Ⅰ
「おわああああああああ!!」
化け物を見つけたり逃げている最中にもただ叫んでばかりだったが(というか最近叫んでしかいない気がする)、今回の叫びはまた違う恐怖によるものだった。胃からこみあげてくる酸っぱい液体を必死でこらえつつ、三半規管を理性でだまそうとする。
しかし視界は騙せそうにない。空が下に、空が上に。地面が上に、地面が下に。ぐるぐると、くるくると回りながら、私は、空を舞っていた。
この男の子を離したらいけないと無我夢中で私は腕を強く引き締める。ぎゅっと、もう一段強く抱きしめる。まさか愛する人でもないのにこんなに強く抱擁することがあったなんて。私は想像だにしていなかった。
なんて、そんな現実逃避にも似た妄想――
「ん、んー! んー!」
胃からこみあげてきたそれを必死で抑える。腕はふさがっているため、口を強く閉じて、抱き着いている彼の背中にくっつける。背中にチュー? いや、そんなロマンチックなものじゃない。
ダイビングだ。
スカイダイビングか。
男女二人が、スカイダイビング。
なるほど、確かに海と山の見える景色は素敵だし、そんな上空で飛ぶというのも、なかなかない体験だと思う。ロマンチックの極みだ。そしてそれを男の子と一緒に。そんなのもう最高だ。人生における思い出。いつまでも忘れないような思い出になるはずだ。
でもそんな余裕は私にはなかった。私にできるのはただ目を開けたり閉じたりして、口をしっかり閉じて、腕でしっかり彼を離さないことだけだ。
ロマンチックとか、そんなことを感じる余裕はない。
命の危機にも似たものを感じる。
「おい! お前、大丈夫か!?」
彼の声が、身体の振動を通しても伝わってくる。
大丈夫かだって? 大丈夫なわけがない。人生で初めてのスカイダイビング。きゃーわたしスカイダイビング初めてなのーこわいーとか、そういうのでもない。準備の時間なんてなかった。パラシュートの準備とかそんな贅沢なことは言わないが、せめて心の準備くらいはさせてほしかった。1秒だけでも。いや1秒はあったか、あのやりとりの間に、心を落ち着かせる時間はあったのだ。
……いいや落ち着け、落ち着け吉光里利。彼はそんなこと一言も言わなかった。ただ捕まれと……抱き着けだっけ? そういっただけだ。抱き着いた後何をするかとかそんなことは聞かされていない。
やっぱり前準備なんてなかったのだ。
そもそもどうして、私は――私たちは、空を飛んでいるんだ?
「もうしばらく捕まってろよ!? ちっ、逃げるだなんて、俺らしくもないぜ
……クソっ!」
逃げる。
逃げるのか。
あの化け物から――そうか、私は化け物に追われていたんだった。得体のしれない色をした――いや、赤色か。今日は赤色だった。色なんて関係ないか。あの得体のしれない、この世のものならざる化け物に追われて、私はこうして空を飛んでいるのだ。
そう、少年が――この彼が、日本刀だなんてものをもって私を助けてくれたのだ。
あれ? つながらない。
少年が来た。化け物と戦ってくれた。
そこまではわかる。救世主とかそういう人だと考えることができる。とても妄想的な考え方だが、そう考えるに十分な状況はそろっていたはずだ。彼の正体がなんてあろうと、私を助けてくれたことには変わりはない。
して――なぜ、空を飛んでいるのか? 私はあの薄暗い路地から自分も知らない道に入り込んでしまって、行き止まりに当たったはずだ。
そこで彼が助けてくれて……一瞬のうちに上空だ。
あれ? どういうことだ?
上昇するという過程がないぞ?
上昇はしたはずだ。あんなに地面が遠くに見える。むしろ空のように見える。だって、空に落ちている感覚がするもの。上下感覚がくるっている感覚がするもの。地上にいた時の、地上に引っ張られているとは言わないまでも、上下という概念を束縛しているような感覚。あの感覚が、今は逆で――
「……んんん!!??」
確信した。いや、混乱に違いない。そんなことなんてありえないのだ。そんなことは、あっちゃいけない。確かに私は落ちている。地面に立っていない(垂直抗力が働いていない)から、確かに落ちて行っている。重力に従って落ちて行っているはずだ。物理はあまりできないのだけれど(偏差値は53。たぶん全然わかってない。分かるつもりもないけど)、でも常識的にこんな状態はありえないことが理解できる。
理解?
感覚を理解するなんて、そんなことができるのか?
そんなことはどうでもいい。私が感じていること、それは――地面が空であるという錯覚だ。空が私を受け入れてくれているような、空に向かって、落ちているようなそんな感じがする。
つまり……上に、落ちている。
「んんんーー!!!」
私は動物的に、その異常さに思考を停止させるほかなかった。