Ⅱ
「さて、いよいよおでましかな」
私たちはあの薄暗い路地の入口にいた。ここを通れば私の家がもうすぐだ。しかし通るに通れない。まだ姿は見ていないものの、いる気がするのだ。
あの――化け物が。
今更になってすこし怖くなってきた。引き返すにはもう引き返せない状況だ。もちろん今から回れ右をして市街地に行き、遠回りをして帰ることもできる。しかし今日は一人ではなく、彼、ジャックがいる。彼は化け物を倒そうと、いや殺すのか。化け物を殺そうと躍起になっているのだ。
「今日こそはきっちり殺してやるよ」
気合は十分だった。引いてしまうほどに。そんな彼がいる中で、いまさら戻ることなんてできない。出来はするのだろうが、たぶん許してもらえない……。
「あのさ、私がいてもお荷物になる気がするんだけど……」
「ああ、お前は化け物を見たら、すぐに逃げろ。俺がその間にきっちりと殺してやる。もし化け物がお前を追ってきたとしても、俺が守ってやる。安心しろ」
守ってやるとは。
なんとも頼もしい言葉だ。普通の女の子だったら惚れてしまう。だが私は別にそんな彼に惚れたりはしない。
「はあ、まあ、それは……ありがとうございます」
そういう受け答えだった。
愛情よりも感謝の気持ちが上回った。感謝といってもおせっかいにも似たいやらしさを感じているのだけれど。それってある意味囮じゃないか? 私を餌にして化け物をおびき出す。そういう作戦なのだろう。私にとっては迷惑しかない作戦。
というか私、いらなくないか?
作戦に必要か?
私に関係なく、神出鬼没的に現れるのだろう? 数年前からそうだと言っていた。ならば私がここにいる必要はない。あとは彼ジャックに任せて、この場は退散したい。
「行くぞ」
「うん」
気軽に返事をしてしまったのを、返事をした直後に後悔してしまった。どうしてこういう肝心な時に私は口が滑ってしまうのか。そしてその言葉に任せてその通りに路地の中に進んでしまうのか。
軽率というのか。なんというのか。
私も彼のそういうところが移ってしまったか……。嫌な話だ。
「さあ来いや化け物ォ! 今日こそはぶっ殺してやるぜ!」
彼は叫んだ。物騒な言葉を。人通りが少ないといっても、ほとんどの方向を建物に囲まれているということは、建物の中にはそりゃあ人はいるのだろう。近所迷惑になりかねない。
これには私のほうが驚いた。単に大きな音に驚いたのだが、ここまでも殺気にあふれた声を聴いたことはあまりなかったからだ。先生の怒号くらいは何度か学校で聞いたことはあるが、殺気というのはこういうもののことを指すのか。ただまあ、私は怖いとは思ったけど、それで特にびっくりしたようなリアクションをとるわけではなく、あくまでも彼と同じ歩幅で歩くだけなのだが。
「野郎今日はぶっ殺してやるからなぁぁぁ!」
「……ちょっと、うるさいんだけど」
さすがに至近距離でそんな大声を出されては耳が痛くなる。頭に響く。
「ああ、ごめんな。だが今日こそはきっちり殺してやるんだ。もう――復活なんてさせねえさ」
復活。
そうだ――ジャックの言い分では、あの化け物は殺せるのだ。彼の言うには殺すことだけはできるようだ。そして、その化け物は殺されても、蘇るらしい。その様子を私は知らないが、殺してもよみがえる化け物らしい。
それは――つまり、殺し切れていないということではないだろうか。殺し切る。よみがえることのないように、すべてを殺す。根源から、元から断ち切る。そういうことを彼はやろうとしているのだ。
今までできていないらしいのに。
「殺し切る……って言うけど、勝算ってのはどのくらいあるの? 昨日は逃げたんでしょ? 私を連れて、飛行して」
「逃げたな。確かに。だがあれは戦略的撤退だ。逃げじゃない。負けてない。俺のほうが強い。それだけは確実だ」
その自信はどこから来たのだろうか。昨日の戦いでは、手数では勝っていたが、拮抗した状態を崩せぬままでいたのに。彼自身も、硬いと言っていた。いつもよりも、強度があると。強いということだ。
だから正直言って――この戦いで、彼が負ける可能性というのも考えなければならないと思う。いつでも彼は逃げだせるものの、逃げだせるからと言って、逃げられるとは限らない。本当にピンチになったときには、能力を使用して逃げだすことができなくなっているかもしれない。彼の性格的に、必死になって殺しに集中している間に気が付かずに死んでしまうなんてこともあるのかもしれない。
不慮の事故でも、人は死ぬ。
「無理はしないでね。一応心配はしているから」
「心配される義理はねえよ」
心配をものともしなかった。自分の心配をしていないようだ。自分は勝つと本気で思っているようだった。やはりバカだったのか。後先考えないのは突き進んでいくのならいいかもしれないが、生きる上ではただの蛮勇となる。無駄死にしかねない。とても危険だ。
そう思う。この人よく今まで生きてこれたなぁ。
「……来た」
「えっ」
彼の声に反応して、目の前をしっかり見る。突き当りのあたりに、おかしな黄色いものが見える。よくわからない色合いと、透明か不透明かわからない、形だけははっきりとした、そんなもの。
つまり――化け物がいた。
昨日も会った、化け物がいた。
まず彼は何を言うまでもなく走り出した。私はそれを追おうと思ったが、彼の足はなかなかに速く――いや、能力を使っているのか――私は一歩前に出て、そこから先を動くことができなかった。
彼は肩にかけていたバッグから日本刀を取り出し、思いっきり振り下ろす。
「天地指定――千本切り!」
がん、がん、がんと重力を何倍にもかけた刃が、化け物のその体を切り裂く。貫く。相変わらず切れいているのかどうかは傍からではよくわからない。しかし彼の刀を振り下ろす速度は、先日よりも飛躍的に上がってるようだ。
練習したのだろうか。と私はまたのんきに考えてしまう。
昨日は私が襲われているところに助けに入ったのだ。準備があまりできていなかったのだろう。いきなり空から落下してきて、そしてラッシュだ。今のように、通常の地面からの剣劇ではなかったのだから。通常の地面というのは彼にとって地面なんてあるのかないのかわからないのだけれど。
重力を操るのだから、地面なんてあってもないようなものなのだろう。
ただそれでも、地面に足をつけているだけで、結構違うだろう。
私には武道の経験なんてないからわからないけど。
というか喧嘩もしたことないから。
誰かを殴るなんて怖すぎて。
その点で言えば彼は私とは正反対なのかもしれない。私と正反対じゃない人間なんているのかわからないけど。あそこまで人に躊躇なく殴ることができるのか。人でもないし、拳でもないけど。日本刀だけど。
物騒な武器だ。
「ちっ……相変わらず、硬ぇなぁ……!」
昨日より剣劇の速度は早く、手数だけで考えれば昨日よりかなりダメージを与えているはずだ。しかし化け物のほうはそんなものをものともしていないようだ。勢いに少しずつ後ろには下がっているようだったが、昨日と同じような状況になっていた。
彼は負けじと、もっと力強く日本刀をたたきつける。がん、がん、がん。
その膠着状態が、昨日と同じように続く。
彼は私よりは体力はあるのだろうが、それでも日本刀を振り上げるのに、多少の疲労を抱えているようだった。息が少しずつ上がっている。汗をかいている。一撃の強さは変わらないようだったが、少しずつスピードが落ちているようだった。化け物はダメージを感じ始めているのか、化け物のほうの攻撃も少しずつ弱くなってきた。
しかしやはり、昨日とは変わらなかった。
「あ……」
私は気づいた。この狭い路地では、彼の日本刀は長すぎる。日本刀はその刃の鋭さよりも長さと重さが大事なのだと、どこかで聞いたことがある。この路地ではその長さが有効活用できない。腕力と、そして彼の能力で刀を振っているのだろうが、その速さには限度があり、そして威力も伸びないだろう。なんだっけ。力かける距離だっけ。仕事がエネルギーだったっけ。
「ジャ……」
ジャック、と呼ぼうとしたが急に気恥ずかしさがこみあげてくる。彼の名前を知ってから、その奇妙でなかなかない名前について不思議に思っていたりはしていたが、いざ呼ぼうとすると恥ずかしい。恥ずかしい名前だ。
それを私は大声で言おうとしていたのだ。
人の名前を大声で言ったこともないのに。そんなに恥ずかしい名前なんて大きな声で言うことなんてできない。
でも言わなきゃ! そんな恥ずかしさに負けてられない! なんというか、そういうの気にするのはどうかと思うから。
「ジャック!」
ああ恥ずかしい。大きな声でついぞ言ってしまった。
言わなきゃよかった、と後悔した。
ジャックだなんて。中二病と言うんだっけ? 絶対にこの人の本名はジャックじゃない。日本人系だもん。偏見かもしれないけど。
「ああ!? 何だ?」
ままよ。言うことは言ってしまおう。
「広い場所で戦ったほうがいいと思う! そっちのほうが力をかけやすいから!」
「はん、なるほどな……あっ!」
彼は私の言葉に答えて、刀で化け物の爪をはじきあげる。一度切り上げるのだ。彼は剣先を落とし、私に向かって走ってくる。
……え?
私のほうに走ってくる必要、ある?
そのまま上空へ飛べばいいだけの話でしょ?
しかし彼は私の考えに反して私に向かって全速力(だと思う)で駆けてくる。
「えっ」
私は少し後ずさる。彼の通れるように道を開けたほうがいいのだろうか? いや、そうする時間はなさそうだ。というか反応できない。間に合わずに、ぶつかってしまうだろう。
彼は私にぶつかろうとするときに、私の手を取った。そのまま彼の体の勢いに流される――
「飛ばすぜぇっ!」
「ええっ!?」
「吐くなよっ!」
ぐん、と上が下になる感覚がして。今度は彼にしがみつけるような時間もなかった。
気ただひたすらに気持ち悪くなる感覚の中、私はまた、上空へ落ちていった。




