警部の夢を映像化してみると
楠警部が自宅玄関のドアを開けると、奥のリビングから警部の奥さんが驚いた表情で出迎えた。警部の奥さんは40代後半くらい。色白でスラリとしていて小顔なためか、八頭身くらいありそうに見える。顔だちが整っていて典型的な美人顔である。目は少しつり上がり気味で唇は薄い。一度おしゃべりを始めたら止まらないタイプだろうなと桐生は思った。上着の袖をまくっていて、手にはハンディタイプの掃除機を持っていた。
「今日はもうお帰りですか」よく通る声でそう言うと、警部は事情を説明した。
「それで、ちょっとオレの部屋を調べてみるよ」
警部の奥さんが、警部の背後で小さくなっている桐生を見つけた。
「こいつはオレの部下だ」
桐生は照れながら警部の横から顔を出した。
「桐生整と申します」
「あなたの部下の方だったのね。私、てっきり迷子の子を補導したのかと思ったわ。かわいい部下をお持ちじゃない」
警部と桐生は警部の書斎兼寝室へ向かった。部屋の中は、警部が言っていた通り、開けられていない段ボール箱がいくつもあって、生活感は感じられない。あるものといえば、デスクの上のパソコン、読みかけの本、部屋の隅に置いてあるボウリンググッズくらい。
「楠さん、どこに寝てるんですか?」
「ここだ」警部は部屋の窓よりの床を指さした。それから押入れを開けて布団を出すと、そこに敷いた。警部は布団に実際に寝てみた。
「頭はここですか、そうすると、この辺りにあるのかな」
桐生はデスクの下の方を調べてみた。一通り調べたが、装置のようなものは見当たらなかった。桐生はベランダに出てみた。ベランダにも、これといってものは置いてなかった。警部は天井から吊り下げられている電灯を外して調べてみたが装置は見つからない。桐生は部屋に入ってくる時に、パソコンの配線でつまずきそうになった。その配線をたどっていくとコンセントに差し込まれていた。コンセントには蓋がしてある。
「このコンセントの中って見ることができますか?」
「ドライバーならデスクの上にある」
桐生はドライバーセットからプラスドライバーを取りだして、コンセントの蓋を開けた。開けると、蓋の部分に黒い小さなものが貼りつけられていた。それを慎重に蓋からはずして警部に見せた。
「これじゃないですか」
「見せてみろ。これかもしれないな」警部はバッグの中から、科捜研から借りてきた電波測定器を取り出す。スイッチを入れて、その黒いものに近づけると、測定器は高い数値を示した。
「これで間違いなさそうだ。こんなところにあったのか」警部はその黒くて薄いものを、透明な袋に慎重に入れた。
「よし、科捜研に戻るか。その前に飯を食って行こう」
「どうせ牛丼ですよね。ぼく牛丼飽きちゃったな」
案の定、警部はマンションの近くにある牛丼屋に入って行った。昼過ぎだというのに、客で賑わっていた。警部は特盛牛丼、桐生はミニカレーを頼んでカウンター席に座った。
「あんなにちっちゃなもんでオレに悪夢を見させることができるのかな」
「室さんの話だとできるんでしょうね。でも、誰がこんなことをしたんでしょうか。楠さん、心当たりはないですか?」
「オレの記憶を消したいやつなんて誰もいないだろ」
2人の前に牛丼とカレーが運ばれてきた。警部は牛丼の上に紅しょうがをたっぷりのせた。
「じゃあ、誰にあの装置を取り付けるチャンスがあったんでしょうかね」桐生の念頭には警部の奥さんと娘が浮かんでいた。
「家内と娘のエイミには無理だもんな」
「分からないですよ、楠さんが留守の間に、2人で共謀して取り付けたかもしれませんよ」
警部は口いっぱいに牛丼を頬張りながら、
「それが無理なんだよ、物理的にな」と答える。
「物理的に無理?」
「そう、2人はまだオレの部屋に入れたことがないんだ。それに、オレが不在の時は部屋に鍵をするようにしてるんだ」
「ずいぶん厳重ですね、部屋になにか置いてるんですか?」
「いやあ特に貴重なものなんかはないけど、なんていうか職業柄かな」
「奥さんと娘さんじゃないとすると誰でしょうね。最近、誰か家に招いたりしました?警察署の人とか」桐生は早くもカレーを食べ終えた。皿は洗ったようにきれいだった。
「警察署の人間でオレのマンションに来たのは、署長だけだな。来たって言っても、玄関で立ち話しただけで、中には上がってこなかったんだ」
「そうですか、そうすると…、あっそうだ。楠さん、失礼ですけど、あのマンションって新築ですか?」
「オレの安月給じゃ、中古が精いっぱいだ」
「中古だと、あの装置は前に住んでた住人の時からあったのかもしれませんね」
「そうか」と言うと、警部は携帯を手にして、マンションを販売した不動産に電話をした。事件の捜査をしていると言って、警部の前に住んでいた住人の個人情報を聞き出した。その電話番号に電話をしてみると、60代くらいの女性が出た。警部は事情を説明して、あそこに住んでいた時に、悪夢に悩まされなかったかどうかを聞いた。女性は夫と2人で住んでいたようだが、女性も夫も、警部がみたような夢はみなかったと答えた。警部は捜査に協力してくれた礼を言って電話を切った。
「以前からあったわけじゃないようだな」
「そのようですね」
2人は食休みをしながら、黒い装置を取り付けたのは誰なのか思いを巡らせていた。
「考えててもしようがないから科捜研に戻るか」
室は警部から手渡された黒い物体を、いろいろな機械を使って検査した。15分ほどで検査が終了した。室が退屈そうにしている警部たちのもとに歩いてきた。
「これで間違いないですね。これの出す電波によって警部の脳波は影響を受け、記憶の一部が改変、消去されたものと思われます。警部の見た悪夢はその副作用です」
警部はなんともいえない複雑な表情をした。
「目的は何だろうな。オレの記憶を消して得をするやつなんているのか。それにしてもどういう記憶だったんだろう」
「その消された記憶を今から探りたいんですが」
「できるのか?」
「警部の見る夢を映像化するんです。映像化する技術は科捜研が最近開発したんです。実用化まであと少しなんですけど、ほぼ完成してます」
「夢を映像化しても、オレの記憶とは限らんぞ」警部は半信半疑な表情だ。
「前にもお話したと思うんですが、ふつう、夢は人の空想や想像が入り込みます。それをある特殊な電波を使うことで、限りなくその人の記憶に近づけることができます。それを映像化するんです。警部がよろしければすぐに始めたいんですが」
「それは体に痛みなんかあるのか?」注射を怖がる子供のような口調で聞く。
「全然ありません。ただ今回は眠ってもらうために、睡眠導入剤を使いますけどよろしいですか?」
「それはかまわない」
警部が簡易ベッドに横になると、室はヘルメットなどの一連の道具を持ってきた。それらを警部に装着して、睡眠導入剤を服用させると、たちまち警部は眠りに落ちた。間もなく、ベッドの横にあるモニター画面が反応して、映像が映し出された。それは警察署の映像だった。映像には署長や警部の上司の成瀬の姿が映っている。
「一昨日の会議の様子です」桐生が室に説明した。
「ではもうちょっとさかのぼってみましょう」室がパソコンを操作すると、映像が過去へ戻っていく。モニターの右隅には『記憶純度99%』と表示されていた。つまり今画面に映っている映像は、ほぼ警部の記憶そのものだ。左下の方には、さかのぼった時間が表示されている。室はその表示が8日前になるまで操作する。
「うーん」室はパソコンと画面を交互に見ながら、うなるような声を出した。
「どうかしましたか?」
「今、8日前までさかのぼったんですが、その日の15時から20時くらいまでの警部の記憶がなくなってますね」
桐生も画面を見てみると、確かに急に映像が飛んでいるような印象を受ける。室は消された記憶を復元する作業に取りかかった。数分で作業が終わったらしく、画面にうっすらと映像が映りだした。それは、警部がパトカーを運転中に携帯に着信があった様子で、時間は15時6分だった。停車して電話にでた後、ナビを操作して車を走らせた。警部が向かった先はT県のとある大学だった。キャンパス内にある駐車場に車を停めて、5号棟と書かれてある建物に向かって走って行った。5号棟の前には、近くの交番から駆けつけたと思われる巡査が立っていた。警部はその巡査のもとに行き、二言三言話した後、建物の中に入っていった。ここまで映像を見ていると桐生が質問した。
「この映像って、音声は出ないんですか?」
「音声は今の技術ではまだ出せないんです」
「そうですか」そう言って、桐生はまた画面に意識を集中した。
警部と巡査は建物内に入ると、正面にあるエレベーターに乗って3階で降りた。エレベーターを降りると正面は窓がある壁で、くるりと振り返るとエレベーターの左右に廊下が伸びている。2人は左側の廊下に行き、手前から2つ目の左側にあるドアを開けた。そこは小さな教室が2つ分くらいの広さの部屋で、壁側にもう1つドアが見える。
部屋の中央よりも少し奥の方に女性が倒れていた。そのそばに、もう1人の警察官が立っていた。警部はその警察官に話を聞いているようだった。話を聞き終えて、警部が倒れている女性のところで屈もうとすると、他の警察関係者や鑑識の連中が入ってきた。その後の映像は一連の鑑識作業や女性が担架で運ばれていく様子、大学関係者が数人、部屋に入ってくる姿などが映っていた。
室は、警部の記憶の他の箇所も調べてみたが、記憶が飛んでいたり、不自然になっていたりするところはなかった。時間表示が20時になったところで、警部に興奮剤を注入して起こした。警部は目をこすりながら起き上がると、さっそく聞いた。
「どうだった?」
室は録画した警部の夢の映像を見せた。
「自分の夢を見るなんて、なんか妙な感じだな。でも、1つも覚えてないな。やっぱりオレの記憶は消されてたのか」
「この事件は解決してるんでしょうかね?」室がたずねる。
警部は上着から携帯を出した。
「署に電話して確認してみるか」
電話に出たのは警部の上司の成瀬だった。警部は意外に思った。成瀬はめったに電話には出なかったからだ。成瀬によると、当初は警部がこの事件を担当する予定だったが、警部は他にもいくつか事件を抱えていたため、成瀬が担当することになったらしい。この事件はまだ解決していないが、近々ある男を逮捕するつもりだと言った。その男はこの大学に通う学生で、田伏という名前らしい。電話を切る前に成瀬は警部に、事件はほとんど解決してるから捜査する必要はないと念を押した。警部は成瀬から聞いたことを2人に話した。話を聞いた後に、それまでずっと黙って映像を見ていた桐生が口を開いた。
「この事件の現場に行ってみませんか?」
「今話しただろ。成瀬さんが捜査して、犯人の逮捕も時間の問題だって」
「非公式に捜査してみましょう。なんかへんな事件ですよ」
「確かに事件についてのオレの記憶がなくなってることもあるしな。じゃあ、オレたちだけでやってみるか」