プロローグ
誰かが、誰かを殴っています。
薄暗い部屋。窓からの光は途絶えた、激しく空しい音が響くだけの部屋。
ゴミは散乱し、腐ったような湿った酸っぱい臭いを放っています。
そんな場所で、誰かが誰かを殴っています。思いっきり、息をはじき出して、躊躇も見せず。殴り慣れているというのでしょうか。そんな悲しいこと、あっていいはずありません。でも、あってしまっていることです。現実は確定しきっています。いくら非現実的であろうとも、現実から目を背けたいといくら思っても、それが現実です。
ばかっ、ばかっ。そんな鈍い音が部屋をこだまします。べきっ、とも聞こえるかもしれません。その音とともに、泣き叫ぶような、唸るような声が響きます。
一発殴るたびに、その拳は赤くなっていきます。一発殴るたびに、その子の頬も赤くなっていきます。殴られた子のやわらかな口から何かが飛んでいきます。飛沫は透明であり、赤が混じってもいます。前者は唾液で、後者は血のようです。唇を切ったのか。それとも鼻血が止まらないのか。あるいは止めさせてもらえないのか。
はたまた、前者は涙なのでしょうか。
もちろん涙もありました。
腕が振り下ろされます。その子の顔が飛びます。もちろん顔だけがちぎれるわけがなく、首とつながった胴体も、頭部に流され、床に叩きつけられます。ごほっ、がはっ、なんて喘ぎ声はこの場では聞き飽きたものです。
床は彼女の飛沫に汚され――いや、この場合はむしろ、液体がかかったことで綺麗になったとも取れるのでしょうか。
もちろん、そんなわけありません。
床に血が飛んで、きれいになるわけがありません。ただでさえ汚いフローリングが、さらに汚くなっていきます。何かが破裂したような茶色い跡。赤く放射状に散らばった、血が飛び散った跡。くしゃくしゃのビニール袋が散乱する床。雑誌が汚らしく放置されている部屋。
そんな部屋で何があろうとも、誰も気にしません。人が殴られている状況であっても、誰も何も気にしないのです。今日、また一つ染みができたくらいでは。
むしろ、いや、戦慄してしまうほど。
恐怖してしまうほど。
その一方的な虐待は、その空間にはふさわしいものでありました。
――どうしてこんなことになったのでしょう。
そんなことは聞くまでもありません。どうして? ……そんなのは愚問です。何があったのか、具体的なことはわかりません。でも、そこには悲しみがあったに違いありません。
悲しみ。
殴られている子に、ではありません。虐待を受けている子ではありません。殴っている彼女のほうです。彼女に何か悲しいことがあったのです。……何が悲しかったのでしょうか?
彼女は泣いています。
彼女も泣いています。
悲しいから、泣く。そんなことは言うまでもないことです。いまさら何を言うまでもありません。
泣きながら、泣いている子供を殴るだなんて、これほど悲しいことがあるでしょうか。嗚咽、嗚咽。喘ぎ声。その大半は殴っている彼女のものだったのです。殴られている子供はもう泣き叫ぶ気力もなくなり、がっくりとぐったりと、ぼんやりとした目のまま殴られています。
その子が何かをしたとか、何か失敗したとかそういうことではありません。
ただ、彼女が彼女を殴っているだけです。
何が悲しいのか。
単純なことです。
彼女は、彼女のことが嫌いなのです。
そしてまた、彼女も彼女のことが嫌いでした。
どこまでも明るい彼女が、嫌いなのです。
彼女もまた、明るい彼女自身が、嫌いになりました。