赤/朱色(あか/あけいろ)
赤色
通っている大学で、毎回赤色の服を着ている男の人を見かける。上は真っ赤のポロシャツで、下は黒いズボン、そしてたいがい赤い横ラインの入ったシルクハットを被っている。その人を見かけるのはある週に一回の授業で、その人は必ず教室の一番前、左端の席に座っている。何度か正面から顔を見たこともある。ホームベースを左右に押し縮めたような、平板で縦長の輪郭で、顔のパーツはそれぞれ小さく整っている。そんな極めて日本風の顔に縁のない丸メガネをかけた様子は、どこか白黒写真の一角に不意に映り込んでいてもおかしくない感じがする。
この人の正体は半ば知れていて、その授業のTA(ティーチングアシスタント)であるらしい。要するに、その授業を教えている講師の研究室に所属している院生というところだろう。人類学の授業なのだが、ちょくちょく講師から「山本くん」というコードネームで話題に上げられる。なかなか信望が厚いようで、曰く、呪術的な事柄に関しては彼の知識量の右に出るものはいないそうである。これは笑うところだ。あの真っ赤なポロシャツにも何かその類の意味があるのかもしれない。
最近はよくこの授業以外でもこの赤い人を見かけるようになったが、まだ声をかけたことはない。いつか話してみたいとは思う。
そういえば、ここのところ赤い色のものを以前より見かけなくなったように思う。以前、というのは、世代的な話ではなくて、私の短い人生の中において。この町は景観保護のための規制が比較的厳しいから、町中でどぎつい赤色に出会うことはほとんどない。中華料理屋が店先に小さな赤看板をぶら下げているぐらいのものである。それなら、以前はもっと赤色が頻繁に目に触れていたか、というと、確かにそうだった。我々大学受験を経験してきた人間にとって、赤は一種のトラウマが植え付けられるほど身近にありふれていた色である。別にこれ以上の説明はいるまい。
一応、私の下宿の本棚にも一冊、それの赤が挟まっている。志望大学の英語の過去問が25年分収録されているという末恐ろしい一冊である。私が無事その大学に合格した後、浪人してこの大学を志望することに決めた友人から、この一冊も譲ってくれないか、という、申し出があったが、大学院入試でも使えるというたれこみを元に買った問題集であったから、ついに譲らなかった。結局、それから一度もそれを開いてはいない。譲っておけばよかったとも思う。
赤といえば、血の色であり、暴力の色であり、転じて革命の色である。血の流ぬ革命などなく、従って名誉革命は革命ではない。そんなことはどうでもよくて、私の通っている大学にも、未だに、「自治会」と称して(正規学生組織の自治会は別にある)根気強く革命だのなんだのという方向性のことを訴え続けている集団がいる。昔革マル派とかと呼ばれていた連中の残滓だ。別段彼らの主張していることに対して糾弾すべきことはないと思う。
ある啓蒙思想家は言った。「お前のことは殺してやりたいほど大嫌いだが、お前の権利は死んでも守ってやる」
ただ、彼らに関して気に食わないことが一つある。ある時、彼らの内の数人が授業前の教室に乗り込んできて、「クラス討論」と称して意見の交換会のようなものを始めた。話の要旨は、「今年から大学側が学生の同意なく外部機関による英語能力テストの受験を義務化したことについてどう思うか」というものであった。さらに彼らの意図を要約すれば、「それはおかしいと言ってくれ」ということであろう。それに関しても、まあ、構わない。しかし、彼らはその「クラス討論」を始める時に、「この大学の学生さんは全員この自治会に所属していますから、この議論に参加する義務があります」とかということを言った。私は、そんな事実に同意した覚えなどない。
「ルージュ」という言葉が、フランス語で赤を意味していると知ったのは、「ルージュ」という言葉を初めて聞いてからずっと後のことだった。それに加えて、この言葉に口紅という意味があるというのを知ったのは実に、つい最近のことだ。荒井由実の曲に「ルージュの伝言」というのがあったけれど、耳にする度になんのこっちゃと思いながら、特に気にすることもなく過ごしてきたが、ようやく分かった。そして、最近出回っている口紅は、むしろ全部「ルージュ」という呼称で統一すればいいんじゃないかと思った。ああいうのを「くちべに」と言うには少々垢抜け過ぎである。
話は戻るが、その言葉の指す意味を知らないまま、何気なく慣れ親しんでいる言葉というのはけっこうあると思う。そういうのは、直感的な言い方で申し訳ないけれど、非常に良くないことだ。自分のことを投射しているだけかもしれない。
もちろん、赤色が示すものは他にもある。
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以下は日露大戦の起こる数年前、にわかに世相の騒々しくなった頃の話である。
この話の主人公を務める大磯五平は、日本海に近い山の麓で田を耕していた百姓家の三男であった。三男であるのになぜ五平なのかと言うと、父の名が一兵衛であり、また父の弟で五平の叔父にあたる人が次郎兵衛といって、二、三の訳があって一兵衛の家に居候をしているから、混同を避けるために大磯家の男子は三平、四郎、五平という順で名付けられたのである。この内、四郎は早くに流行りの病で死んだ。この時には、まだ五平は生まれていなかった。長男の三平はもともと田を耕すにも学を修めるにもぱっとしない人物であったが、弟の死の後には一念発起して農事に励み、じきに次の家督を任せられるだけの丈夫になった。生来責任感の強い人間だったのであろう。
五平は、そうした折に産まれた子である。働き者の年の離れた兄を持ったおかげで、彼は大した苦労を強いられることもなく、老いの兆した両親と、叔父の次郎兵衛に可愛がられながら毎日を送った。兄の三平だけは、幼さを差し引いてもなお魯鈍な面相を持つ五平を愛好しなかったが、それでも唯一の兄として彼に接した。決して裕福な家庭ではなかったが、五平の身の回りに不自由はなかった。
五平が小学校を卒業する前の12の時、叔父の次郎兵衛が死んだ。これもやはり、流行りの病に冒されたためであった。次郎兵衛の葬式は、一兵衛の家の者だけでひっそりと行われた。この期に及んでようやく、五平はなぜ、叔父の五平が自分の家を持たず、働きもせずに一兵衛に寄寓していたのかという疑問に思い当たった。しかし、その問を投げかけられると、いつもはたまさか饒舌であった両親は急に口をつぐんだ。兄の三平に至っては、蔑みのこもった目で五平を睨みさえした。当の五平はなぜそのようにあしらわれるのか皆目見当がつかず、その様子がいっそう家族らを呆れさせた。そしてそのうちに、五平はその疑問を井戸の底にでも落としてきたのか、さっぱりと忘れてしまった。兄の面相占いは大方当たっていた。この頃から、一兵衛の家族はこの五平をあまり気にかけぬようになった。
それでも学問の道だけはなんとか阿呆の一言に片付けるべからざる能力があったようで、少し離れた町の農林系の専門学校に及第した。かといって、そこで一心に勉学に励むということもなく、最新の農法を身につけて持ち帰ろうなど夢にも思わず、この不甲斐なさを家に対する責任感の欠如だけに帰すべきか、とかくのほほんという学生時代を送った。
そして五平が専門学校2年、18の夏に事は起こった。盆の帰省中に、五平は旧来の仲間と夜の盆祭りへ繰り出していた。古寺の前の広場に露店が並んで、真ん中にはいっちょまえに踊り櫓が据えられている。それに加えてこの年の夏は日照りが続いていて、雨乞い用の儀式道具までもが引き合いに出されている。五平はこの祭に毎年足を運んでいた。小さいころは兄に手を引かれ、兄が忙しくなると叔父の次郎兵衛がその役をした。そのうちに、近所の遊び仲間と連れ立っていくようになり、顔ぶれは固まった。この時も、一兵衛の田と接する百姓家の次男の安治、商家の三男の吉造が五平の前に立って歩いた。どこを歩かせても鈍くさい五平は、この二人の脇に従って歩くのが常であった。安治は腕っ節が強く、五平が何かヘマをするとすぐに彼の頭を小突いた。吉造はよく猪口才な顔をして、五平にきつい皮肉を言ったりした。しかし五平はそういうのが一向に堪えないらしく、何をされてもへらへらしているので、二人はむしろ面白がって彼をそばにおいているのだった。これは、それぞれに進路を違えた後も変わらない。
五平らは、誰が声を掛けるともなく毎年と同じように、祭の催されている広場から少し離れた廃小屋で落ち合って、一年ぶりの旧交を温めた。この持ち主のない荒れ小屋は、彼らが幼い頃から何一つ変わらず、荒れ果てたままであった。大きな嵐も何度か襲ったであろうに、誰が修理するでもなく、毎年同じところに腐れ板の破れ目がいくつもあってがあって、小屋の中に入ると、盆の夜にはまん丸い月がその間からぼっかりと彼らを覗いていた。しかし、たとえその小屋が何一つ変わらなくとも、五平らは毎年背を伸ばす。伸びた分だけ小屋は狭くなるし、板壁の破れ目から外を覗く角度も変わる。そんなことにつけても安治や吉造が、自らの過ごしてきた月日に思いを馳せている横で、暢気に「なんやかこんの小屋は昔より暗うなったのう」などと五平が呟くので、二人共気が抜けてしまって、「そうやのう」と頷くのだった。日照りの夏の乾いた夜風が、彼らの身体を縫うように吹き抜けていった。
無論、彼らの成長に合わせて小さくなったのはこの廃小屋ばかりでない。小学校の校庭よりも狭いような広場でぎゅうぎゅう詰めになって踊り明かす村の盆祭りも、世間を知った彼らの目には既に子供だましのように映っていた。それで、ここ数年は、ひとしきり露店で遊び、村の若い娘らと踊った後、夜には村人の寄り付かないような場所へ(時にはその場で仲良くなった娘らを連れて)肝試しにでかけた。一昨年は村の離れにある墓地に、昨年はかつて家畜の屠殺場があった地区に忍び込んで、何か興の乗るものを探した。この三人が肝試しをするとなると、たいがい、いわくありげな場所で吉造が何かそれっぽいことを言い出して脅かし、安治が急に振り返って幽霊の真似をしてみせて、五平をたまげさせる。「ひゃっ」と叫んで逃げ出そうとする五平の襟元を安治が掴んで、そのみっともない様子を二人でけらけら笑う、というお決まりが何度も用意されている。むしろ、それが醍醐味なのである。
さて、そこで今宵はどこを攻めようかと話し合った結果、安治の提案がそのまま通って、今までは立ち入ったことのなかった夜の山に入ろうということになった。そうと決まると、吉造もむやみに興を起こして、長持ちする灯りを持っていかにゃならん、などと言い出した。唯一五平だけは、この提案に乗り気ではなかった。彼はよく両親に、「夜の山だけは行ってはならん」と教えられていた。そうでなくても、昼間でさえ何が起こるかわからぬ山路を、彼は心底恐れていた。魯鈍な人間は好奇心よりも恐怖心が勝りやすいものである。一方で安治や吉造はといえば、彼らも同じような言いつけを親からされてきただろうに、かえってそれが、己の若さに自負を起こし始めた彼らの興味を引き立てているのだった。五平は、この二人に抗う術もなく、冷や汗を垂らしながら首を縦に振った。
ここで決まった肝試しの内容はこうであった。盆祭りをしている古寺の裏山の更に向こうの山には、頂上の近くにお稲荷さんが祀ってある。山路は参道としてずっと昔からの石段が整備されていて、山の入り口と、一合分上るごとの石段に朱塗りの小さな鳥居が設けられている。その7つ目の鳥居、つまり山の七合目のところに、「オスワさん」という老人を祀った祠がある。その祠に夜な夜な火の玉が浮遊するという噂が村の間でささやかれていた。であるから、その火の玉の正体を見明かしてこようというのが今回の肝試しの主眼である。そのために、盆祭りで一通り遊んだ後、人気のなくなる正刻頃に各々でき得る限り上等のランプか松明、それもなければ提灯を持ち寄って、一の鳥居(山の入り口の鳥居)に集合するべし、と言う段取りになった。そしてあわよくば器量の良い女を誘って、というのは暗黙の了解であった。
約束の時間に五平が提灯を片手にのこのこと一の鳥居へやってくると、安治と吉造、それから何度か村の中で顔を合わせたことのあるハツという娘がいた。どうも安治が無理くり言いくるめて連れてきたようである。それだけに、身なりや言葉遣いは田舎臭いが、器量は悪くない。しかし、これからこの一行が何をするのかは知らせていなかったらしく、夜の山へ入ると聞かされてハツは顔色を変えて帰ると言い出した。安治が鼻の下を伸ばしながら「なんならオスワさんまでおぶってやっていいんだぜ」などと気取った口調で言うのも、ハツは全く取り合わない。五平も、ハツはやめたほうがよいと思った。ただでさえ夜の山は何が起こるか分からぬ。何より、こういう時に最も恐ろしいのは生身の人間である。いっそ自分が逃げ帰ってしまいたい、と五平は思った。しかし、灯りも人気もないあぜ道を一人で帰るというのもそれはそれで心もとない。それはハツにしたところで同じだったようで、少し離れたところから山犬の遠吠えがこだましてくると、すっかり怖気づいて、しぶしぶ三人の男共についていくことにした。俄に夜空には薄い雲が張って、三人の持ち寄った灯り以外には、鈍い月明かりが煙雲を透かしているだけであった。鋭利な目つきをした獣の鳴き声のような山風が、ひゅうひゅうとそこらを駆けまわっている。四人は一瞬神明な面持ちになってから、「火の玉なんぞどったなもんじゃ!」と言って松明を高らかに掲げる安治の威勢のよい声に背中を押されて、おぼつかない足取りで石の階段を登り始めた。
参道の石段を登ることにさして難はなかった。吉造が親の仕事場から勝手に持ち出してきた石油ランプは思いの外明るく、四人の足元を照らすには十分であった。しかし、もとより山の恐ろしさなるものは、いくら眩しい明かりを灯そうとも透かし見ることのできぬ叢(くさむら)の奥、ざわめき立つ木々の上、あるいはどこからとなく流れてくる音や臭いの中にあるのであって、それらが山に立ち入るものの想像力を刺激して、あらぬものを垣間見せたりする。近くの茂みでざわ、ざわという音が突然鳴ったりすると、五平はそれだけでたまげて、足を絡ませながら安治に飛びつこうとする。安治はというと、片手でそれを突き返して、もう一方の腕で怯えるハツをうまい具合に抱え込んでいるのであった。安治は端(はな)から幽霊も魑魅魍魎の類も恐るに足らず、と思っていたし、吉造は縦令(たとい)よからぬものに出くわしても、金目のものをくれてやればなんとかなるだろう、程度に考えていた。それなのに五平は、たまに木々の間、雲の影から覗く満月にもカッと睨まれているような気がして、足元しか見ることができないのだった。
そうこう歩いているうちに、急にあたりの空気が冷え込んできた。高いところへ登れば温度は下がるというが、そういうのではなくて、急に、ふっと違う空間に足を踏み入れたように、身体にまとわり付く暖気が消えた。多少の物知りであれば、頭上を前線が通過したのだろうとかの考えも及ぶだろうが、彼らはそんなことなど知らぬ。三人の持っていた灯りが不意にぐらりと揺れ、心なしか以前よりも火が小さくなったように感じる。「なんか出そうじゃな」と誰かが口にしたあと、皆がだんまりする。四人の足取りが、自然と速くなる。気づくと彼らは半ば駆け足で石段を登っている。何かにすぐ後を追われているような気がする。走れば走るほど、見知らぬ足音が彼らの後ろで数を増していくような錯覚。あたりの光景はめまぐるしく移っていくが、ずっと同じところをぐるぐると回り続けている感覚。途中、いくつかの鳥居が彼らの灯りに照らされて朱色の身体を浮き上がらせ、次の瞬間には再び色を失って、彼らの背後に消えていく。
既にいくつの鳥居を通り過ぎたのか、彼らはもう数えることもしないでひたすら山路を駆け上がっていた。そして、ようよう疲れて足が動かなくなった頃、ちょうどまた鳥居に差し掛かって、そこで立ち止まった。鳥居の足元に座り込み、肩で息をしながら空を仰ぐ。下から灯りに照らされた朱塗りの鳥居を仰ぎ見ると、辺りに木々の少ない場所に立つそれは、非常な大きさで空に向かってそびえているように見えた。五平は、朱い鳥居の向こうで、しん、と浮かんでいる満月の明かりが、今までにないほどおぞましく見えた。夜風があたりの叢をざわめかせる他に音はなく、彼らの荒い息遣いがそこに決して溶け合わない形で紛れ込んだ。
五平らの息がようやく整ってくると、彼らは二つ、大変なことに気づいた。一つは、彼らの今いる場所が、当初の目的地だった七合目の「オスワさん」の祀られているところであるということ。鳥居の向こうで石段が分岐しており、その先に小さな切妻屋根の祠があった。彼らは日中、一度ならずこの場所に訪れたことがあったが、全くそのことに気付かなかったのである。自分たちの記憶さえ簡単に狂わせてしまう闇夜の効果に彼らは驚懼せざるを得なかった。
そして、もう一つの重大事は、ついてきていたはずのハツの姿がどこにも見えないということであった。ついてきていたはず、というのもとてもいい加減なもので、最初は安治が脇に抱きかかえていたのだが、彼が夢中で走り始めた頃には、それこそ文字通り、脇目もふらず、というありさまであったから、その時にはぐれてしまったのだろう。ハツとて家の畑仕事を手伝う身であるから一人前の体力はあろうが、全力で山路を駆け上がっていく野郎共に遅れずついていくのはどだい無理な話である。五平でさえ、何度か安治と吉造の姿を見失ったほどだ。
こうなると、目的地についたはいいが、肝試しどころではない。安治はすぐさま立ち上がって、ハツを探しに来た道を戻ろうと言い出した。これは彼の面目に関わる問題である。安治に吉造も追従した。けれども五平は、もう足が動かないと言って安治について行こうとはしなかった。実際そうだったのである。それで安治らは仕方なく、後でハツを連れて戻ってくることを五平に約束して、石段を早足で下っていった。五平はだんだん小さくなっていく二人の足音を、疲労感でからっぽになってしまった頭の中に反響させながら、ぐったりと鳥居の下にしゃがみこんだままでいた。
五平は、しかし、次第にものを考えられるようになってくると、自分が安治らについていかなかったことをひどく後悔した。深夜の山中で一人ぼっちなど、女人でなくとも恐ろしいに決まっている。しかも、彼が今いるのは火の玉が出ると噂される「オスワさん」の祠の真ん前である。彼はすっかり怖気づいてしまって、自分の提灯の持ち手を抱えたまま動けなくなってしまった。山の冷気は依然として地面近くを這っており、時々五平の背筋を凍えさせた。山鳥がばさばさと大きな音を立てて上空を飛び回り、それが次第に群れをなして、何かを吐瀉するような嫌な声で鳴き喚いた。蚊を何倍も大きくしたような羽蟲がブーンと顔に近づいてくる音がして、驚いて後ずさりしながら手を振り回すと、その蟲が掌に当たって、当たった痕から何かの腐ったようないやな臭いがした。
18にもなっとって、なんじゃって自分はこんな惨めな目に遭っちょるんやろう。それも自ら進んで! 五平は今更に自らの不甲斐なさを言いようもなく哀しくなってしまって、なお身体を縮め、涙がこぼれぬように顔を両の膝頭へ押し付けた。
どれだけ時間が経っただろうか、五平の耳から音が消えて、風も一向に動かなくなった。冷気は気にならぬほどになり、むしろじんじんとして足元から温かい。何事だろうかと思って五平が顔を上げると、彼のしゃがみこんでいるあたりが、足元の土の色が分かるほどにぼんやりと明るくなっている。そしてその一寸先は深いもやに沈んでいて、明かりに照らされ白く煙っていた。いったい、いつの間に朝になってしまったのだろうかと思って空を仰ぐが、未だに木々の端には月影が残っている。そして驚いたことに、ずっと両手に握っていた持ち手の先で、提灯の火は完全に消えてしまっていた。いや、あれだけ全力で走ったのだから、もっと早くから消えていたのかもしれないが。けれども、それならどうしてここはこんなに明るいのだろう。五平はむくりと立ち上り、辺りを見回す。しかし、光源のようなものは何一つ見つからない。不思議である。だが五平は不思議である以上に、それが恐ろしいとは思わなかった。暗いよりは明るいほうがよいのは決まっている。
もしかしたら、「オスワさん」の火の玉の噂はこれのことかもしれぬ。五平は、鈍い頭でようやくそんな風に思い至った。それから、かつて誰かから聞いた「オスワさん」の言い伝えの記憶をも、唐突に頭の奥で蘇った。
それはこういう物語である。時は江戸時代の中頃、この山の麓に住んでいたオソワさんは、用事で海に接する隣村まで出かけていたが、そこで大きな地震に遭った跡に、突然海の水が一斉に引いていくのを見た。その時、“海の水が引くのは大波が来る予兆だ”という古くからの言い伝えを思い出したオソワさんは、大急ぎで村人たちにそのことを告げて回ったが、言い伝えをすっかり忘れていた村人たちは、一向にオソワさんの言葉を真に受けようとしない。困ったオソワさんは一計を案じて、海岸沿いに干してあった稲わらや丸太に火を付けて回って、とにかく海から離れた場所へ逃げるように村人たちを煽り立てた。それを繰り返した結果、オスワさんの村の人々はもちろん、隣村の住人も山の上に全員逃げて、間もなくやってきた津波にさらわれずに済んだのだという。そのオソワさんの功績が讃えられて、隣村の村役人が逃げ込んだ山の中に、オソワさんを祀る祠がつくられた。これが「オスワさん」の祠の起源である。オソワさんを祀るのに「オスワさん」と呼び伝えられているのは、後にオソワさんが長野の諏訪大社の神様ではないかともてはやされたからである。
この物語を思い出して、なるほど、だから火の玉か、と五平は納得した。それから、どうして今の今までこんな大事な話を思い出さなかったのだろうと不思議に思った。確かに、この話を聞いたのは、ほとんど記憶もないような小さい頃である。そして、こんな話がされるぐらいだから、お稲荷さんにお参りするか何かで、この祠の前を通った時に違いあるまい。となると、いったいそれは誰の口からであったか。
いやいや、この期に及んでそんなことはどうでもよかろう。明かりが手に入ったのはよいが、生きて麓へ戻れなければ意味がない。このまま待っておれば安治らが戻ってきてくれるという約束だが、これだけ深いもやが立ち込めてしまっては、それも難しいのではなかろうか。かと言って、自分からこのもやの中に突っ込むのもできそうにない。やはり待つしかあるまい。朝になればどうにでもなろう。こう思いめぐらすと、五平は結局為す術がなくなってしまって、へなへなと再びしゃがみこんだ。
……だれかっ、だれかおらねかっ
しばらく五平が祠に身を預けてぐったりしていると、どこからか鬼気迫るような声が聞こえてきた。女の声である。はじめはそれに答える気力もなくて、黙って聞き流していたが、だんだん声の主が近づいてくるにつれて、その声が他でもなくハツのものであることに気づくと、五平は急に色気づいて、ここだ、俺だと声を振り絞って叫んだ。
……や、そんの声は五平かっ、今そっちいくけぇ
その声とともに、草履で石段を踏む足音がはっきりと聞こえてきた。五平は、よもや助かったとは言えないが、一人ではなくなったのが分かって、それだけでも大いに救われる思いであった。深いもやの中を、不思議とハツは直に五平のところへたどり着いて、祠の周りの明るみに入ってきた。
「えや、ようここまで来れたのぉ」
「まったくやけぇ、山ん中に若いおなごをほっぽらかしてくっちゃぁ恥知らずなっ」
「えれぇ、申し訳ねぇ」
五平は素直に頭を下げた。実際、我先にと逃げるように山路を駆け上がって、ハツを置き去りにしてしまったのは非常に申し訳ないというか、情けないことであった。それ以上に、ハツはただならぬ様子で昂奮していて、器量よしの娘に鬼の形相で迫られては、謝る他にないのであった。
「そんで、ヤスジとキッちゃんはどないした。おまぁさん探しに下ってったはずやが」
五平はようやく二人の友人のことを思い出して、ハツに尋ねる。
「んにゃ、見てへんよ。ずうっと一本道登って来たけんども」
「さよか……」
「それよか、はよう降りねと、こんな山っ」
「や、降りるゆうても……」
ハツは気の逸った様子で五平の腕を掴んで引っ張っていこうとするが、五平は立ち込めるもやの中に入っていくのがためらわれて、なかなか動こうとしなかった。そんな彼を、ハツはキッと睨みつけて、
「あんた、怖いんかっ、おとこのくせにっ」
と怒鳴った。これには五平もムッとして、
「怖いに決まっちょうけ、ぼけが」
と言い返した。ハツは、もう知らん、と言い、五平の手を払ってもやの奥へと消えていった。ハツが行ってしまって、彼女の足音が遠ざかると、辺りは静寂を取り戻す。五平は再びへたりこんでしまおうかとしたが、今度は、あたたかみのある静けさの中に、彼の後ろ髪を引くものがあった。それは、これ以上一人で待ちたくはないという思いと、ハツを一人で行かせられぬという思いの入り混じった、彼にこれまで経験のない不思議な力であった。その力に引っ張られるまま、五平はハツの消えていったもやの中へ、恐る恐る足を踏み入れた。
片足が向こう側へ行くだけでは、何も感じない。ただ、もやの向こうにもしっかりと足場があることを確認できただけである。それから両手を突き入れる。すると、右手に何かが引っかかって、驚いてひっこめる。だが、落ち着いてもう一度試してみると、手に触れたのはただの木の枝だと知れた。そして、思い切って顔を突っ込む。と、今度は明らかに違うものがあった。焦げ臭いにおいがする。何かが燃えているのか? そうだとすれば一大事である。ここのところの日照りで山は乾いているだろうから、直に山火事になってしまう。それとも、もうなっているのだろうか。あのハツの様子からすれば、ただごとでないのは確かであるが、視界は真っ白に煙っていて、何事が起こっているのかは全く知れない。しかし、もはや後戻りするという手段も意味を持たなかった。五平は、一歩、また一歩と手探り、足探りで前に進んだ。
……だめじゃっ、こんの道も降りられん……
少し離れたところから、ハツの声が聞こえた。今までとは打って変わって、彼女の声には悲壮な響きがこもっていた。それはまさに極限状態だった。なんとかこの場を凌ぎたいが、何が起こっているのかも、どうすればいいのかも一つとして分からない。五平は頭がおかしくなりそうであったし、事実、おかしくなっているのだとしか思い用がなかった。彼は手当たり次第にあたりを探って、無茶苦茶にどこかを目指した。
すると、突然、ゴツリ、と頭が何かにぶつかった。何か、堅くてすべすべとしたものである。我に返ってそれを調べてみると、それは間違いなく、祠の前にあった鳥居の足であった。そして、不可思議なことには、その鳥居の朱色だけ、もやにまかれた真っ白な視界の中に浮かび上がっているのだ。
五平はハッとした。彼の立って居場所から、少し離れたところに一本、その十歩ほど先にまた一本という具合に、鮮やかな朱色の鳥居が連なって、ずっと向こうまで続いている。まるで、その先にある何かへ彼を導いているかのように。
……おぅいっ、ハツさぁ、こっちじゃぁ、こっちじゃぁ
五平は大声でハツを呼んだ。彼には、何も根拠などなかったが、しかし確かな自信があった。
……なんじゃっ、帰り道でも見つけたんかっ
……そうじゃぁ、安心せぇ
暫く待つと、ハツが五平の背後からやって来た。五平は、もやにまかれて朱い道標が掻き消えてしまわないかとはらはらしたが、彼の視界には、むしろいっそう、眩しいぐらいに朱色が映っていた。
「えやな、道なんぞどこにあるんけっ」
「えぇからついてきっ」
「ちょう、待てっ、あぶねじゃろがっ」
五平はハツの腕を掴むと、無理やりに引っ張って、彼にしか見えていないであろう立ち並んだ鳥居の下を駆け抜けていった。足元など見えはしなかったが、自分の思うように足を運べば大丈夫だろうと思ってそうしたし、事実、そうであった。ハツが転んでしまわぬよう気をつけるだけであった。途中から、自分が下り坂を駆け下りているのか、それとも上り坂を駆け上がっているのかさえ判然としなくなったが、それでも迷わずに、朱い道標の下を潜り続けた。むしろ、少しでも自分の行く先を疑った瞬間に、この道標は失われてしまうような気がして、いっそう五平は無心で走った。最初は何事かを絶えず叫んでいたハツも、そのうち何も言わず、五平の引く手に従って走るようになった。そうして、五平の自信は確信に変わった。
視界の利かない中で、道なき道は曲がりくねった。草履の裏に触れる地面の感触も、次々に変化した。落ち葉の積み重なりに足が沈むことがあり、堅い岩の足場に突き返されることがあり、また、流れる水を思い切り蹴り払うこともあった。それに、実に多くのものが身体をさえぎった。細い枝は絶え間なく顔にぶつかって折れ、どこかから垂れていたツタが腕を巻き込んだりもした。そうするたびに、五平は両腕を自由にして、そうしたものを払いのけてしまいたいと思う。冷静に考えれば、ハツにしたところで、極言してしまえば彼の行く手を妨げるものに他ならない。特別彼が惚れた相手というわけでもないのである。けれども、そうした考えも振り払って、彼は一心不乱に駆けた。あるいは、彼が駆けているつもりになっているだけで、本当はちょっと小走りで進んでいるだけかも、全く前に進んでいないかもしれなかった。けれども彼は駆けた。
そしてついに、五平の眼前には、あと一つの鳥居を残すだけになった。彼は力を振り絞って、その向こうを目指した。きっと、最後の鳥居をくぐれば出口にたどり着くのである。そして、出口はあとほんの一歩先にまで近づいていた。
しかし、その一歩先に足をかけようとするたび、出口は一歩向こうに遠のいた。それは明らかに不自然な後退であったから、思わず五平は足を踏み外しそうになった。もう一歩、もう一歩と足を前に出し続けるが、その一歩分が一向に縮まらないどころか、どんどんと最後の鳥居から遠ざかっているようでさえあった。
五平は自分の目を疑った。自分の感覚すべてを疑った。一瞬で終わるはずだったものが、永遠ほどに引き伸ばされた。彼の足は回り続け、最後の鳥居は遠ざかり続けた。彼の目に映るのは、もう真っ白の世界と、遠くにぽつんと佇む一つの鳥居だけになった。彼は何が何だかわからなくなった。いや、最初から何も分からずにここまで来たのだが、何もわからぬ間でも持ちえていた自信とか確信とかというものが、全部どこかへ飛んで行ってしまった。ハツを引っ張っていた左腕にも、今では何かを引っ張っているという感覚しか残っていない。振り返ってしまえば、やはりそこには真っ白い世界があるだけかもしれない。
五平は、なぜ自分が走り続けているのか分からなくなった。縦令自分が走りやめたとしても、もう誰も困らないのではないか。自分自身にしたところで、走りやめてしまった方が楽なのは決まっているではないか……
「ちくしょうっ」
思わず叫んだ途端、五平の身体は宙に浮いた。文字通り、宙に“浮いた”。そして、今まで遠のき続けていた赤鳥居が、一瞬のうちに目前に迫る。さらに刹那の後には白いもやがさーと引き、体ごと夕闇の中へ放り出された。着地したのは、道端に土肥が山積みにされた上であった。彼は懐かしいにおいに顔を埋めそうになったが、すぐに気づいて顔を上げ、ペッペと口に入ったほの臭いそれを吐き出した。すぐ後ろからも同じような音が聞こえて、振り返ってみればハツが苦そうに顔をひん曲げながらつばを吐いていた。それから二人は、まじまじと顔を見合わせた。
「俺ら、助かったかや」
「そうみたいやけぇ、ほんに」
「さよか」
「けんど、なんでぇ、あんな獣道知っちょった?」
「なんでぇって、おまぁさんには見えねかったんか」
「見えねかったんかって、何を?」
と、そのときバチッという何かの跳ねる音がして、それから一斉に森の鳥たちが空に羽ばたいていく羽音、悲鳴に似た鳴き声があたりを覆った。何事かと今しがた駆け抜けてきた山の方を見ると、五平を導いた赤鳥居が並んでいたはずのところだけをよけて、何もかもがごうごうという炎にまかれ、空には煤けた煙が一面立ち上っていた。山火事である。この勢いではてっぺんのお稲荷さんも、オスワさんの祠も無事で済むまい。その上、下ってくる山風に乗って、炎が下へ下へと火の手を伸ばしてきていた。五平とハツは、身なりも一向に構わないで、一目散にその場を逃げ出した。
翌々日になって知れたことだが、山火事の原因は安治の松明の火の不始末であったという。当の安治と吉造は、ハツを探しに行く途中で安治が転んでそのはずみに松明から森へ火が乗り移った後、恐ろしくなってしまって、それこそ火の粉を散らしたように逃げ帰ってしまったという。
山に火の手が上がった翌日、盆祭りの雨乞いの効用があってか強い嵐がやってきて、山火事の火もそれでやっと収まった。お稲荷さんとオスワさんの祠はすっかり焼けてしまって跡形もなかったというが、参道の鳥居だけは、ほとんど傷のないまま残っていた。元々火事に強い場所に参道が造られたからであろうと村人たちは専ら噂したが、五平だけはそうでないと思った。
五平のその後については私の語る範疇ではない。しかし、一つだけ後日譚として挙げるとするならば、事件の数日後、自分に「オスワさん」の伝承を語り聞かせたのが叔父の次郎兵衛であるということを、五平は焼山を散歩しているときに不意に思い出した、ということだけである。