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吉光里利の化け物殺し 第一話  作者: 由条仁史
最終章 少し楽しいことかもしれない
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 ……痛くて痛くてたまらない。こんなに痛いんだ。切られるって。私も包丁を使っているとき何度か指を切ったことがあるし、紙でも切ったことがある。でもこんなに痛いだなんて思いもしなかった。

 本当に死ぬんじゃないかと思った。


 でも、それでも、さとりだけは助けないといけないと思った。昨日ひどいことを言った相手でも、友達なのだから。

 ……友達だから、私は身を挺してかばったのか? ただそれだけの理由で、私はこうして痛い思いをしているのか?


 私にとって、さとりは何だったんだろう。


 友達だとは思っている。それも、化け物のことを共有した友達に。漫画のことで昨日怒ってしまうほどの、友達だった。親友だった。


 でも、他人だ。


 他人のための自己犠牲の精神なんて、私は持っていなかったはずなのに。それが美徳だということは知っていたけど、実際にできるかなんてわからなかったのに。

 ……涙がとまらない。


 ルートさんが呼んだのだろう。部下らしき、それも医療班ちっくな人たちが集まっている。そして私を担架の上に置いて、ワゴン車らしき車に乗せられた。ワゴン車といっても、内装はほとんどなく――シートも運転席と助手席しかなかった――資料で見た救急車の中のようだった。そこで私はうつぶせになり、じっと背中の痛みに耐える。たまに染みて痛くなるが、それもこらえつつ。


 痛いから、泣いているのか。

 それは泣く口実かもしれなかった。


 私は今日も、ずっと泣いていたのだ。ただ、涙がこぼれなかったというだけで。心の中ではしっかりと泣いていたのだ……。


 どうして泣いていたんだろう。


 悲しかったから。何が? 漫画家になれないこと? それもそうだ。私がこれまでやってきたことが丸ごと否定されたようで、私自身が否定されたようで。言いようもない悲しみにさいなまれていた。


 でも、それだけか。


 さとり。


 さとりのことを考えずにはいられない。


 私は――白状しよう。


 私は、さとりを、吉光里利を軽蔑していた。


 ひとりぼっちで友達もいない、そして何も信条にしていないような、何も努力していない様子。人を周りに寄せ付けないで、自分しか世界にいないように思っている。そんなかわいそうな様子に、同情していた。上から目線で、同情していた。


 蔑んでいた。


 見下していたのだ。


 それが、余計に悲しい。


「うっ……くっ……ぁ……」


 悔しい。


 自分がそんな風にさとりのことを考えていたのだということが、こらえようもなく悔しい。そんな自分が嫌になる。私はそんなに最低の人間だったのか。人の悪いところを見て、見下して、優越感を得ようとする最低な、最悪な人間だったのか。


 涙が止まらない。


 背中ではなく、心の痛みに苛まれて。


 さとり。


 さとり。


 無事だろうか。化け物を引き付ける能力で被害を最小限にしようとしているようだったが、うまくいっただろうか。さとりも私と同じように傷ついていたりしていないだろうか。


 大丈夫だと、信じよう。


 ……信じる?


 さとりは、私を――見捨てたのではないか? 私を見捨てて、自分だけ安全地帯に逃げようとしていたのではないか?

 やっぱりさとりは、自分のことしか考えて――


「……っ! ぐぅ……っ!」


 奥歯をぎりぎりとかみしめて、拳を強く握る。


 そんなわけあるか、寝ぼけるな私。目を覚ませ星宮紗那! そんなわけ、あるか。


 さとりは、そんな奴じゃない。さとりを見下すのも大概にしろ、星宮紗那!

 さとりに近づいたのは、仲良くなろうと思ったのは確かにそういう気持ちもあったかもしれない。でも、さとりは見下すべき人間ではなかった。褒められることをしたひとではないかもしれない。けれど、蔑むなんてとんでもない、むしろ私よりも立派な人間だ!


 決して独りぼっちでも、寂しさに根を上げない。決してわがままを言わない。なんでもないことで当然のようなことでも、私には絶対に不可能なことなのだから。独りぼっちなんて蔑まれようと何も思わない、むしろ蔑まれることを受け入れるだなんて、私には到底できないことだから。


 それにさとりはちゃんと報告してくれた。私が怪我をしていることを。そしてこうも言った。化け物を引き付けると。

 何も言わずに一目散に逃げだすこともできたはずなのに。そうしなかった。

 テンパって何も考えられずに逃げだす、ということもなく。


 なんだよ、その責任感。

 惚れるじゃないか。


「くそう、くそぅ……」


 もう迷うものか。もう、さとりのことを蔑むものか。さとりはかわいそうな人間じゃない。確かにそういう面があることは認めよう。でも、それ以上の何かを持っている。


 誰にもない、何かを。


 それは例えば正義なのかもしれない。


 最も純化された、仁義なのかもしれない。


 さとりはさとりで、正しく生きているのだ。


 では、私は。


 私も、さとりみたいに――正しく、生きたい。


 なら、どうするか?


 答えは、明白だった……


「ぐ……ぐっ……!」


「ああ、ダメです、まだ安静にしないと!」


 立ち上がろうとしたが、激痛が襲う。周りにいた治療医かなにがしの人に止められた。


「……行かなきゃ、いけないんです……私は」


 それでも、私は行くんだ。さとりのもとに、さとりを助けに行かないと。


「やめとけ。行くな」


 そう言ったのはルートさんだった。助手席に座っている。後ろ姿がうつぶせの状態でも見える。


「お前が行ったところで戦力にはならん。手負いはおとなしくしておくのが一番だ」


「手負い……でも」


「でももだってもねえ。そんなことをして何になる。お前の傷はもっとひどくなる。死んでいなかっただけまだましだ……事実、あと少し深かったら、本当に死んでいたかもしれないんだからな」


「…………」


 本当に死んでいたかもしれない。

 そんなこと、喰らった本人だからわかっている。


「いいからそこでおとなしくしてろ」


「おとなしくなんか……してられません」


「……何度言ったら」


「じっと黙っておくなんてできません!」


 ルートさんの言葉をさえぎって、私は言う。


「ここで行かなきゃ、行かなきゃいけないんです。行かなかったら……私が、認められないんです。私は! 私を認められないんです! だから……だから!」


 めちゃくちゃなことを言っていることには気づいている。

 でも、それが今の私の気持ちだった。


 じっとしてなんかいられない。


 さとりのことを、同情や哀れみではなく、友情として見ること。さとりを心の底から一点の曇りもなく友情を信じている自分。それを信じられなくなってしまう。


 私は、私を信じられなくなってしまう。


「だから……だから……。なんで……」


 動きたいけど、実際のところは動けなかった。


 痛いのだ。


 背中が。


 その痛みに打ち勝って立ち上がることが、今の私にはできないのだ。


 どうして、どうしてこんなときに背中に傷を負っているんだろう。あの化け物から傷を受けたのだろう。そんなことわかりきっている。私が入ってきたからだ。私が化け物の世界に首を突っ込んだからだ。さとりを守るために。

 そうだ。さとりを守るんだ。私は、なによりも、さとりを守りたかったんだ。


 だから――突き飛ばしたんだ。自分から、体当たりをするように。


 だから、傷を負った。紗那を守るための傷だ。


「リリを助けられたなら、それでお前は十分に役目を果たした。十分だ……。あとは俺と、ジャックに任せろ」


 ルートさんはそう言う。何を。何を言っているんだ。何も守れていないじゃないか。現に今戦っているんだろう? さとりはまだ危険な状態にいるはずなんだ。そんな状態に追い込んでしまったのは、ほかでもない私だ。私がもっと早く気付いて、ふたりで無傷で戦えたら、少しは違ったのかもしれない。


 何か、何か私に、できることはないか?


 くそう、こういう状況、漫画ではどういう風に展開していたか。考えろ。この状況では何ができる? 考えろ。私には何ができる? 考えろ。私は漫画家だろう? たとえ描けなくても――


 私は、漫画家だ。


 私は、クリエイターだ!


「…………?」


 その時私は、何かを持っていた。何かを手渡されたか。自分の掌の中に、小さい箱のようなものがある。気がする。立方体に近い感触がする。ちょっとした金属のような重量感をもつ小さな箱。

 なんだろうと私は背中を気にしつつ、右手を顔の前に寄せる。

 右手を見る。右手で握ったものを見ると――


 そこには、何も見えなかった。


 何もないものを、つかんでいた。

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