Ⅳ
さすがに家の前に連れてくるのはまずいだろう! と私は直前で思い直し、路地をさらに奥へと走る。ただしこの選択もまた失敗だったと、後で思わざるを得ない。家の前の道からでも、市街地へと抜け出ることのできる道はあったのに。
「ちょっ……行き止まり……!?」
嘘だろ。
こんなところに、自分の慣れ親しんだはずの路地で、まさか自分が追い込まれるだなんて。まさか思いもしなかった。やっぱりテリトリーというのは、あの化け物のテリトリーじゃなかったのかと思う。私のテリトリーであるわけではなかったのだ。
行き止まりらしい行き止まり。三方をマンションの裏面に囲まれた――というか、どんな地形になっているんだ? 上空からこの辺りを見たことがないから、よくわからない。あの化け物はわかるのだろうか。つまり私が自ら行き止まりへ向かう様子を見ていたのだろうか。だとしたら無様な姿を晒してしまった。そんな化け物が、目の前で、私にその爪を向けいている。
恥を感じる前に、恐怖を感じるべきなのだけれど――
「誰か……誰か、助けてぇー!」
無様にも私は叫んだ。助けなんて、こんなところに来てくれるはずなんてないのに――
「はいはい、たすけますよーっと」
そんな軽い声が聞こえたのは、私が叫んだ直後だった。
化け物が今にも私に迫って来ようとするその瞬間、赤い影が、突然舞い降りた。かんかんかん、という音がすぐに響く。その影は人の形をしており、私に背中を向けていた。ジーンズにパーカーか。
彼は日本刀を持っていた。
日本刀かよ。
そう思ってしまった。だってこの現代日本でそんなに見るものじゃないし、かといってそんなに魅力があふれるほど強い武器でもないし……拳銃とか、飛行機とか、強いと言ったら、現実的にはそういうことだろう? でも、そこであえての日本刀。現代においては鉛玉一発にさえかなわない、弱い部類の武器。
そして日本では銃刀法違反。
捕まるぞ?
なんて、そんな呑気に考えていた。私は正気に戻って、彼の姿を見る。子供? いや……高校生? にしてはパーカーにジーンズ。高校に通ってない人かな? と私はまた呑気なことを考える。
「あ……あなたは」
「ちっ、ちょっとお前黙ってろ!」
日本刀と化け物の爪が、キンという音とともに離れる。火花こそは飛び散りはしないものの、その鋭さは伝わってきた。自分が化け物という非現実の、もう一つ先の非現実に迷い込んでしまったのか。そう思わせる音だった。
彼は日本刀で化け物の攻撃をしのぎながら、少しずつその本体に刃を入れていく。血は出ない。それ以前に刃が本当に入っているのかよくわからない。透明か不透明かもわからない非現実的物体に、物理攻撃が通用するのか。
しかし化け物は彼の日本刀により圧されているようだった。少しずつ私から遠ざかっていく。
ただ、彼の表情は苦しそうだった。攻撃してはいるものの、膠着状態であることに変わりはない。進展しない現状に対して、苦々しく思っているようだ。
「くそっ、こいつ……今日はしぶといじゃねえか!」
彼はその言葉を吐き、日本刀をよりすばやく振る。その動きを私は追うことができなかったが、とても戦いに特化した効率的なものに見えた。めった刺し、めちゃくちゃな振りに見えるが、その実はただ純粋に化け物を倒す、切り刻むという方向に純粋に向かっている。爪による攻撃をかわしつつ、彼は着実に一撃一撃、化け物に刃を突き立てていった。
「あの……」
「うるせえよ! こいつを殺した後はなんでも言うこと聞いてやらあ! だから今は口を出すな!」
なんでも? なんでもいいのか? その無責任な言葉を信じていいのやら。
……どうやらあまり頭のほうはよくないらしい。剣術には不要か……。剣道部の人たちに対する偏見だろうか。というか運動部で頭がいいという人はあまり聞いたことがない気がする。盗み聞きの内容だけど。
しかしなんでもって。
本当になんでもいいのかと思ってしまう。
……むしろ。
「に……逃げてください!」
恩義を感じなければならなくなってしまう。
彼が、私の命の恩人になってしまう。私がなんでもしなければならなくなる。
そういう、他人に迷惑をかけるのは……嫌だ。私はとにかく、目立ちたくない。この人生も平凡に終わる。他人の人生にも干渉したくない。そういうのは、嫌だ。
自分の平凡な人生に、つまらない、ダメな人生に、他人を巻き込みたくない。
「ああ? 寝言言ってんじゃねえよ! 別にてめえのためにやってるわけじゃねえんだよ、この、クソがっ!」
私のために、やっているんじゃない。
「恩義とか、そーゆーのわかんねえからなぁ! 俺は俺のやりたいようにやってるだけだ! 誰にも邪魔させねえ誰にも干渉されねえ! 俺のことは、俺が決める! この化け物を殺す! だから殺す! そんだけだ! いいから気が散るから黙ってろ!」
彼はそういいながら、剣さばきをさらに速める。どうして、どうしてこんな……自分を中心にして生きているのだろう。自己中心的。他人をまったく慮らない言動。そういうのは一般的にあまり受け入れられない。しかし、どうしてだろう。
私は、そんな彼が――まぶしく見えた。
自分に一途で、一生懸命で――そんな姿が、とてもまぶしかった。
もちろん、吊り橋効果かもしれないけれど。
「でも、これじゃあ……」
そんな他人のことを考えている余裕はないのだ。私は、もとい私たちはいま化け物に襲われている。いつ死ぬかも分からない状況で、三方を壁に囲まれ、うち一方を化け物に阻まれている。
そして、彼が化け物を少し圧してはいるものの、膠着状態と言える状況。どうしようもない。逃げようにも、逃げられない。
「……ちっ、くそっ。なんでこんなに硬いんだ……昨日は、こうでもなかったのにな
ぁっ!」
もう一度キンッと刃が鳴る。
昨日? 昨日も――この人は、この化け物と戦ったのだろうか? 昨日化け物をまいたと思ったのは、あの人と戦っていたからなのだろうか。
昨日も、こんな戦いがあったのか。
冷静に見てはいたが、内心ではとても怖かった。化け物もそうだが、彼のその剣さばきに。
暴力的な剣戟に、私は恐怖していた。
がん、がん、がん、と音がするたびに、人が一人死ぬんじゃないかと思えるほどの力がぶつかっていることを感じる。そんな暴力的な音が、怖かった。
「……こりゃあ。おい! お前!」
「はいっ!」
「俺に抱き着け!」
えっ。
あそこに近づくの? すぐ近くで戦ってくれているけど他人のように見ていた。あの危険地帯に、自分から入っていくなんて。さらに抱き着くとは。年頃の女の子が、男の子に抱き着くというそんなキャッキャウフフな青春なことは、私にはまったくかかわりのないことで。
「抱き着かないと殺すぞ!」
「はいっ!」
死にたくないから、抱き着いた。
そのとき、世界が、ぐるんと、ゆがんだ。