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作者: 里音

美しい妻と、人に褒めそやされることが幾度あっただろうか。

数え切れないほど浴びたその賛辞に、私は未だ慣れることができない。

そしてどうやら、今年七つになる私たちの娘もまた、その賛辞に納得がいかない様

子である。

妻への賛辞を聞くたびに、娘は私を見上げ、

徹夜でもした後のように腫れた瞼を重そうに持ち上げ、首を傾げるのだ。


お母さんは、綺麗なの?


言葉にしないその疑問を、私は気づかぬふりでやり過ごす。

そうすることが、私にはもはや当たり前のことなのだ。

あの時から。

私が、その事実に気づいてしまったあの日から。




-妻-




そこに行くことを禁じられれば、行きたくなるのが子供というものではある。

それでも言いつけを守る子もあれば、予想の通りその言いつけを守らぬ子もある。

私は言いつけを守る側の子供であったが、男の子というものは、ただ大人の言いつ

けを守るだけでいることを許されない時がある。

男と生まれたからには臆病と名の付く生き方は容易にはできない。

同年の子供達の大半が、大人の禁ずるその場所に行ったと聞かされれば、

自らもそこに赴くことのできる勇気を示さなくてはならない。


「おまえ、まだ行ってないのかよ」

さり気なく言われるその言葉の中に、侮蔑の匂いが感じ取れぬ者はいないだろう。


「今日行くつもりだったんだ」

そう言わねば、侮蔑を撤回させることはできないのだと、幼心にも分かっている。


「ふ~ん」

行く気もないくせにと、まだ侮蔑の込められた気のない返事に背を押される。

「行くよ。だって、ただの沼だろ?」

大人がなぜ禁ずるのかなど知りもしない。

浅はかな子供に分かるのは、そこに小さな沼があるのだというそれだけだ。

「ただの沼だよ。だから行ってもなにもないけどね」

既にそこに行った子供にも、大人が禁ずるわけがまるで分からない。

その沼が、見た目の大きさからは考えもつかぬほど深いことなど、知りもせずに。



私は一人でその沼に出かけるつもりであった。

誘えば一緒に行くという男の子もあったかも知れないが、私は、私を侮蔑した男の

子を見返してやりたかったのだ。

大人に禁じられた危険な場所に一人で行くという行為は、いかにも勇気ある行動に

思えた。

その行動を、彼らは賞賛すると私は思っていたのだ。

だが、その目論見は初っ端から失敗した。


沼に向かう道の途中から、私には連れが出来てしまったのだ。

それも、もっとも有り難くない連れである。

その連れは女の子であった。


当時の私たちは、危険な場所に女の子を伴っていくことは避けねばならないことと

認識していた。

男の子は女の子を大事にしなければならない。

それが当たり前だと教えられて育ったのだ。

だから、大人が禁ずるような危険な場所に女の子と行くというのは、臆病な行為と見られても弁解はできないことだったのだ。

一人で行くのが怖いから、女の子に一緒に行ってもらったのだ、と。

そんなことを言われることは、大変な屈辱であった。


だから私はその女の子が一緒に行くと言いだした時、嫌だと何度も言ったのだ。

だが、その子は聞いてくれなかった。

道一本隔てただけのお隣の娘で、私とは幼なじみであった。

その道一本が境界で、私と彼女は学区が異なり違う小学校に通っていたが、隣家という距離はそれで遠くなるものではなく、相変わらず私たちは幼なじみであったのだ。

お互いの気性も、なんとなく飲み込んでいる。

彼女は、言い出したら頑として折れない娘であったのだ。


仕方なく、私は彼女を後ろに従えて沼に行った。

幸いにして、途中誰にも会わなかった。

雲行きが怪しかったせいかも知れない。

今にも雨が降り出しそうな気配の空は、子供達の活動を阻害する役目を果たしていた。



蒸し暑く、何もかもが重苦しい、そんな空気の夕暮れだった。

私たちは、小さな沼の前に立っていた。

少し大きな水たまりのようにしか見えない沼の水は、重苦しい空の色を映しているせいか、どんよりと黒かった。

底が見通せないのは、思うよりもその沼が深いせいであったが、子供にはそんなことはどうでもよかった。

この沼に来たのだという証拠を、私は持ち帰らねばならなかったのだ。


沼の回りの植物を持って帰ろうかと思ったが、残念ながらあまり植物は見あたらず、あってもどこにでもあるような雑草ばかりであった。

水を持ち帰ろうにも、どこの水か分からないであろうことは子供にも容易に想像できた。

第一、水を汲めるような容器も持ち合わせていない。

困った私は、連れの女の子によい知恵がないか相談した。

彼女は、我がことのように頭を捻って考えてくれた。

私は彼女が一緒に来てくれたことを、その時ほんの少しだけ感謝した。


だがその感謝の念は、一瞬にして恨みに変わった。

そこに、同級生の男の子たちがやってきたのだ。

「なんだ、女連れてきたのかよ」

一人の男の子がそう言って、私を蔑むような目でじろじろと眺めた。

それに呼応するように、もう一人の少年も呆れたような眼差しで私を見た。


私の頭の中は、一瞬のうちに真っ白になった。

顔が火を噴いたように熱くなり、反駁の言葉などは一切思いつかなかった。


雨が降り出したことに、私は気づかなかった。

二人連れの少年たちが、雨が降ってきたと叫んで走り出し、その後ろ姿が消えるまで、私は雨のことも連れの少女のことも、念頭から忘れ去っていた。

ただ、明日になれば自身の臆病さは学校中に知れ渡るのだと、

男としての私の価値は今後誰からも認められないのだと、

絶望的な気分に包まれていたのだ。


「ねえ、雨降ってるよ。帰ろう」


私は少女の声で我に返った。

誰のせいで。

言いかけた言葉が、怒りの為に行き場を失って喉に絡まった。

彼女が一緒に来なければ、私はこんな惨めな思いをせずに済んだのだ。

これから先、蔑まれることもなく、むしろ英雄のように思われることができたのだ。

彼女が来なければ、一緒にいなければ。


私の手は、無意識のうちに彼女の腕を掴んだ。

私の手は、掴んだ彼女の腕に爪を立てた。

痛いと、彼女が小さく呟くのを耳に拾いながら、私はその力を強めた。

そして私は、掴んだ腕を、私の体を軸にして半回転しながら大きく放った。


激しい水音がした。

雨の音だと、私は思おうとしていた。

いや、きっとその時は思い込んでいた。

雨は激しくなっていたし、雷まで鳴り始めていた。

ばしゃばしゃと、水を叩くような音がしていたが、それは雨が沼に降り注ぐ音と思っていた。


私は、家に帰った。

そして、そのまま熱を出して一週間ほど寝込んだ。

隣の家の娘がどうなったのか、私は分からなかったし、知ろうとも思わなかった。



熱が引き、再び学校に通い始めた私は、あの日のことを忘れた。

隣家の娘とも、早速学校に行き始めた日の朝、会っている。

無事だったのだ。

以前のように、親しい幼なじみとして話すことはなくなったが、それは仕方のないことと私は思っていた。

それに、段々と大人になるにつれ、男女の幼なじみの間には溝が出来ていくものだ。

男には男の付き合いが、女には女の付き合いが出来、自然と疎遠になるのが当たり前なのだ。


むしろ、私にとって心配だったのは学校での私の評判だった。

沼に女の子を伴って行ったことで、私は臆病者と言われるようになるハズだった。


だがそれも、私が心配するようなことにはならなかった。


丁度そのころ、新しい先生が学校に赴任してきた。

その先生はまだ若い男の先生で、日に焼けた精悍な顔をしていた。

一端の冒険家であるのか、世界の有名な山に登ることもあるというその先生の話は、

沼にちょっと出かける程度の冒険談とはまるで違っていて、私たちを夢中にさせた。

あんな小さな沼には、誰もが一瞬で興味を失ったのだ。



そうして、私は不名誉を被ることもなく、無事中学に進学した。

そして、二年、三年と順調に学校生活を送り、高校に進学。

偶然だが、私ははじめて隣家の娘と同じ学校に通うことになった。


同じ時刻の電車、ほぼ同じ時刻に家を出る。

彼女の家との距離は、ほんの道一本分。

なんとなく避けていた彼女を、私は完全に避けることが難しくなったことを感じた。

彼女もそれは同じであったろう。

ある日、彼女は意を決した様子で私に声を掛けてきた。


「おはよう」

単純な挨拶であったが、そこに含まれる緊張に私は直ぐに気づいた。

「おはよう」

返事を返した私の緊張も、彼女に伝わった。

少しの間、私たちはその場に立ち止まり、互いの緊張に包まれて困ったように俯いていた。

その顔を、先に上げたのも彼女だった。

「こうして話すの、久しぶりだね」

彼女は笑った。

「あ~、うん、そうだね」

私はまだ少し緊張が解けないままに答えたが、少し気は楽になっていた。

あの沼に、おそらくは放り出してしまった私を、彼女は恨んではいなかったのだ。


「駅まで、一緒に行こうか」

そう言ったのは、むしろ私の方だった。


駅まではさして遠くはない。

歩いて10分ほどの距離。

その間、少しずつ、私たちはお互いのことを話した。

学校での友達のこと、二人にとっては共通の、高校の教師のこと。

駅までのとりとめないお喋りは、その後、私たちの日課になった。

そうして、私と彼女の幼なじみとしての仲はすっかり修復された。



だが、私は知らなかったのだ。

彼女があの日、あの後、どうなったかを。



高校も三年生になり、そろそろ卒業も間近になったある日のことだ。

受験も無事に通過し、四月から大学に通うことが決まっていた私は、のんびりとソファに横たわり、テレビを見ながらくつろいでいた。

その私に、母は延々と近所の噂話などを吹き込んでいた。

それがふと、隣家の話に及んだとき、私はぎくりと身を強ばらせてソファに身を起こしていた。

母は、こう言ったのだ。


「お隣のお嬢さん、綺麗になったわねぇ」


綺麗な女性というものを、私は全く分からないわけではない。

むしろ、綺麗でなくとも女性に対する興味だけは人一倍あるような年頃に、当時の私はあったのだ。

隣の娘が、人の目を引くほどの美人であったら気づかないはずがない。

なにしろ、高校の三年間、殆ど毎朝顔を会わせていたのだから。


「誰に似たのかしらねぇ。

 お父さんもお母さんも、十人並みって言ったら失礼だけど…。

 なんでお嬢さんだけ、あんなに綺麗なのかしら?

 色白で、目はぱっちりして睫毛も長そうよねぇ。

 多分お化粧なんかしてないんでしょうけど、

 頬紅でも塗ったみたいに、バラみたいなほっぺして。

 可愛いお嬢さんになったわよねぇ」


私の目に写る隣家の娘は、腫れた瞼に小狡そうな細い目。

その縁に申し訳程度のまばらな睫毛は長さも短い。

抜けるように白い肌はむしろ青白い死人の膚。

顔から突き出るように高く尖った頬骨は、くすんで、土の色に似て…。


私の背を戦慄が駈けた。

頭から音を立てて血が引いてゆく。


「おまえのお嫁さんになってくれないかしらね」


鳥がさえずるように、楽しそうに、嬉しそうに、母が言った。

私の意識はそれを支えきれずに遠のいてゆく。



全てが白い靄に包まれて、私は全てを悟ったのだ。

あの日、あの時、彼女は一度死んだのだ。

沼に私が振り落とし、僅か7つの彼女は、そこから這い出ることができなくて。

あの日、家に帰った彼女は違う彼女。

きっと、あの沼で死んだ美しい娘の魂。

けれど、彼女も死にきれなくて……。






私の膝の上で、私たちの娘が眠っている。

瞼を閉じていれば、少しは見られるご面相は、妻に良く似ている。

腫れた瞼にな細い目、飛び出た頬骨、陰影を作ることなどおぼつかない短い睫毛に白い肌。

全てが妻に生き写しな娘は、自分が美しくはないことを僅か7つでも知っている。

そして、自分が母に似ていることも、知っている。



私は、妻が美しいと賞賛されることに慣れない。

娘も、それに慣れることはないだろう。

なぜなら、私の目にも、娘の目にも、彼女は決して美しくは映らないから。






おわり


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