Ⅲ
翌朝。私はぐったりしていた。
昨日の実験は、ルートの仮説を正しいと裏付けるだけのものであった。実験は1回で終わることはなく、私は何度も走り、そのたびにジャックに助けられていた。3回か4回か5回かやったあと、私が疲れ切ったことを伝えるとルートは「もう十分だろ」と言ってジャックに化け物を倒しに行かせた。結局その化け物は天地分裂によって一撃で倒された。それを見て私はやはり得意不得意と言うものはあるんだろうなと思った。魂の色と言うのがあるのかはわからないが、少なくともそれに似た関係はあるのではないかと思った。
思っただけで、根拠なんてものは何もないんだけど。ただの経験則なのだろうけれど。今回のように実験をしていたわけではない。
……経験則とか言えるようになるほど私は化け物と関わってきたのか。
思えばもう一週間以上になる。さすがにかかわりすぎではないかと思わずにはいられない。そこまで化け物にかかわることになるとは、一週間前は思うはずもなかった。
「おはよー! さとりー!」
いつも通り登校していると、後ろから声が聞こえた。振り返ると、いつものように紗那だった。朝から元気いっぱいだ。昨日走り続けて(化け物に追われながら)疲れてしまったのでぐったりしているが、紗那はそんなことないんだろうな。いつも明るい性格で、天真爛漫というのか、無邪気と言うのか。本当に楽しそうな人だ。
「おはよう」
「おはよおはよ。今日もいい天気だね!」
いい天気か? 空を見る。なるほどいい天気だ。雲はいくつもあるものの青空が広がっていて、いい天気と言えよう。
いつも空なんて見ないから、まったくそういうのを気にかけたことはなかった。天気だなんて、そんなことを毎日気にしてはいなかった。せいぜい曇っていて雲行きが怪しい時にだけ天気予報を覗く程度だ。こんな晴れた日に空を見上げることなんてあまりない。
いや、あったか。休み時間、一人でぼうっと外を見ることは、たまにある。
「さ、きょうもがんばろう! うん!」
明るい声で紗那は言う。しかしその言葉に、私は何とも言えない違和感を覚えた。いつも屈託のない、よどみのない言葉でしゃべるが、今日はそんな風には思えなかった。何か隠していることがあるような、何か後ろめたいことがあるような。
後ろめたいことと言えば、私のほうが大量にあるのだけれど。
主にあの化け物のことだ。昨日もあの化け物に追われていたのなんて言っても、信じてはもらえないだろう。そんな事実を言うわけにはいかない。もし信じてくれるとしても、関係のない人に迷惑をかけるわけにはいけない。それは私があの化け物のことを秘密にしたいとかそういうことじゃなくて、ルートのほうに迷惑がかかると思ったからだ。えっと……あの組織と言うか、団体の名前なんだっけ。まったく覚えていない。もうすこし覚えやすい名前ならよかったのに。まあ、人の名前を憶えているだけでもいいものとしよう。
ルートの本名は龍斗だったか。「と」は「はかる」の斗だったということは覚えている。上の名前、苗字は覚えていない。結局そういうものだ。
えーっと。ちなみにこの紗那の名前は紗那で、苗字は……そうだ、星宮だ。きれいな名前だと思う。
そしてあだ名はサニー。太陽のように明るい性格をしている。
よしよし、覚えている。私は少し安心した。
「……あのさ。今日、部室に来てみない?」
「え?」
部室、部活? なんだっけ。紗那の部活。明るいから運動系だったっけ。バレー部かバスケ部か……いや、吹奏楽部と言う可能性もある。いずれにしてもハードそうだ。
「文芸部に、ちょっと遊びに来ない? ただ遊びに来るだけでいいからさ」
ああ、そうだった。文芸部だった。確か漫画研究会も兼ねていたのだった。
覚えていないなんて、相変わらず私は薄情だな。
「うん、いいよ。別に何も用事はないし」
一応礼儀として、そう答えておいた。興味はないが、紗那が来てほしいと言っているのだから、それを邪魔するわけにはいかないだろう。
「ありがとう!」
紗那は相変わらず明るい言葉で、そう答えた。
「…………」
その直後、紗那の顔が曇ったことに、私は気づけなかった。
不思議な距離感があったことに、気が付かなかった。
文芸部の部室は少し特殊だった。私たちの通う学校は運動部はグラウンドわきの部室棟にひとつ部屋をもらうが、文化部には教室が一つまるごと与えられる。広さは2倍近くになる。
らしい。私は部活に入っていない。
だから文芸部の部室に来た時も、普通の教室の大きさであることには特に何も感じなかった。一つの部活が使うにしては広いんじゃないかとか、そういうことは考えなかった。
それよりすごいと思ったのは、個室があることだった。個室と言ってもビジネス用の仕切り(なんていうのか正式名称が分からない)があって、それが等間隔にあるだけのことだ。しかしそこには確実にプライベートが存在していた。学校というプライベートを抹殺するような場所においてここまでプライベートの確保がなされている空間があることには驚きだった。
まるでアトリエだった。
「私たちはここをアトリエって呼んでるよ。ひとりひとりが作業するのにちょう
どいい空間を作ろうって話だよ」
なるほど、そうやって作業効率を上げようということか。誰もいないようだ。おお、パソコンが置いてある。あれは何だろう。絵をかくためのコンピュータだろうか。タブレットのようだ。なかなかに便利そうだ。余ったスペースには本棚があり、そこには漫画本がたくさんある。下段にはたくさんのイラスト指南本がある。テキストというのか。真面目なデッサン用からオタク的な萌えイラストの描き方まである。いや、萌え絵が真面目じゃないとかそういうわけじゃないよ。でも硬いのはデッサンとかそういうことでしょ? 小説は本棚にはあまりないようだ。完全にはないというわけではないが、ラノベがほとんどであり、真面目な小説と言うのはあまりないようだった。真面目な小説がどんな小説か、というのはよくわからないんだけど。
「だれも来てないね。あ、そこの椅子に座って。お茶出すから」
紗那のアトリエだろうか。細長い2メートルかける2メートルほどの、少し長方形らしい空間だ。その中にもイラストのテキストがあり、山積されていた。非常に綿密に読み込まれているようで、ページの端には折り目がたくさんついていた。どれだけ力が費やされてきたか、イラストや漫画と言ったものにまったく興味のない私にも感じ取れるほどだった。
端に立てかけてあったパイプ椅子を展開し、私はそれに座る。紗那を見ると、すぐそこにあるポットでコーヒーを注いでいるようだった。ポットもあるのか。この部室は非常に設備が整っているようだった。すべてがそろっているようだった。
「砂糖とミルク、どうする?」
急に言われて迷う。いつもコーヒーを飲んでいるわけじゃないから。私は特に何もこだわりなんてものはないので「適当にいいよ」と答えた。「じゃあ両方入れるよー」と紗那は答えた。マドラーで混ぜてくれたあと、私のもとにコーヒーを持ってきた。
「ありがとう」
お礼を言う。「いいよいいよ」と紗那は作業用の椅子に腰掛ける。パイプ椅子だがクッションのある上等なものだった。
紗那はコーヒーを一口含む。私も少し飲む。口をつけないのは失礼だろう。紗那はカップから口を離した後、ふぅと息を吐いた。
「……えっと、さ」
「うん」
おや? 何か雰囲気が違う。やんごとなきことを話し出す雰囲気だ。
どうするべきだろう。こんな重要な相談事をされるようなことはなかったものだかあら。とにかく私はじっくり話を聞くことにする。
「……あれって、なに?」
「……あれ、って?」
何か深刻な話をしているようだが、話がつかめない。あれとは、なんだろうか。こんなに遠回しに話すような人じゃないと思っていたが……。
「あの……化け物みたいなのって、何……?」
「――っ」
まさか、まさか――知られていた? いつ? あの化け物のことを、いつ知ったのだ?
「昨日、実はさとりを尾行しててね……尾行って言っても、ただ立ち聞きし
てただけだけど。あと、展望台から、見えて……」
なんてことだ。あの化け物のことを、知られてしまうとは。紗那を、巻き込んでしまったのか。ルートにどう説明しようか。
いや、それよりも。紗那は――どう思っているのか。
「ごめん」
謝られた。
「見るつもりはなかったんだけど……言わずにはいられなくて」
紗那はおそらく化け物のことを、私の秘密だと思っているのだろう。あながち間違いではないものの、そこまで知られて嫌になることではない。でも紗那にとってはそんなことわからないだろう。
私の、隠したかった秘密を知ってしまったと。
そう思っているのかもしれない。
「ごめん。本当に」
「……そんなに謝らないで。別に隠してるわけじゃないから。ただ、巻き込
んじゃったことに関して、驚いてるだけ……うん。とりあえず落ち着いて」
「……本当に、ごめん」
紗那は、涙をこぼし始めた。
声が震えている。手に持ったコーヒーの水面が揺れている。
そんなに泣くものじゃないだろうと私は席を立つ。
「ちょっ……泣かないでよ。そんなに深刻なものじゃないって」
確かにあの化け物は怖いけれど、私にとってはそこまで深刻なものじゃない。ただそこに化け物がいて、そして私が化け物を引き寄せる能力があるとしても、そこまで重大だと私は考えていない。
でも、それも紗那は重大で、致命的だと思うのだろう。
……どうしてそう思うのか、私にはさっぱりわからないけれど。これは私が薄情だからなのだろうか。人の気持ちが分かれば、紗那がどうして泣いたかも、分かるのだろうか。
「ごめん……本当に」
「ああ、もう謝らなくていいんだって。秘密にしてたのには理由もあるし……ちょっと落ち着いてよ」
まさか紗那が、泣き出すとは。
化け物のことを知っていたことよりも驚くべきことであった。




