Ⅰ
ルートは私の通学路である例の薄暗い路地まで私を運んだ。途中まで送ってもらったような形になったので、少しありがたいと思う。その反面少し拍子抜けであった。別に歩いても行けるのに。まあ、歩く分には十分以上はかかるんだけど。
思えば道を歩くということは、その道をかみしめるということなのかもしれない。こうして車で送られてしまうと、道を歩いた気がしない。家に帰るといういつもどおりの行為が、こうして日々の生きている実感を得られるのかもしれない。
日々の生きている気なんて、そんなに感じたことはないけど。
「さて、あれが化け物だな。やはりいたか」
そう冷静にルートは言った。あの化け物が目の前にいるというのに。ちなみに今日の色は緑。相変わらず透明か不透明かもわからない、輪郭だけははっきりした、何匹もの怪獣と言う怪獣を組み合わせたような、奇妙な形をした化け物。
ひと目見ただけで恐怖を感じる。
ルートのほうを見るがそんなことお構いなしのように、平然と見ている。ただ化け物を、そこにある物体として。いつも見るコンクリートのブロックのように、無機物的に見ている。よくそんな平然と見られるものだ。
しかしまあ、私も悲鳴の一つも上げずにじっと化け物を見据えることができているのだから慣れたものだ。慣れてしまってはいけないことだと思うけど。
……というか、こんなに大人数で――3人しかいないが――化け物に向かうなんて、そんなことをすることになるとは、つゆほども思っていなかった。大人数で行動するような奴じゃないし、化け物だなんて誰にも共感されないようなものを大人数で見るとは思わなかった。あの非現実を、誰かと共有するなんて。
私らしくもない。
誰とも何も関わりを持とうとしなかった、私らしくもない。
「緑色か……これは、ジャックのほうが相性がよさそうだ」
ルートさんはそういうことを言う。
「相性? 相性なんてものがあるんですか?」
そういう理屈は、化け物には一切通用しないと思っていたが。ルートの口ぶりは断定的だ。間違いのない、自信に満ちた声だった。化け物を前にして口から出る言葉なので、かなり確実な情報なのだろう。
「ああ。まず化け物には観測されている限り、赤橙黄緑青藍紫、まあ多種多様な色をしたものがいる。そして、それは相性となる。おそらく人間の魂の色と連動している」
おおお?
何か変なこと言いだしたぞこの人。魂の、色?
どういうことだろうか。まさか情熱的なのは赤色で、冷静沈着なのは青色とか? そういうことだろうか。
「おいおい、そんなの初耳だぞルート、なんだそれ、どういうことだよ」
ジャックは文句を垂れる。ジャックも初耳だったのか。
……と言うことはあの赤色の化け物にジャックが苦戦したということに説明がつくのかもしれない。化け物なんて科学と相反するような概念に理屈なんてものを当てはめることができるかはまだ何ともわからない。でも、一応理屈が付けば少しは安心する。
人間は正しいものより、秩序だったものが好きなのだ。
正確かどうかは関係なく、そこに因果関係や理由を見出すことができれば、それだけでいいのだ。
「ふん、お前に言っても理解できないと思ってな」
「んだとぉ?」
眉を寄せて、ジャックはルートを睨む。バカだと暗喩で罵られたのだ。そのくらい分かっている。私はジャックのことを一種の馬鹿だと思っているが、口には出さない。人の悪口は言うものじゃないし。ジャックにもプライドはあるのだろう。
男のプライドというやつか?
バカにされて怒るというのはまっとうなものだとは思うが、男のプライド。男らしさへのプライドと言うのは、わからない。女には男が分からない。
まあ、私が分からないだけなのかもしれないけれど。そもそも他人に共感なんてしたことないし。されたこともめったにないし。
「てめえ、今から何をやるかは知らねえが、俺がなんでもてめえの思い通りになると思ったら大間違いだからな。俺は俺の好きにやらせてもらって
る。付き合ってやってるだけありがたいと思え」
「それはこっちのセリフだ、ジャック。俺たちの援助がなければ、お前は生きていくこともできないというのに。ふん、学もないようじゃ、本当に路頭に迷うぞ」
「……ちっ。ありがたい年上からの忠告ってやつか? そりゃどーも」
「ああそうだ。忠告だ。ありがたいと思え。お前は相当恵まれてるからな。俺があのときお前を見つけなかったら、今頃どうなっていたことやら」
「はん! それはそっちも一緒だろ。俺っていう戦う要因がいなくちゃあ、あんたの言う化け物の原因追及なんてのはできないんだろ。俺にこそ感謝をしろよな」
「……言葉を選ばないか? 口答えできる立場にあると思っているのか?」
「へ。世間話にキレんなよ。こんなのただの冗談だ」
……怖い会話だ。ルートはただでさえ怖い恰好なのに表情がもっと怖くなっている。眉間にしわが寄っていて、近寄りがたい雰囲気を放っている。いわゆるキレてる状態だ。私にはそう見える。もちろん私が過剰に怖がっているだけで、本当は心中すごく穏やかなのかもしれないけれど。
「まあ、相性についてはジャックに説明するまでのこともない……お前は寒色系の化け物を倒すことが得意だ、ということだけ教えておこう」
「ああ? なんだよそのかんしょくけいってのは。感触? あの化け物に触ることはままあるが、そんなことしたくねえよ」
ジャックは嫌そうな顔をする。ルートはそんなジャックの受け答えを見て、肩をすくめて息をふうと吐く。私のほうを見る。あ、これはアイコンタクトだ。
「……寒色系っていうのは、青とか、白とか。そういう冷たい感じの色のこと。逆に赤とか橙とかは暖色系、暖かい色って書くの。……たぶん、ジャックは暖色系の化け物に対して苦戦するってことじゃないのかな」
私が解説してやる。そういうとジャックは「なるほど、寒い色と書いて寒色ね……そういうことなら俺にもわかるぞ」とつぶやいていた。理解できたのなら良しとしよう。
「ってことは、緑色も寒色で、つまり俺の出番ってことだな」
まあ、緑色は中性色なんだけど。いろんな意見もあるだろうけれど、私は心の中ではそう思った。ルートがジャックの専門だといったのならそういうことでいいはずだ。
まあ、確かに暖色の代表が赤で、それがジャックなのだとしたら――髪は青いが――緑色は補色になる。
目に焼き付く、反対の色。
……まさか美術の授業で身に着けた知識がこんなところで生かされるとは思っていなかった。
「今回やるのは、実験だ。お前が戦うのはそれが終わってからだ」
「戦いじゃねえ、殺しだ……何の実験だよ。被害が出る前に止めないといけないだろ」
律儀と言うかバカ真面目みたいに訂正するジャック。そこにプライドを持ってきたってしょうがないだろうに。
「もちろんそうだ。誰一人も被害者は出さない。誰も傷つけない。それが今回の実験の、最低目標だ」
最低目標……ということはほかにも目的があるということだ。私はルートの言葉の続きを待つ。
「そして主目標――リリの能力の検証だ」
「え、私?」
急に呼ばれて驚いた。もう関係のないことだと思っていたのに――というのは現実逃避のし過ぎか。そうだよな……車の中で話したことは、私に関することだった。
私は、化け物を引き寄せる能力がある――という仮説。
仮説だと聞かされた時には、びっくりするようであり、でも仮説と言うには実証がなされていないただのあてずっぽうだという可能性もあるのだ。
しかし、その検証か。
……そろそろ私も腹をくくらなければならないのではないか? 私の能力が、何なのか。そんなもの身に着けた覚えはないけれど――化け物を引き寄せる能力。あの奇妙で、この世のものならざるものを、引き寄せる能力。
それがあるのかどうか。
向き合わなければならないのか。
怖い。
逃げたい。
今すぐにこんなところからいなくなりたい。こんな非現実で超常的なところに居たくない。私は現実逃避を、やはり心のどこかでしていた。
ふわふわした、自分が何をやっているのか、わからなくなるような感覚がする。
「まずこの十字路で、化け物がどの方向に行くのかを調べる。右折したところには、リリがいてくれ」
「は、はい」
内容を理解しているのか、自分の頭の中ではそれは曖昧だった。ただ話の流れで、はいと言っただけだ。
「そっちだぞ。間違えるなよ」
「う、うん。そのくらい間違えないって」
「俺は正面、ジャックはもう一方を頼む」
「おう。こっちだな」
正面をルートが担当するか。化け物からの視線が通る、一番危険な場所だ。その最も危険な場所に、提案者自ら志願する。当然と言えば当然なのかもしれないが、やはりすごいなと思った。
「よし、二人ともついたな」
逃げる方向と言うのか、ルートの言われた方向に私とジャックはつく。十字路を向き合う形だ。……奇妙な形だ。私の真正面にいるのはジャック。右手にはルート。そして左手の向こう側には化け物がいる。化け物を倒さんとしている二人と、当の化け物がいる。
ちなみに私たちの乗っていたリムジンはジャックのほうにある。なるほど、正面に向かってくる可能性が一番高いから、避難させているのか。さすがに高級車だから、傷をつけるわけにはいかないだろう。ジャックの性格からしてこの高級車に十円傷でもつけるかと思ったが、さすがにそんなことはしないようだ。そこまでふざけてはいないか。
「俺が化け物を引き付ける。俺が近づいて来たら、二人とも逃げろ。今回は実験だ。殺すなよ、ジャック」
「わーってるって。そして、二人とも回収するんだろ? 俺に向かって追ってきたかどうかにかかわらず、俺が二人を迎えに行く。飛行して……そういう流れになるんだろ?」
「ああ、そうだ。わかっているじゃないか。そのくらいの頭はあるか」
「……かちーん。後で首洗って待ってろ」
ルートがジャックをバカにする。なるほど、何回か実験をしなければ仮説は実証できないのか。その場で化け物を殺してしまっては何度も実験することができない。恐ろしい話だが、仕方のないことなのか。仮説の実証――そうだ。ここで私はようやく実感し始めた。
これは、化け物を私に向かわせる実験なのだと――
「……ジャック、本当にいち早く助けてね。私、死にたくないから」
心臓がばくばくと動いている。私はできる限りシリアスにジャックに言った。いや、本当に死にたくない。実験の最中に死んだなんて嫌だ。戦える人がそばにいるのなら安心できるが、その二人はどちらも私に向かい合った場所にいる。一緒の方向に逃げてはくれない。私は一人で逃げなければならない。
自分の身は自分で守らなければならない。
はじめて化け物に会った時がそうだったか。
あれからジャックにお世話になりっぱなしだ。いつの間にジャックが助けてくれるのが当たり前になったのか。そんなものは当たり前じゃないのに。
一人でいるのが、普通だったのに。
だからこうして、一人で逃げるのは普通なのか。
「あくまでも平常心で頼む。パニックに陥ると、何がどうなるかはわからない。くれぐれもジャックは早く動けるようにしておいてくれ」
「ああ、こんなところでリリを殺すわけにはいかねえ、くれぐれも安全第一だ。リリ、とにかくお前は走れ」
「う、うん」
ジャックは脚を曲げ伸ばしして、筋肉を伸ばしている。私もそれに倣って、ストレッチをする。体育の授業が、まさかこんなところで役に立つとは。ううむ。学校でやることは馬鹿にはできないことばかりだ。クラスの中には大学受験に必要な科目しか価値がないと言って、それ以外の補助的な授業を見下しているひともいた気がする。そういう考え方は損しているように思う。
「それじゃあ、行くぞ」
ルートは宣言し、左手に、つまり化け物に向かって歩いていく。いよいよだ。冷汗がわいてくる。うまくいけるだろうか。逃げるしかないけれど。逃げるだけでいいが、逃げなければならない。やるべきことがあるというのは、緊張することだ。
この短い時間に、ジャックは目くばせをしてきた。ジャックは私を見て、うなずいた。私もうなずく。なぜそうするのかということはわからなかったが、せずにはいられなかった。
私は「ちゃんと助けてね」と送ろう。
ジャックは「ちゃんと助ける」という意味でアイコンタクトを送ってくれたのだろうか。そうだと願いたい。
ルートがこちらに向かって走ってくる。ジャックは口で「行け」と言った。私はそれを見た瞬間に、後ろに向かって走り出した。
後ろのことなのでよくわからないが、化け物は交差点のところでずん、と足音を止めた。そして、私に向かって足音が近づいてくる。どすどすと。私はルートの仮説にこれ以上ないほどの説得力を感じながら、走った。
すぐに、ジャックは助けてくれた。




