広場に現れた小さなコネコ 2
いつの間にか隣に立っていた父が呟いた。腕を組みつつ、首を傾げている。
パン屋を営んでいるだけあり腕の筋肉の隆起はなかなかのものだ。また、もともと筋肉質で恰幅がいいので、立っているだけで威圧感がある。そんな人物が首を傾げるというのはどうにも似合わないものだ。
「下手すぎるだろ……」
何かを催すにしては。お付の者も見受けられない。
旋律にならない音を垂れ流していることに気づいているのだろうか。それでもドールは一心にギターに目を落とし、指の位置をいろいろ変えながら、もう一方の手を振り続ける。
「そうでもないさ。お前もそれがわかればねぇ……」
「うるさい」
まさか自分に矛が向かってくるとは思わなかった。思わず悪態をつく。
父は肩をすくめた。
「まあいいか。父さんは中に入ってるぞ」
「何しにきたんだよ」
背中を向けた父に言葉を浴びせながら、でもドールから目を離さなかった。
いったいこの下手糞なドールの演奏と自分がどう関係しているというのか。
でも、ドールは本当にどういうつもりでここにいるのだろう。
脱走してきた。しかしそれならこんなところで油を売っているわけはない。人目のつかない路地にでも逃げ込むか、もしくはいっそ街を出てしまえばいい。
捨てられた。それも考えにくい。ドールは希少価値が高く、そもそもあまり人目につかない。なぜなら、貴族の館を出る時、それは主人に殺されるか、もしくはオークションやそれに類するルートで売られるかだ。
希少価値を高めるため、その辺でおいそれと子作りをされては困る。だから野に放つくらいならいっそ――というのが世間の常識だった。
だったらどうしてあのドールは、あそこでのん気に楽器を弾いているのか。
広場を見渡してみれば自分のように、奇妙な闖入者を遠巻きに眺めているのが見受けられる。しかし誰一人として近寄って声をかけようとする者はいない。下手に関わって、何かトラブルに巻き込まれるのを恐れているのだ。
そんなこととはいざ知らず、ドールはギターを鳴らし続けた。
最初の頃に比べると、幾ばくか音楽になっている気がする。でたらめにただ音を鳴らしているのではなく、なんとなく音に繋がりがあって、音楽と呼んでいいような。
そんな急に上達するわけはないだろう。頭の中に曲のイメージがあって、それに当てはまる音をいろいろ試して、探していたのかもしれない。
ただお世辞にもうまいとは言えないが。
不意にドールがその手を止めた。自然に弦の震えは収まり、辺りが静かになった。
気がつけば世界は、夕焼けから夕闇に変わっていた。もうドールに興味を持っている人は自分を除いて見られなくなっていた。
それもそうだ、すぐに夜になる。通りに光がなくなってしまう前に家路に着きたいことだろう。
思ったよりも長い間ここにいたようだ。もうタネの発酵はとっくに終わっている頃。
自分も中に入ろう。そう思った時、すっとドールが顔を上げた。
一瞬どきっとした。
ちょうど正面に位置していたせいで、目が合ったような気がしたからだった。辺りはかなり暗くなっていて顔の所作など全くわからない。だから、そんなことはないとはすぐにわかる。
ドールは曲になり始めた旋律を再び奏でながら、歌を歌い始めた。
その姿に似て、舌足らずな声だった。
高めの声音で、でも不思議と通るその声は、少し距離のあるここまででもはっきりと届き、耳を抜けていった。
不出来なギターの音色もその歌声を邪魔することなく、舌足らずなその隙間を埋めるように、包み込む。
歌うことが生きることそのものだと言わんばかりに、今まさにドールは歌っている。表情は見えないが、真剣に必死に、声をあげている姿が目に浮かぶ。
お前もそれがわかればねえ――
不意に父の言葉が蘇る。
なら自分は真剣に、真面目に取り組んでいないとでもいうのか。そんなことはない。分量も、こねる作業も、その後の工程だって手を抜くことは一瞬だってない。そもそも父が呟いたのは歌いだす前だ。歌詞の内容を知るわけはない。
言葉の真意も、なぜ思い出したのかも、自分にはわからなかった。
ドールは歌い続けている。一曲終わったのか、でもまた同じ歌を、同じように。
そんなドールから目を引き剥がして、振り向く。
パンの発酵は終わってる。作業を再開しなくてはいけない。
頭にこの後の作業工程を無理やり描いて、その場を後にした。