宇宙船地球号
「小学校の道徳の授業で、そんな言葉を先生が言っていた」
隣に座った友人は、窓を眺めながらつぶやいた。沈みかけの美しい夕日に目を細めながら更に続けた。
「そして人間はみなその乗組員、仲間なのだから互いを思いやらなければならないと」
「お前がいつも言っている、共感が大切だって話か?」
話の着地点を予想して、僕は先回りをした。
「そうだ……いや、そうだった。自由や競争は確かに大切だが、そこには共感もまた不可欠だったんだ」
彼は半ば独り言のように言った。やめさせるべきだと思った。この友人は、いつもこういった小難しいことで悩んでいた。そういうところが興味深くて、彼とは仲良くやっているのだが、どうにも最近根を詰め過ぎな様子だったので、海外旅行に誘ったのだ。
「共感ねえ。アダム・スミスだったか?けどなあ、とにかく今回は旅行を楽しもうぜ。ほら、外の星空なんかすごいぞ」
日は沈み、いつのまにか夜になっていた。雲よりも高い場所で夜空を見ていると、地球が本当に宇宙の中に浮かんでいることを実感させられた。
「こう星空の中で孤独に浮かんでいるあたり、さながら宇宙船地球号って感じだな、この飛行機も」
何とか話の方向を変えようと冗談を言ってみた。すると友人は、飛行機に乗り込んでから初めてこちらを向いて答えた。
「そうだ、その通りだ。ここにあるのは限られた資源、食糧で、それを皆で分け合うんだ」
添乗員が通路を進みながら、乗客に食事を配り始めた。機内前方にあるカーテンが閉じられた。
「確かあの向こうはビジネスクラスだっけ。良いよな、いつかは乗ってみたいよな。それで一度くらいはファーストクラスにもさ」
カーテンの向こう側で配られるコース料理や、水平に倒せる座席に思いを馳せながら話を振ってみた。
「向こうでは料理も飲み物も安らぎも十分与えられる。けれど決して僕らは向こうへたどり着けない。そしてカーテンのこちら側では、彼らが見向きもしない残りものを取り合うんだ。自分の順番を今か今かと待ちながら」
添乗員が二つ前の席で申し訳なさそうな顔をしていた。もう魚料理しか残っていないようだ。
「だが、皆が望むものを手に入れられる訳ではない。それでも誰も不満の声を上げないのさ。一つは、結局食べるのに困らない程度には与えられるから。もう一つは、それがルールだから」
添乗員が今度は僕達に謝っている。問題ないですよ、と笑いかけて魚料理を受け取った。
「こうして狭い場所に押し込まれて、選択の余地もなく与えられた食事をせっせと口に流し込んでいるだけのこの状況を、いつも家畜小屋のようだと思っていた」
気分が落ち込んでいるのは分かるが、こうまで言われては誘った身としてもあまり良い気分ではない。だから、僕は不快感を隠しもせずに言った。
「いくらなんでも大げさすぎるだろ、たかが飛行機のサービスくらいで。不満があるなら次の機会にビジネスクラスでも取れば良いだろう、自分でさ」
いつもと違い、こちらの気分を害しても彼は謝らなかった。
「そう、飛行機ならな。だが、宇宙船地球号とやらには乗り直せない。一度きりなんだ」
どうにも様子がおかしかった。表情はどこか暗く、どこかとても遠いところを見ていた。
天井の電灯がいくつか消えた。
「誰も気づかないんだ。家畜のように飼い馴らされて、限られた富や資源を、果ては人間性すらも独占されていることに!」
彼は声を荒げた。周りののっぺらぼうは俯くばかりでこちらに見向きもしなかった。残りの電燈が激しく瞬き始めた。
「けど、それは仕方のないことだろ。何もかも均等に分配することは平等とは違う」
何かが切れたような音がして、電燈が全て消えた。
「そうだ、彼らはより多くの対価を払った。だから僕達より多くを受け取るべきだろう。けれど僕が許せないのはあのカーテンだ。彼らはこちらを見ようとしない、あちらを見せようとしない、断絶する。あのカーテンの存在を許しているこの飛行機が、僕は許せない」
彼はそう早口に捲し立て、一息ついてから言った。
「だからさ、僕は壊すんだ。人間に人間性を取り戻させるために」
そう言って懐からタイマーの付きの鉄箱を取り出した。聞くまでもなく、それが何に使われるものなのか分かった。彼の様子がおかしかった理由をやっと悟った。ずっと前から、彼は一人で考え込み、いつの間にかたどり着くべきではない結論に転がり落ちてしまっていたのだ。
「駄目だ、やめろ。そんなことをすれば、人々もこの飛行機も破滅する!」
「違うな、ずっと前から破滅していたんだ。ここにいる誰もが、長い間この狭い座席で俯きながら祈っていたんだ。早く目的地に着いて、自分の好きな時に好きな場所へ行けますようにと。早くこの狭くて暗い場所から解放されますようにと。目的地に着くことなどないのに。ずっと前からそんなものは見失っていたんだ」
彼は悲痛な声で、吐き捨てるように言った。
「何故目的地につかないんだ」
「ずっと回り続けているだけだからだ。地上にほんの少し近づくことがあったとしても、365日かけてまた同じところに戻ってくるだけだ。この宇宙船地球号は、永久にそれを繰り返すんだ」
窓から下を覗くとそこには星が広がっていた。見渡す限り、星しかなかった。暗闇にたった一つ、この飛行機は浮かんでいた。
「だが燃料は無限ではない。ずっと言われてきたことだ、もうこのやり方を続けていくのは限界だと。けれどそれは真剣に検討されることもなく、燃料は減り続け、そして遠くない未来に墜落する。もう明かりをともす余裕もないみたいだ」
そう言って友人は真っ暗な機内を見回した。僕もそれに倣うと、周りのっぺらぼう達は震えながら俯いていた。
「だったら、どうせ滅びるのなら、僕はわずかに残った人間性が失われる前に全てを終わらせる。少なくともお前も僕も、まだ人間である内に」
機内は寒くて重苦しく、誰も前を見ていなかった。カーテンの向こう側からは、明かりと笑い声が微かに漏れてきていた。彼の言うことも怒りも分かる。もしかしたら、本当にここで滅びるべきなのかもしれない。けれど……
そこで、通路にたたずむ小さな影にふと気付いた。こちらを不安げにじっと見つめていた。やはり顔は見えなかったけれど、何か言葉を発した気がした。僕達二人の険悪な様子を案じていた。
そうだ、こんな小さな子供が死ぬべき理由など、どこにもあるはずがない。今から友人がやろうとしていることにそんな価値などありはしない。
「駄目だ、それじゃあ駄目なんだ。人間性は確かに大切だ、けれど何よりもまず命だ。人の命以上に大切なものなんてありはしない。お前は人間性を大切に思っているんだろ。だったら、皆にもう一度人間性を思い出させるんだ。人間にはその力がある。それを最後まで諦めては、いけないんだ」
「そんなものは過ぎた楽観だ。見れば分かるだろう。こんなにも真っ暗で冷たく、閉塞感に飲み込まれている。誰も自分の顔を持っていない。どこにも辿りつかず、永遠に同じ場所を回り続けることしか出来ないこの世界に、光が射すことなんてないんだ」
彼は酷く苦しそうな顔で言った。彼は優しすぎたのだろう。それこそたくさん共感したのだろう。そしてあまりに深刻に考えすぎたのだろう。だから彼を、転がり落ちたその場所から救い出さなければならない。友人である自分が。
「この飛行機は回り続けているだけかもしれない。けれど、星の周りを回っているんだ。だからいつかは朝が訪れるんだ。まぶしくて、目にしみるような光が訪れるんだ」
その時、窓から金色の光線が射しこんだ。地平から再び生まれつつある輝きが、機内を暖かく照らす。暗がりでは見えなかった乗客たちの顔が、ひとりひとりの表情がよく見える。のっぺらぼうなど、ただの一人も居なかった。
「いつかは墜落してしまうのかもしれない。状況は切羽詰まっているのかもしれない。けれど、希望は捨ててはいけないんだ。人間を大切にしなければならないんだ。ひとりひとりの顔を、ちゃんとみなくちゃいけないんだ」
彼は目を見開いて、辺りを見回した。彼と目があったとき、通路に立っていた少女はまぶしく微笑んだ。
「そうなのかもな。人間を諦めてはいけないのかもしれない。どんなことがあっても」
疲れたように笑って、彼は箱をばらばらにしてしまった。少女は手を振って、家族の元に帰って行った。
「おい、そろそろに着くぞ」
身体をゆすられて、僕は目を開けた。隣で友人が大きく伸びをした。
そうか、ただの夢だったのか。徐々に意識がはっきりしてきて思い出した。最近ふさぎ込んでいたのは僕で、それを見かねた隣の友人が旅行に誘ってくれたのだった。
「悪い夢でも見てたのか、うなされていたぞ」
「怖いけど悪くなかった。見て良かったのかも」
友人は不思議そうに首を傾げていた。
「宇宙船地球号って聞いたことあるか?」
更に僕がこんなことを尋ねたので、友人は一層困惑した様子だった。
「ああ、地球上の資源の有限性とかそんな話だったか」
「そうだ。けどさ、宇宙船って言うならどこかに向かっているはずだろ。どこに向かっているんだろうって考えてたんだ」
「またよく分からん話だな。公転軌道をぐるぐる回るだけでどこにも行けないだろ」
「まあ物理的にはそうなんだけどさ。けど、僕たちはどこに行くのか、皆で考えるべきなんだと思う。乗組員として。人々が希望を捨てなければ、きっと良いところへ向かっていけると思うんだ」
友人はうんざりした顔をしていた。
「急にロマンチストだな、どんな夢だったんだか。まあでもともかく今は目の前の現実だ、着いたらどこ行くか考えるぞ」
そういってガイドブックを開いた。飛行機が大きな音を立てて、地上に到着したことを知らせた。
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