魔法にかけられて
開幕ポエムごめんなさい
私の愛した世界が遠ざかってゆく、崩れて、欠片となって消えていく。
両親が残した白亜の城が、私の産まれ育った場所が消える。妹が愛でたバラの咲く庭園が消える。民が賑わす虹色の城下も、農夫が実らせた黄金色の麦穂も消えていく。火の粉の舞う灰色の戦場すら消えてしまう。
妹が微笑んでいる。いけないよ、お前は身体が弱いんだから、そんな所にいては。
民が笑いながら、口々に私の名を呼んで手を振っている。みな消えてしまうのに、どうして微笑んでいられるんだ。
どうして、なぜ私に。なぜ私なんだ。
私の愛する者たちが遠ざかってゆく、私を愛してくれた人々が手の届かぬところに行ってしまう。行かないでくれ、行きたくない。お願い、ひとりにしないで。
皆、愛している、愛しているんだ。
愛しているから。
だからもう、私を愛さないで。
ユリは目を覚ました。
冷たい涙が頬を濡らしている。
朝食の香りがした。
しばらくピンク色の壁紙を見つめていたが、階段を駆け上がる軽い足音を聞き、やおらベットから体を起こし、パジャマの袖で乱暴に顔を拭ってから濡れた枕を裏返した。
「おねーちゃん! 朝ごはんだよ!」
両手でノブを握り勢い良くドアを開けたのは、この家の―高山家の次女小春だった。パジャマ姿の彼女は寝癖で前髪を立て、着替えもまだなのになぜかランドセルを背負ってる。パステルブルーの真新しいランドセルは、最近小学校に上がったばかりの彼女のお気に入りだ。
そのちぐはぐな格好に不意を打たれ、ユリは思わずクスリと笑う。
「ノックが聞こえなかったぞ」
咎められた小春は声を出さずに口だけで「あっ」というと、開け放ったままのドアの中頃をわざわざ背伸びして二回叩いた。それから少し恥ずかしそうに、そして今度は行儀よくお辞儀しながら「おはようございます」といった。
ランドセルの側面で『交通安全』と刺繍をしたお守り袋が揺れている。
「おはよう小春」
ユリは微笑みながらそれに答えた。
「ねえ、おねーちゃん、小春、ちゃんとごあいさつできた?」
「ああ、小春はいい子だな」
そう優しく褒めたのに、どういうわけか小春は上目遣いでユリの様子をうかがっている。
「どうした」
ユリが問うと、小春は彼女のそばに小走りで近づいて耳元で囁く。
「いい子にしたから、また小春に魔法、見せてくれる?」
「ふふっ、いいだろう、だが……秘密だぞ」
「うん、ひみつ!」
乳歯の抜けた口で小春がニカッと笑ったので、今度こそ耐え切れずにユリは吹き出してしまった。
そして笑ったついでに、目元を拭った。
「おはようユリちゃん、遅かったわね、かたつかないから早く食べちゃって」
着替えを済ませたユリがリビングに降りると、キッチンで洗い物をしていた小春の母、朝美が声をかけた。
朝食の並んだテーブルでは、小春がいちごジャムを塗ったトーストを小動物のように食んでいる。
「珍しいなユリ、寝坊か? 夜更かしは美容によくないぞぉ」
椅子を引いてユリが小春の横に座ると、浩二が新聞の向こうから顔を半分だけ覗かせて適当な事を言う。
「いいのよユリちゃんは元から美人なんだから、パパこそのんびりしてないで髭くらい剃ったら? 」
「ん、知らないのか、流行ってるんだぞ、こういうの」
「似合わないわよ、それにそれはただの無精髭って言うの」
「パパおヒゲかっこわるーい」
妻と娘に突っ込まれ、高山家の大黒柱は読んでいた新聞をたたみ、空いた手で顎をこすりながら「むむっ」と唸った。
「二対一か……ユリは、パパの味方だよな」
浩二が援護を求めたので、ユリは冷めたトーストにバターを塗る手を止めた。
「孫子曰く、善く戦う者は、その勢は険にしてその節は短なり、また曰く、勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む」
顎に手を当てたままポカンと口を開けた浩二が、目だけで「どういう意味だ」と朝美に問うが、しかし彼女は軽く肩をすくめただけで皿を拭く手を止めない。
「ねえパパいまのなにー? ねーなにー?」
小春は不意に飛び出した孫某の格言を理解できずに、視線をユリと浩二の間で行ったり来たりさせていたが、最終的にその疑問を父親に向けた。
期待に輝く娘の目に射竦められ、今度は浩二が視線を空虚に彷徨わせている。
「うん、ソンシな、ソンシはだな……どういう意味だ?」
「戦いが始まってから策を練るよりも、だだ勢いがあるだけで勝ちやすいというものです、どうやら父う……パパは分が悪いようだ」
ユリは微笑えんでから「私は強い方につくとしましょう」といって溶けないバターとの格闘にもどる。
「ほら、朝から賢くなった、ユリちゃんもお髭のパパは好きじゃないって、百戦してあやうからずよ」
「パパの負けー!」
二人の追撃を受け、高山家の主が「戦略的撤退だ」などと言いながらすごすごとバスルームに向かった。
「おねーちゃん、ややうからず、ってなに?」
「彼を知り己れを知れば百戦して殆うからず、身の程を知れ、では言い方が悪いな……勝ち目のないケンカはするなということだ」
「あのね、ケンカはダメなんだよ?」
「うむ、戦わずに勝つ者が最も賢い者だ」
「たたかわないのに勝つの?」
小春は納得がいかないのか、不思議そうな顔で小首を傾げた。
「ふむ、戦争……ケンカというのには、まず目的……そうだな、ほしい物があってだな、こう、壊れてしまうかもしれないだろう? それに怪我もするな、だからケンカをしないためにはまず策略、いや相手の弱みに……まいったな」
そもそも「ケンカはいけない」といった人間の前で、戦争のための兵法を説こうとするのが間違っているのだと、ユリは今さらになって気づいた。
どうしたものかと、しどをもどろになっていく姉を見て小春がいう。
「小春ね、みんなでね、なかよしにするのがいいとおもう」
「ははっ、まったくそのとおりだ、小春が一番賢いようだな」
ユリが目を細めながら小春の頭に優しく手を乗せると、小春はくすぐったそうに「えへへ」とはにかんだ。
そんな二人のやりとりを面白そうに見ていた朝美が、キッチンから声をかける。
「さあ、かしこい小学一年生は早く食べて着替えるの、ほらランドセル下ろす!」
「だめー!」
「ダメー、じゃないのっ」
「おーい朝美、シェービングクリームどこだぁ?」
「この前新しいの買ったじゃない」
「あー……あれな、出張先に忘れてきて」
「あらやだ、困るじゃない、もーパパったら」
「ママー、ぎゅーにゅー、小春あったかいのがいー」
リビングで始まった朝の喧騒を心地よく聞きながら、ユリは奥にある仏間に視線を移す。仏壇に置いた写真の中で、黒髪を頬で切りそろえたブレザー姿の少女が微笑んでいた。
「私は君のように、上手く笑えているだろうか」
誰にともなく問いかけた言葉は誰からの答えも得られず、ただユリの手元から、溶けきらないバターがポタリと落ちただけだった。
説明しよう、リリー・ハグ・フォーゲンヴィリアは妖精王国の王女である。
豊かに栄えた国で良王は民に慕われていたが、リリーが成人した年の冬に流行病で倒れ、そのまま帰らぬ人となる。悲しみが癒えるまもなく、それからすぐ後を追うように女王が死んだ。それまで幾度と無く小競り合いを繰り返してきた魔王軍が、国の混乱に乗じて攻め込んできたのは、第一王女であるリリーが戴冠式を執り行う、その日であった。
もとより文より武を好んでいた彼女は、魔王軍侵攻の報告を聞くやいなや、愛剣ただ一振りを携え馬を駆り城を飛び出した。おっとり刀の兵たちがしかし半日遅れで戦場に着けば、そこに立っているのはリリーただ一人であった。そして土嚢のように転がる死体が緑色の血をせき止める文字通り血の海の中で、彼女は立ちすくむ兵たちに笑いかけながら「私はこっちの方が性に合う」と、王位の辞退を宣言したのだった。
それからリリーは、政治政策もろもろを身体の弱い妹に任せながら、自身は兵を率いて戦場を駆け回った。
戦場での彼女の戦いぶりといえばそれは見事なものだった。剣を振るい魔法を放ち、万からなる軍隊を指揮しつつ自身もまた獅子奮迅の活躍を見せた。やがてその容姿の美しさも相まって『純血の戦姫』だの『白銀の魔女』だの二つ名がついた頃には、いつしか人身馬脚の魔王が彼女を好敵手と呼び、彼女が戦場に姿を現すだけで自国の兵はおろか敵方からも歓声が上がった。
心優しい民思いの妹姫と、戦神の如き姉姫は妖精の国をよく治め、よく守った。
しかしある日、それは天変地異か、意志のある何者かの手引か、あるいは神の御業か、はたして今となっては知るすべもないが、前触れもなくまるでパズルのピースが解けるように世界が崩れ始めた。
世界の危機とあっては妖精も魔族もいがみ合っている場合ではない。彼等は協力し合い、ひとつの魔法陣を造り上げた。知られざる古代の秘術や封印された禁忌、そして高度な魔法を複雑に組み上げて完成したのはしかし、世界を救う術ではかった。
それはただ一人を、リリーを消え行く世界から逃すための、いわば救命艇だったのだ。
「まてこのーっ!」
朝の町に声が響く。
金髪の少女が二本の長いお下げを朝日にきらめかせて走っている。
首に赤いスカーフを巻き、額にあげた4眼式のゴーグルには“HALCYON”の文字が打刻してある。まるで一次大戦の戦闘機乗りのような小道具が、スニーカーを履きジャージにジーンズを合わせるという極めてラフで杜撰な格好と、なんとも奇妙なバランスを取り合っていた。
「待てと言われて待つバカがいるか!」
前傾姿勢のスプリンターフォームで逃げるのはチーター型の怪人である。
漫画のようなやりとりをしながら、二人は猛スピードで町内を駆け抜ける。
身体改造により四足走行で時速90㎞、二本の足でも時速60㎞で走る怪人に、少女は食らいついていた。
というか若干追いついていた。
「お前は完全に包囲されている! あきらめて投降すれば悪いようには殺さない! 」
「殺すのかよ!」
「間を取って自決でもいい!」
「よくねーよやだよ! 何と何を天秤にかけたんだよ!」
「一回だけ! 一回だけでいいから! 人生は一度きりだぞ! 後悔しても知らんぞ! 」
「矛盾して――うおっ!」
少女の手がチーター怪人の尻尾をかすった。
怪人の速度が落ちはじめている。彼は長距離が苦手なのだ。
勝利を確信した少女が半笑いで、両手をでたらめに振り回しながら追ってくる。
怖い。
怪人は泣きそうだった。
早朝に仲間と現金輸送車を襲い、意気揚々と札束の詰まった袋を運び出していたところに、金髪の少女がふらりとやってきてこれを咎め、わあわあと大声で喚きだしたのだ。大変に鬱陶しいし近隣の住民が目を覚ましても面倒だ、二・三発、軽くどつけば黙るだろうと、その時はそう思った。
不用意に近寄った分厚い装甲のサイ怪人が顔面を叩き割られて吹き飛び、挑発に乗った腕力自慢のゴリラ怪人はクロスカウンターで顔面を叩き割られて吹き飛んだ。
彼等のような装甲も腕力も持ち合わせていない彼は、確実に首から上を吹き飛ばされるだろう。
チーター怪人は自分の頭が青空の彼方へ消えていく想像を、今のところまだ首の上に乗っている頭を振って吹き飛ばした。
「ちょっとだけだから! 天井のシミを数えてる間に終わるから!」
「助けてください! 誰か助けてください!」
怪人は泣いていた。
泣きながら死に物狂いで走った。
駅前を過ぎ、アーケードを潜り、ゴミ箱を跳ね飛ばしてオフィス街の路地を抜けると、そこは住宅街だった。
この世界を知り、生きるすべを手に入れることだ。
リリーはまず最初にそう思った。
そして見知らぬ世界に投げ出されたというのに、自分が混乱もせず冷静でいられることに驚き、まるで心が凍りついたようだ悲しくなって、深く考えることをやめた。
考えだすと思い出してしまう。
だから彼女が『高山 ユリ』となったあの時は、少し捨鉢だったのだ。
ユリと小春が通学路を歩いている。
「小春も魔法出来るようになるかなぁ」
ユリの隣で私立小学校の制服を着た小春がつぶやく。
手を取り合って歩く姿はまるで本物の姉妹のようであった。
高山家は特別に裕福というわけではないが、生活には比較的余裕がある。養う人間が一人増えても問題はない。ユリがこの家を選んだ理由でもあった。
そして長女を失った寂しさからか、高山夫妻は簡単にユリの魔法の虜になった。
「あのね、小春ね、お空が飛びたいな」
小春は不意に立ち止まって振り返り、大きな瞳を輝かせてユリを見つめる。
はじめて出会った日もこんな目をしていた、とユリは思い返す。
魔法で人を操るなど、ましてや人の弱さに、心の傷につけ入るをようなそれは、何者の倫理でも許されようものではない。あまつさえこんな幼気な少女に手かけなければならない己の不器用さを嘆き恨んだ。胸の奥からどす黒いヘドロが溢れ出るような感覚に吐き気すらもよおした。
しかしあの時、小さな少女は言ったのだ。目を輝かせ「おねえちゃんがきた」と。
まだ魔法にかかっていないのに、侵入者のはずのユリに抱きついて「サンタさんがお願いを叶えてくれた、おねえちゃんがきてくれた」と言って嬉しそうに笑ったのだ。
ユリは冷たくなった心が溶けていくような気がした。溶けて、すぐに抑えきれなくなって、涙になって溢れでた。
あの日、魔法にかけられたのは、私の方だったのかもしれないとユリは思った。
「おねーちゃん」
「何だ小春?」
「おねえちゃん、さっきなんで泣いてたの? こわい夢見たの?」
だとしたら魔法を解いてしまうのもまた、この少女かもしれない、そうとも思った
小春の手を取り再び歩き出そうとしたユリだが、しかし突然感じた殺気に足を止め身構える。民家の生け垣を突き破ってチーター怪人が飛び出てきたのはその時であった。
怪人は飛び出した勢いそのままで道の反対側のブロック塀にぶつかり、ズルリと崩れ落ちる。
彼は血まみれだった。
「た……たすけ……」
満身創痍で判断力をなくしたチーター怪人は、通りすがりの女子高生と女子児童に助けを求めた。
怯えて姉のスカートを握りしめる小春を尻にくっつけたまま、ユリは怪人に近寄る。
この元ファンタジー世界の住人は怪物のたぐいに抵抗がなかったし、ほんの少しお人好しで、何より生真面目だった。王族たる者、力に溺れずその力を弱い者の為にこそ使うべし、というのが亡き父の教えである。たとえ異形の怪人だろうと、たとえ彼が血まみれで明らかにトラブルの臭いがプンプンとしても、助けを求められて捨て置いてはいられなかったのだ。
「どうした、暴れ牛にでも轢かれたか」
当たらずも遠からずである。
さんざん追い回され体力も尽き、ついに足を止めたチーター怪人にノーブレーキで突っ込んできたのは、牛ではなく金髪の少女だった。少女がぶつかる瞬間に両手をバンザイするように突き上げたものだから、怪人はさながら暴れ牛に突き飛ばされる闘牛士のように宙を舞ったのだ。
しかし跳ね飛ばされて舞った高さが闘牛士の体験するそれの比ではなかった。
心地よい浮遊感を楽しみながら住宅街を一区画飛び越えた後、思い出の走馬灯から覚める前に背中から地面に叩きつけられて三度バウンドした。
轢かれて撥ねられて、飛んで落ちて跳ねて跳ねて跳ねたついでに塀にぶつかり、今に至る。
「ひどい怪我をしているな、救急車…‥ はマズいのか? 何処ぞに連絡してやろうか」
怪人の肩を優しく撫でなからユリがいう。
ユリはこの世界に怪人がいるのを知っているし、彼等が大抵なにをしているのかも知っていた。そしてチーター怪人も自分たちの社会的ポジションは理解している、だからそれでも優しく接する彼女が女神か何かに見えた。
「うはっ、飛んだ飛んだ」
「ひぃっ」
ユリの後光に細めていた目を大きく見開いて、怪人が悲鳴を上げた。
先ほど怪人が作った生垣の大穴から、金髪の少女が顔を出し愉快そうに笑っている。
「生きてるかー? 生きてるな? よーしいい子だ死ね!」
言うなり少女は他人様の家の生垣を蹴散らすと、笑顔のまま大股で怪人に近寄った。
「来るな! 来るなぁっ!」
身を捩り避けようとする怪人、しかし彼の退路はコンクリートのブロック塀によって絶たれている。
ブロック塀に潜りこむようにへばりつく怪人と、両腕を広げじわじわと詰め寄る金髪の少女。
しばらくその様子を静観していたユリが、小さなため息を吐きながら一歩踏み出た。
朝美ママは夕餉の洗い物を朝に始末するタイプ