を回る宇宙ステーションでも、似たような体験ができるでしょ。そこなら、お金も幾らか安いと思うけど……」

「ダメよ。無重力だとフアフア浮く感じだって。月のドームなら、スーッと飛んでるって感じるそうよ。鳥のように、自由気ままに飛び回る……。どう、やってみたいでしょ」

「そうね、気軽にできるのならやってみたいけど、月まで行くのは大変だわ」

「確かに大変ね」

「それをわかっていて申し込んだのでしょ」

 そう言われ、リサは力強く頷いた。

「当選しても辞退する人が多いそうよ。月旅行が現実的になって無理だと気付く、というか、最初から行く気はなかったのかもしれないわね。興味本位で申し込んだのよ。でも私は違う。当たったら必ず行こうと決めていたの」

「きっと、それくらいの覚悟がないと月には行けないのでしょうね」

 と美咲が言った。私にはできないこと、と思う。

「仕事を辞めないといけないの?」

「事前の地上訓練があるし、帰ってからも身体が地球環境に馴染むまで時間が掛かるの。そんな長期の休みを取るのは難しいでしょ。辞めたほうが気兼ねなく行ってこれるわ」

 それも覚悟の一つかと美咲は頷く。

「どれくらい月にいるの?」

「月面滞在は一週間よ。それに片道四日掛かるし、船の乗り継ぎに時間も掛かるの。宇宙で過ごすのは半月を超えるでしょうね」

「半月……。半月宇宙にいると帰ってきて身体の調子が悪くなるの?」

 リサが頷き、答える。

「人間の身体って、楽な場所にいると直ぐに怠けるのよ。無重力では、常に掛かっている身体への負担がないでしょ。体重がゼロだから骨や筋肉は身体を支える必要がないし、心臓も血液を頭の天辺まで送るのに重力に逆らう必要がないの。そうなると直ぐに怠けてしまう。地球に帰っても、その怠け癖が抜けないみたいね。リハビリをしないと社会復帰できないのよ」

「だらしないのね。何となくわかるわ……。でも、体重ゼロというのは魅力的ね。悩みが一つ減るでしょ」と美咲は笑う。

「宇宙に出ると顔がむくむそうよ。血液の勢いが強すぎるのね。パンパンになるからムーンフェイスと呼ばれているわ」

「ムーンフェイス?」

「満月みたいに真ん丸になるのよ。心臓が怠けることを覚えると、むくみが取れるの」

「ふ~ん……」と美咲は頷く。

「仕事を辞めて月に行く……。思い切ったことだわ」

「今しかできないことだと思うの。この機会を逃すと一生後悔するような気がするのよ」

 美咲はその気持ちを聞き、何度か頷く。

「ともかく、気を付けて行ってきて。帰ったら話を聞かせてね」

 そう言われ、リサは笑みを浮かべて頷いた。




    二


 展望窓に漂い、水沢理彩は小さくなった青い星を眺める。月往還船は、往路の半分を過ぎたところだった。

 リサを含む五人の月面ツアー参加者は、ロケットの先端に取り付けられた小型のカプセル船に押し込められて打ち上げられた。高いお金を支払うのに厄介な生ものの荷物扱いをされる。仕方ないと諦めるしかない。

 地球を離れ宇宙に出て無重力の解放感に浸ったが、窮屈なカプセルの中で退屈な一日を過ごすことになる。翌日になって、高度四〇〇キロメートルを周回するターミナルステーションとランデブー、ドッキングした。そこで月往還船の出発まで待機することになるが、宇宙酔いの症状が酷く、はしゃぐことができない。酔い止めの薬は効き目がないように感じたが、地上の医師はその薬を飲み続けるようにと指示をする。他に頼るものがないので飲み続けてきたが、月往還船に乗りここまで来て、ようやく気分が楽になってきた。

「寝袋から脱出できたようですね」

 この月往還船の貨物責任者を努めるムジャスが現れ、声を掛けた。

「ええ、なんとか」

「それは、よかった」と笑みを見せる。

 体調が優れなかったリサは壁の片隅に固定された寝袋の中で、ずっと眠っていた。安易に動くとフワフワと浮いている内臓の全部が口から出てきそうな気がしていたのだ。貴重な時間を無駄にしているように思うが、これも仕方ないと諦めた。帰りは幾らか楽しめるだろうと割り切る。それに宇宙への私物の持ち込みは厳しく制限されておりカメラの類いも持ってくることはできないが、施設の各所に設置してある監視カメラの映像から旅行者が写っている部分を切り取り、地球帰還後にまとめて渡されることになっていた。大量となる映像データは旅の想い出として重宝するが、できれば宇宙酔いでゲッソリした顔などは残したくない、という思いもあった。

「私は、長いほうですか」と尋ねる。

「そんなことはないですよ。長い人は、月に着くまでグッタリしていますから」

 地球の六分の一であっても重力がある所のほうが安らぐのだろう。それは、今のリサにはよくわかる。

 月往還船は、細長く伸びた骨組みだけの船体の一端に推進、電力システムなどの機関部を取り付け、反対側に小振りの円筒形居住ユニットを三基束ねて取り付けただけの、お世辞にも格好いいとはいえない外観をしている。見栄えより実益を優先した造りだ。そしてこの船にも、船長や操船を担当するクルーはいない。その業務は賢いコンピューターに任せている。乗員は船の運航と設備管理を担当する一名と、貨物コンテナの積み降ろし作業を担う三名。そこに五人のツアー客が乗り込み、ただでさえ手狭な居住区は混み合っていた。ここで到着までの四日間を過ごすことになる。

「貨物コンテナのチェックですか」

 その問い掛けにムジャスはニヤリと笑った。

「いえ、違いますよ」

 船尾側に向いた窓からは骨組みの船体に取り付けた貨物コンテナが幾つか見える。月への補給物資だ。窓の横には大型ロボットアームの操作卓がある。ここは彼らの仕事場だった。

「私たちの仕事で一番重要なのは、航行中の暇な時間をどう過ごすのか、ということです。この退屈さを楽しめるようにならないと長続きはしませんからね。狭い船内をブラブラして地球や月の姿を眺めることは、私の日課なんですよ」

 リサはなるほどと頷く。

 確かに四人の乗員は暇そうにしていた。それもあって乗船した旅行者に対しても率先して相手をしてくれる。今回のツアー参加者は男性三人、女性二人の五人。一組の夫婦がいたが、三一歳のリサを除き四人は五〇を過ぎていた。従って乗員はリサのことを特別に気遣ってくれる。独身の乗員もいたが、月往還船に乗務する彼とは付き合うのも大変だろうと、勝手に気後れしていた。

「他の参加者から聞きましたよ。月面飛行を楽しみにしているそうですね」

「ええ、月でしか体験できないことを楽しみたいと思っています」

「月面ならではの娯楽スポーツですからね。他の人は尻込みしているようですが、私としては、あなたのような方を応援したいです」

 と笑みを見せた。リサも笑顔を返す。

 今回の参加者でリサ以外の四人は、裕福で時間にも余裕がある人たちだった。一般に開放されたとはいえ、月旅行は極一部の人しか行くことができない。物珍しい場所へ早めに行って周囲に自慢したい……。きっと、そう考えているのだろう。何かと手間が掛かり高所恐怖や危険もあり得る月面飛行については、初心者用の体験で済まそうとしていた。

「私たち船乗りも月面に降りる時があるんですよ。六分の一であっても重力環境でトレーニングをすることが義務付けられているんです」

「そうでしたか。それじゃ月面飛行の経験もあるんですか」

 その問いにムジャスが頷く。

「初期の頃から飛んでいますよ」

 リサは大げさに驚いてみせた。

「凄いですね。ベテランですね」

 ムジャスは声を出して笑った。

「ベテランではないですね。そんなにしょっちゅう飛んでいるわけじゃありませんから」

「でも皆さんのお蔭で、観光客でも気軽に体験できるようになったと聞いています。お礼を言わないといけないですね。ありがとうございます」

「そんなお礼なんて。私はこれといった貢献がありませんから。でも確かに、最初の頃は着地に失敗して足や手の骨を折る事故もありましたからね。今では色々と対策が施され、安全性も高まりました」

「ええ、地球での教習の時にそうした話も聞きました。ねんざには気を付けるようにと言われ、正しい転び方を習いました」

「そうですね。フワッと舞い降りてピタリと立つのが格好いいと思われがちですが、無理するのではなく素直に転がるのが無難でしょうね。特に私のように無重力環境で過ごしている者は、骨や筋肉が衰えていますから注意しないといけません」

 リサは何度か頷く。

「そうですね。私も気を付けます」

「まあ、地球から来た人は大丈夫でしょう。あとは、度胸ですね。高さに怖じ気づいたりすると身体が強張り、バランスを崩したりします。落下の恐怖が頭を過ぎったりしますからね。開き直って、楽しんで飛ぶことですね」

「実は、それが一番心配です」

「調子に乗ったりせず、最初は低い所で滑空してコツを掴むことですね。それが早く上達する近道だと思いますよ」

「わかりました。そうします」

「慣れてきたら、少しずつ高い場所から飛んでみる……」

「でも上昇気流に乗ると、一気にドームの天井付近まで行くのでしょ?」

「ちょっとしたコツがあります。吹き出しが強いので気流の中心を目掛けて突っ込むようにしないと逆に風に押し戻されたり、跳ね返されたりします。何度かトライしてコツを掴まないと天井まで飛び上がることはできませんよ」

「そうですか。なんとか、そのレベルまで到達したいですね」

「大丈夫でしょう。コツコツと練習すればドームの中を所狭しと飛び回ることができますよ。それほど難しいものではありません。上手く飛び回れるようになったらトライアル競技にも挑戦してみてください」

「私にできるかな……」

 それは、幾つかの指定ポイントを順に通過してタイムを計測する競技だった。

「難易度によってクラス分けしてありますから、初級クラスからやってみてください。身体の取り回し方の練習になりますし、タイムが速くなれば上達具合が実感できます」

「そうですね。やってみます」

 そう応え、リサは微笑んだ。

 ムジャスのような月面飛行のベテランと話せたことは大きな収穫だと思う。正直、月が近付くにつれ、不安な気持ちが膨らんでいた。頭の中で想い描いたように上手く飛び回ることができるのか? 高さに怖じ気づいたりしないだろうか? ケガをすることになるのでは……

 あれこれと心配事に悩まされていた。ムジャスと話して少し気が楽になる。ここまで来たのだから思う存分やってみようと思う。




    三


 往還船は四日をかけ、月に到着した。周回軌道に入る。

 高い旅費を支払う月面ツアー参加者だが、快適なサービスを得られる優雅な旅など望むことなどできなかった。扱いは荷物並みである。別に旅行者を毛嫌らっているわけではなく、月へ行く人の全てが同じ扱いだった。

 荷下ろし作業に取り掛かる貨物担当の三人は普段と同じジャンプスーツ姿だ。ロボットアームを扱うムジャスと、密閉気密された作業ポッドに乗り込む二人に気密服は不要だ。だが月へ降りる場合は気密服を着用することになる。五人の観光客は準備を始めた。

 船の運航・設備管理担当であるトスカーの指示により、五人を二班に分けた。夫婦で参加したバロフス夫妻と、残りの男性二人にリサが加わった班ごとに月面降下カプセルへ乗り移る。リサの班が先に乗り込むことになった。

 トスカーの最終チェックを受け、気密服を着用した三人が船尾へと延びるアクセスチューブを進む。気密服だとすれ違うことができない狭さだ。アクセスチューブには幾つかのドッキングポートが配置されている。貨物担当の二人が乗る作業ポッドもここに繋げられているが、仕事が始まっているので今は出払っている。アクセスチューブの末端は、気密服姿が三人入ると一杯になるほどの狭いエアロック室になっていた。三人は一塊になり中へと入る。内壁扉が閉じ、空気が抜かれた。

 ここは、乗船するときに通ってきた所だ。ただそのときは、地球を周回するターミナルステーションから小型のランチボートで往還船に接近し、ムジャスが操作するロボットアームに掴まれ、エアロック室のドッキングポートに運ばれて繋がった。従って気密服を着用する必要はなく、支給された身軽なジャンプスーツで乗船できた。しかし今回はランチボートはいない。気密服で真空の宇宙空間へ出ることになる。

 空気が無くなるにつれ船内に響く雑音が遠のいていく。代わって胸の鼓動が高鳴る。

 トスカーが無線を使い三人それぞれに声を掛け、確認してからエアロック室の外壁扉を開けた。漆黒の宇宙が広がる。

 深呼吸……

 命綱を使い、船外へ出た。

 リサは二人の男性に守られるように間に位置し、移動を始める。地球での訓練を受けたが、俄仕込みの宇宙飛行士ばかりでエアロックの外へほっぽり出すとは、少々無謀だと思う。しかし、これをしなければ月面に行くことができない。

 まずは、骨組みの船体を回り込み反対側へ向かう。手摺りを伝うようにして進む。力は必要ないが身体がフワフワと不安定に揺れ、思うように進まない。宇宙に出て、無重力での身の熟しには慣れたと思っていたが、気密服の動きにくさと宇宙空間にいるという緊張感からか、ちょっとした不注意で身体が船体から離れた。ヒヤリとしたが背後のシュジェンが咄嗟に身体を掴み、引き戻された。

 心臓がバクバク躍る。

 リサは心を静めた。命綱は船に繋がっているし、万一を考え作業ポッドの一台が頭上で待機している。不恰好なポッドだが、それが却って頼もしく感じた。心配ない。

 これも貴重な体験!

 リサはフッと息を吐き、強張った身体を解すように先へと進む。

「でかいな……」

 前を行くブランカの声。彼は手摺りにしがみつき止まった。船の反対側には月がある。想っていた以上に大きい、近い。大小幾つものクレーターが目の前を流れていく。

「目がまわりそうだ……」

 じっくり眺める余裕はなく、三人は恐怖心と闘いながら移動を続けた。船の反対側に着き、そのまま船尾方向へ。骨組みの船外灯に照らされた手摺りを頼りにして慎重に進む。十数メートル先に降下カプセルがあり、ハッチが開いている。明かりが漏れていた。それをカプセルと呼んではいるが、その外観は貨物を詰め込んだコンテナと同じだ。それでも船の骨組みにしがみついているより増しだ、憩いの場に感じる。

 降下カプセルに身体を入れた。天井部に照明が一つ。手狭な場所に大きめの椅子が三席二列、向かい合わせに並んだだけの殺風景な場所だ。三人は一方の列の座席へ到着順に身を入れてシートベルトで固定した。ホッと息をする。

「バロフスの奥さんは大丈夫かな?」

 シュジェンの声が無線を通じてリサの耳にも届いた。

「大丈夫だろ。ここまで来て怖じ気づき、下に降りるのはイヤだとごねては、いい笑いものだからな」

 とブランカが返す。

 二人の男性もバロフスと同様に夫婦でツアーに申し込んでいた。二人から聞いたこれまでの話からすると、最初はバロフスとブランカの二組の夫婦が抽選されたようだ。ところがブランカの奥さんは当選するとは考えていなかったようで、月面ツアーの詳細を知るにつれ、段取りが多く自由が制限されることやサービスの悪さ、命の危うい状況もあり得ることを嫌いだす。そんな思いをしても行き先は灰色一色の砂と岩だけ、殺風景な世界であることに不満を持ち、それなら海辺のリゾートがいいと月ツアーをキャンセルしてしまう。夫婦の間で一悶着あったようだが、結果的にブランカ一人が参加することになった。

 その後、おそらく残りの二人を夫婦の申込者にしようと考えたのだろう。お金と時間に余裕のある年配者だ。そこで選ばれたのがシュジェン夫婦になる。

 ところが宇宙旅行者向けの健康診断でシュジェンの奥さんに病気が見つかった。深刻な病気ではないが宇宙に出るには完治が条件になる。ただし、治療をしていると出発に間に合わない。やむなくシュジェン一人の参加となった。これで四名。

 欠員のままツアーを実施するのは避けたい。時間が迫っていることもあり、最後の一人は抽選の条件を緩めたのではないだろうか。三〇歳代で旅費の支払いがローンでも可、となり自分が選ばれたのではないかとリサは考えていた。推測である。抽選の詳細は一般に開示していない。

 後発班の到着が遅れたが、バロフス夫婦は揃って降下カプセルの椅子に収まった。ハッチが閉じる。カプセルは密閉状態になるが、内部に空気を満たす空調機能は備わっていない。薄暗い照明があるだけだ。従って、気密服を装着したまま月に降りることになる。ただ気密服で使用する電力と空気はカプセルにある設備から供給される。五人は手筈通りコードとチューブを繋ぎ、長時間の待機に備えた。

 トスカーから無線が入る。

「少し揺れます。カプセルを月面降下機へ運びます」

 カプセルは骨組みの船体から外され、ムジャスが大型ロボットアームを操り作業ポッドに渡す作業に取り掛かる。

 リサは、しまった、とヘルメットの中で顔を歪めた。

 船の近くに無人の月面降下機が待機しているはずだ。船外に出たのだから、その姿を見ることができたと思う。しかしその余裕はなく、月面まで運んでくれる降下機のことをすっかり忘れていた。もっとも、それは往還船同様に骨組みを露わにした不恰好な外観であることは資料映像を見ていたので知っていた。貨物を載せる台座に四本の着陸脚と推進ロケットを取り付けた武骨なスタイルだ。目の前で見るとその姿を頼もしく感じるか、それとも骨組みだけの華奢な印象に不安を覚えるか……

 大きな揺れ!

 リサは小さな悲鳴をあげた。

 ムジャスがロボットアームで降下カプセルを掴み、船体から離したのだろう。中に人がいるのだからもう少し穏やかに扱えばいいのにと思うが、荷物扱いの身としては黙って耐えるしかない。

 何度も揺れる。

 ロボットアームから作業ポッドに渡され月面降下機へと向かう。カプセルの中からは外の様子が見えないため、何がどうなっているのか状況がわからなかった。貨物担当の彼らを信用して任せるしかない。

 また大きく揺れた。

 降下機に積まれたのだろう。ただトスカーからは何の連絡もなかった。

「月面降下の適切な位置に行くまで、しばらく待機だ……」

 とブランカの呟きが無線を介して聞こえた。それは地球の訓練センターで教わった月降下の手順だ。

「もう少し、スマートにならないと月面への観光客は増えないな」

「この手荒さがいい、という意見もあるようだ」

 とシュジェンが応える。

「マニアの少数意見だろ、それは」

「たぶんね。ただ当局は、月への観光客を増やす気はない……というか、増やすには厄介事が多すぎる」

「言い訳に過ぎないよ……」

「その厄介事って何ですか」

 とリサが会話に加わった。

「何って、施設を充実させて快適性を高めないといけないし、退屈させない様々なサービスを用意しないと駄目だろう。宇宙船も、もっと大型にして娯楽設備も必要になる。そうしないと観光客は増えないだろうね」

 リサはその話か、と思う。目新しい話ではない。しかし、話の腰を折るような真似はしなかった。とにかく、狭いカプセルの中で時間を潰さないといけない。

「私たちは、変わり者のマニア、というわけね」と返した。

「そうだね。それは間違いない」とシュジェンが笑う。

「でも、月へ行く人は徐々に増えていくと思うな」とブランカが言う。

「私は、旅費がもっと安くなればいいと思うわ」とリサ。

 他の参加者はリサが高額な旅費をローンを組んで工面したことを知っている。知ってはいるが、その話題を彼女に振ることはなかった。気遣いの一つだろう。きっと陰では、あれこれと憶測話をしているに違いないとリサは思っている。

「安くするも大変だろうね。相当な設備投資が必要だからね」

 とシュジェンが呟くように応え、続けた。

「確かに高い。若い世代の人たちに月に行ってもらいたいと思うが、費用の工面が大変だね」

 と言い、横に座るリサの顔を見る。ヘルメットの奥で彼女が頷いた。

「リタイヤした高齢者が貯め込んだお金を使って月へ行こうと考えるが、年を取ると身体のあちこちにガタがくる。それが宇宙旅行には好ましくない、おとなしく地球にいるのが無難だ、などと医者に言われることになる。お金に余裕があっても行けない、残念だね」

「低重力の月は年寄り向けかもしれないが、そこへの行き来が大変だね。その意味では若い人向けの場所かもしれないな」とブランカ。

「どうだろう。気になるのは宇宙放射線の悪影響だな。完全に遮断することができない。特に成長期の子どもや出産前の女性は宇宙に出ないほうがいい……」

 それは事実だ。リサもその点の認識を何度か質されていた。

 男性の場合は将来のために精子を冷凍保存する方法で保険を得るが、女性の場合は簡単にいかない。ある程度の時間が必要だ。リサは宇宙に出るなら将来の妊娠・出産を控えるほうがよいと言われている。そのために高額のローンを抱えるだけでなく、他に幾つか諦めなければならないことも出てきた。この決断が正しいのか、その疑問は消えない。

 ただ、無難な選択をし月面旅行を諦めたとき、死ぬまで後悔するような気がする。きっと、どちらに転んでも後悔するのではないか。だとすれば、思い切って希少な体験を味わうほうがよいのでは……


 大きな衝撃!

 それまでで一番大きな揺れだ。華奢な造りのカプセルが潰れるような気がする。降下機が月面に着陸したのだ。これが軟着陸なのか? 激し過ぎると思う。これは標準的な降り方なのか、今回は特別に荒れたのか、判断がつかない。しかし大きな揺れの後、カプセルの中は平穏になった。小さな重力を感じる。天井の明かりに照らされた周囲を見回す。五人の月面旅行者は全員無事だ。歓喜に包まれ、握手を交わす。

 しばらくして無線が入った。

「こちら月面管制。ようこそ、歓迎します。着陸の際に舞い上がった砂塵が落ち着くまで、カプセル内で待機することになります。今しばらくお待ちください」

 それから長く待たされた。焦れったい。

 ようやくカプセルの扉が開いた。だが、外は暗く何も見えない。逸る気持ちをグッと抑える。最初に扉を潜ったシュジェンの姿が見えなくなってから、リサは立ち上がった。月面の重力に戸惑いつつ、タラップの上に出て仁王立ちになる。

 ここが月面?

 想い描いていたイメージと違う。平らな砂地の広がりが暗闇の中に消えていた。そこにヘッドライトを点けたバギーが二台、傍に二つの気密服がこちらを向いている。迎えの人だ。

 リサは仰け反るようにして天を見た。身体を左右に振って目的のものを探す……

「よそ見をしていないで、月面に降りてください」

 無線を介し、初めて聞く声に注意された。バギーの傍の一人が大きな動きで手招きをしている。

 リサは、すみませんと返し、手摺りを掴んで降下機のタラップを降り始めた。

 一番下の段からフワリと飛び降りる。

 最初の一歩……

 月に来た! と心の中で叫び、バギーの傍までぎこちない歩みで進み、合流する。降下機を振り返ると三人目のブランカがタラップを降りているところだった。

「月面って固いのね。想っていたのと違うわ」

 先に降りていたシュジェンに向けた言葉だったが、返ってきたのは先ほど注意した男性の声だった。

「これでも宇宙港ですからね。整地して砂を押し固めてあります。人の手が入っていない場所なら、もっと柔らかい所もありますよ」

 ヘルメットバイザーではっきりしないが、その奥の男性の顔が微笑んでいるように見えた。

「誰の足跡もない月の砂漠を歩いてみたいわ」

「それを願う人は多いですね。でも、それをするには施設から相当離れないとダメです」

「許可は下りるかしら……」

「観光目的だと難しいですね。遠くへ行ってトラブルになると厄介ですから。でも施設周辺の管理下なら、出ることができますよ」

「そうですか、ちょっと残念ね……」

 そこでリサは、はたと思い出した。

「地球はどこ?」

 それに応じ、その男性は身体の向きを変えて上空を手で示す。故郷の青い星がポツンと浮いている。

 月に来たのね……

 砂と石の単調な景色よりも空で輝く地球のほうが心に染み入るものがある。従って、一四日続く夜の期間に月面観光が組まれることが多い。今回も真ん丸ではないが鮮やかな青い地球を眺めることができた。ブランカも加わり、月面に降りた三人は仰け反るようにして故郷の星を見上げていた。

 少し手間取ったがバロフス夫婦も降下機を降り、五人の観光客は二台のバギーに分乗し宇宙港を後にした。真っ暗な月面を進む。運転席には出迎えに来た人が座ったが、運転はコンピューターに任せている。助手席に座ったリサはヘッドライトで照らされる月面が、どこまでもなだらかであることに気付いた。

「この道も、整地して押し固めてあります……」

 と運転席の人物がリサの問いに答えた。

「でも、ダートであることに変わりありません。車両が通ると砂塵が舞い上がります。ですから後続のバギーは十分な距離をとって走っています。砂煙の中を走り続けるのは辛いですからね」と笑った。

 リサは後ろのバギーを見ようとしたが、直ぐに諦めた。着用している気密服では腰を回し振り返ることが難しい。

「舗装はしないのですか」と素朴な疑問を口にする。

「それには、少なからず水を使うことになります。気が咎めるでしょ、貴重な水を月面にばらまくのは……。当面は、押し固めただけの道を走ることになりますね。現在、水を極力使わず、この厳しい月面環境に耐えうる舗装方法を研究中です。それができればこの道も、もっと快適なハイウエーになるでしょう。おっと、前から車両が来ますね」

 前方に小さな明かりが見える。何台かの車列だ。次第に近付く。それはクレーンを備えた大型の作業車だった。すれ違うと砂煙の中に突っ込み、視界が悪くなる。それでもバギーは平然と走行していく。搭載コンピューターには関係ないようだ。

「そんなに、慌てることはないのに……。降下機が運んできた物資を降ろす仕事ですよ。次にすれ違うのはコンテナ運搬車でしょうね」

「私たちが乗ってきたカプセルも降ろすのですか」

 と後部座席に座るシュジェンが尋ねる。

「ええ、降ろします。まだ上に荷物がありますからね。降下機は点検・整備をした後に、もう一度軌道へ上がることになります」

「あのままバロフスの奥さんがタラップを降りるのを拒んだら、クレーンを使ってカプセルごと下に降ろすことになるのですか」

 そのブランカの問い掛けに運転席の彼は笑った。

「それもできますが、やりたくないですね。せっかくの月面ですから、やはり自分の足で降り立たないといけないでしょう」

 前方から近付いて来た二台目は、彼の言うとおり空の荷台を引っ張る運搬車だった。

「すれ違ったとき、向こうで気密服の人が手を振ってたように見えました」

「そうですか。気付かなかったな……」

「もう一台来ますね。私たちも手を振った方がいいでしょうか」

「昼間ならすれ違うときに手を振ることもありますが、暗いとよく見えないですからね……」

 それでもリサは三台目の車両に手を振った。

「向こうに乗っている人、見えましたか」

 とシュジェンが言う。

「無人の自動運転だったかもしれませんね」

 運転席の男性がそう言って笑った。

 バギーは暗闇の中、緩やかなカーブが続く道を走った。しばらくすると、また前方に明かりが見える。それは車両のヘッドライトとは様子が違った。月面施設の明かりだ。近付くにつれ、明かりに照らされたその姿が見えてきた。幾つかの砂山があり、その向こう側に丸い屋根の建物がある。月の資源を用いた建材で造ったドーム。今、月面で一番大きな建物だ。月面飛行をする場所だと直ぐにわかった。

 バギーは砂山の一つの傍で止まった。居住施設は、降り注ぐ放射線や宇宙塵を防ぐ目的で月の砂が被せてある。砂山から出入り口の構造物だけが飛び出ていた。

 バギーを降りる。そこの月面は宇宙港より柔らかく感じたが、無数の足跡や車両のタイヤの跡が広がっていた。

「中に入りましょう」

「後続のバギーを待たないのですか」

「ええ、エアロック室はそれほど広くないんです。七人が入ると窮屈ですね。ですから先に入って気密服を脱ぐことにしましょう」

 そう言い、エアロックの外壁扉を開けるボタンを押す。

 リサは、バロフス夫妻が到着するまでのんびり地球を眺めようと思っていたので、少し残念だった。でも、月面滞在の間にその時間はあるだろうと自分に言い聞かせ、もう一度だけ空を仰ぎ見てから最後にエアロック室へ入った。


 気密服を脱ぎ、前室に用意されていた飲食物を口にして遅れて到着し着替えているバロフス夫妻を待った。シュジェンとブランカは壁にある小さな窓を交互に覗き込み、何やら話をしている。そこにスラリとした容姿の男性が現れた。

「すみません、ご挨拶が遅くなりました。この施設の運用管理を担当しているヴィガニーです」

 その男性が出迎えてくれた彼だと気付くまで少し時間が掛かった。無線を介さない生声は印象が違う。

「水沢理彩です」

 と慌てて頭を天井にぶつける勢いで立ち上がった。握手をする。分厚いグローブ越しでは、相手の温もりを感じ取れない。宇宙では気密服を脱いでから挨拶を交わすのが普通だった。

「日本の方ですよね。実は、祖母が日本人なんですよ」

「そうでしたか……」

 そう言うが、ヴィガニーの顔立ちからは東洋人の特徴は見られない。日本人の血は薄まっているようだ。

「バロフス夫妻の準備が整ったら施設の中をご案内します。もう少し待ってください」

 それにリサが頷く。

「それほど広くはないですが通路が入り組んでいますので、はぐれないように注意してくださいね。ちゃんとドームへも行きますから……」

 と微笑む。どうやらリサの目的が月面飛行であることを承知しているようだ。

「ヴェガニーさんも飛んだりするのですか」

「もちろんですよ。月で一番の娯楽スポーツですからね。慣れたころに一緒に飛びませんか」

「ええ、お願いします」

 早々に、一緒に飛んでくれる相手ができたことを素直に喜んだ。日本人の血を引く同年代の男性……。彼、独身なのかしら?

 胸が高鳴った。




    エピローグ


 そこは月面で一番大きなドーム施設だった。

 イーグルパークと名付けられたその施設の内部は、床全面がガラス張りの台座になっており、その上を多くの観光客がガラスの先を見下ろしながら歩き回っている。床下の砂地には初めて月面に降り立った二人の男の足跡が数多く残されていた。旧式の機器や作業用の道具も散らばっている。今は崩壊・分裂してしまった当時の大国の旗。ドーム中央にはガラスの台座が盛り上がり、華奢な四本脚の不恰好な構造物が収まっていた。この施設の名前の由来となった月着陸船の脚部だ。上部にあった着陸船の本体は二人の男を地球に帰すために、この脚部を発射台として使い飛び上がっていった。最後の使命を終えた脚部だけが当時の姿のまま残されている。

「こんにちは、日本の方ね……」

 ガラスの床の各所に置かれたベンチの一つから老女が声を掛けた。三人組みの若い女性が歩み寄る。

「お若いわね。学生さん?」

「ええ、卒業旅行です」

 時が流れ、宇宙船や施設のシールドが強化・改善されて宇宙放射線の影響を心配することはなくなった。賑わう観光客の中には小さな子どもと一緒の家族連れも目に付く。月面は、気軽に行ける観光地になっていた。

「そうですか。月面を楽しんでますか?」

「きのう着いたばかりですが、楽しんでいますよ。お婆さんも日本からですか」

「そうね。三〇過ぎまで日本から出たことがなかったわ」

「三〇……。今はどちらの国にお住まいですか」

「ここよ。ずっとここで暮らしているの」と老女が微笑む。

「ずっと? どれくらいですか」

「半世紀になるわね」

「半世紀! それじゃ月面定住の初期の方ですか」

 三人の中の一人が驚く。どうやら事前に、ある程度の知識を頭に入れてきたようだ。

「ええ、そうなるわね」

「そうなんですか。初期の月面定住者の中に日本人がいるとは知りませんでした」

「ずっとここで暮らしていて、地球には帰っていないのですか」

 と別の女性が尋ねる。

「そうよ。もう地球には帰れない身体なの」

「帰れない身体? それは、どういうことですか」

「地球から月に来ると、重力が小さく身軽になるから身体にいいという話になっているでしょ。でもね、人間って怠け者なのよ。長く暮らすと負担の小さな環境に身体が馴染んでしまうの。これが普通になるのよ。だから地球に降り立った途端に、六倍の重力に押し潰されて苦しむことになるわ。もう地球では生きていけないの」

 その答えに三人の若い女性が頷く。老女が続けた。

「だから、懐かしいお国言葉を耳にして思わず声を掛けてしまったわ。ご迷惑だったかしら……」

「いえ、そんなことはありません。長く月面に住む日本人の方と会えて嬉しいです。どのような経緯で月面定住することになったのですか。よかったら聞かせてください」

「そうね。ちょっとした巡り合わせかしら……」そう言い、微笑む。

「半世紀前、月面旅行が一般に開放されたけど、まだまだ希少なことだったの。今とは違い、誰もが自由に月へ行けるという時代ではなかったわ。月面への渡航は、世界中の申し込み者の中から抽選で決まっていたの。高い倍率になったわ。月の施設や宇宙船もずっと小規模だったから、一般開放されたといっても極僅かの人しか月へ行くことができなかったのよ」

「倍率が高いから定住の申し込みをすることにしたのですか」

「いいえ、違うわ。当時はまだ、定住希望者の募集はしてなかったのよ。月面定住の計画すら公表されていなかったわ。私は、ダメ元で申し込んだ月面旅行に運良く当たったの」

「ラッキーでしたね」

「ええ。でも、お金の工面が大変だったわ。当時の月面旅行の費用はどんでもない高額だったの。けど、せっかく当たったのだからこのチャンスは逃せない、とローンを組んで旅費を工面したのよ。月から帰ると長い返済地獄が待っていることになるわ」

「大変ですね……」

 と一人の女性が同情する。老女はそれに笑みを返してから三人に問い掛けた。

「月面飛行のアトラクションは、もう経験した?」

「いいえ、まだです。見たんですけど、ちょっと怖くて尻込みしています」

「そうね、ちょっと怖いわね。私が月へ行きたいと願ったのは、その月面飛行が理由なのよ。あの頃、鳥のように自由に空を飛びたい、と願っていたの。月へ行ってそれを実現したい……」

 老女は微笑んで話していたが、そこで顔を顰めた。

「でも駄目ね。浮かれて調子に乗ってしまってケガをしてしまったの。着地に失敗して足の骨を折ったのよ。重力が小さいから油断したのね」

「骨折、ですか……」

 老女はそれに頷き、話しを続けた。

「命に別状はなかったけど、地球のお医者さんは骨が繋がるまで月にいたほうがいいと診断したの。地球帰還って身体に大きな力が加わるでしょ。結局、帰れなくなってしまったわ。月面滞在が長引き、高額な費用が追加請求されることになるの」

「追加、ですか……」

「仕方ないわね。でもね、その頃、月面定住計画が動き始めていて、長期の月面滞在が人の身体にどんな影響を及ぼすのか懸念があったの。当時、月面で働く人はいたけど、みんな半年とか一年の任期を務めて地球に帰っていたのよ。月に定住すると、どうなるのか? 何年か暮らした後で地球に戻ることができるのか。きちっとしたデータが必要になるでしょ。その調査に協力しないかという話が、私のところに舞い込んだのよ。月面旅行のローンを含め、費用を全て肩代わりするという条件でね」

「そんな……」

 三人の若い女性が絶句する。

「手っ取り早くモルモットを確保しようとする思惑があったのでしょうね。でも、私にとっては悪い話じゃなかったの。だって、地球に帰ると返済に追われることになるのよ。それから逃れることができる話でしょ。少し悩んだけど、その提案を受けることにしたの」

 話しを聞いていた女性はその状況を想像し三人で顔を見合わせた。

「今も、毎月検査を受けているのよ。年齢の割に健康なのは、月の低重力のお蔭ということになってるわ。でも、身体がこの環境に馴染んでいるので地球に帰ることはできない……」

「帰りたくないですか」

 と一人の女性が尋ねた。

「そうね……。帰って何をするか、ね。感傷に浸るだけなら、意味ないでしょ。両親は亡くなってるし、誰かに会いたいという気持ちもないわ……」

 老女は笑みを浮かべて同郷の三人の顔を順に見た。それから徐に口を開く。

「確かに、月から出ることはできないけど、地球では経験できないようなことを沢山やってきたのよ。それを考えると、悪くは無い人生だったと思うわ」

 そう言い、小さく頷く老女の顔は、どことなく誇らしげに見えた。


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