ある日のある晩
――ある日――
街は宵に包まれている。
しかしまだ寝静まるには早く、暗闇ではない。ある者はこれから杯を交わし、ある者は愛するものの手料理に舌鼓を打ち、ある者は――それでも一日の疲れを癒すために、寝静まっているのかもしれない。
ある貴族の邸宅、広大な敷地の中の庭園。中には豪勢な作りを施された離れがあった。明かりは消えていない。最低でも、家主は夢の世界にいるわけではないようだった。
右手で弦を押さえる。人指し指で一番目の弦を押し、薬指は三番。小指をうんと伸ばし、なんとか押さえる。
頭に浮かんでいる創造を、弦を爪弾き奏でる。
何度かネックの上を指が行き来し、かき鳴らされた弦が音を震わせ、そうしてしかし、幾時もいかないうちに弦を手のひらで押さえ音を止めた。
不意に止まった音楽に、ココネは首を傾げた。
「続き?」
終わるべきところで終わっていない曲に、この子はこの子なりに、察したのだろう。怪訝そうにこちらを見つめている。
「まだ最後までできてないんだ。だからここまで」
そう告げて、ココネの頭を撫でた。
ココネは嬉しそうに頬を緩ませ、猫科特有のぴんと立った三角の耳を上下させ、寝台から飛び出していた両足をばたつかせている。
ギターを抱え直す。今度は同じ曲を、伴奏にするために変化を抑えた曲調にし、弦を弾いた。
――息を吸い込む。
ある、コネコの歌を歌う。
ドール。ココネたちはそう呼ばれていた。
昔、今よりもさらに王族、貴族の権限が強く、また富を有した時代。人とは彼らのみを指すと、本人たちが本気で信じていた時代。
そんな時代のどこかの輩の思いつきだったのだろう。猫と人間の混血。偶然なのか、または長年の交配の結果なのか。果たして望んだ姿だったのか。それはわからない。
成長しても人間の子供くらいの身長、頭頂部に近い尖った耳、尻尾、そして何本かの長い透明な髭。ところどころに見られる猫の特徴を持った姿は、聞いたものが驚きに声をあげるだろう高値で、取引されていた。
生まれてきたことに 意味があるのさ
途中まで歌い、ギターを置いた。自分のことを歌っているとは夢にも思っていないだろう。ただただ怪訝そうに、ココネはまた首を傾げ、見つめてきた。
光を灯すことのないココネのガラスの瞳は、彼女の心の中、自分をどのような像で結んでいるのだろうか。
頭を撫でる。気持ちよさそうに耳が頭を垂れた。
ココネの眼窩に収まっているものに、瞳はない。生まれつきなのだろう。白いガラス玉のように、きれいに一色だけだ。
「おいで」
呼ぶと、跳ぶようにすぐさま膝の上に乗ってきた。
こちらに背中を向ける体勢で、ギターを重そうに抱え上げ、伸ばした足の上に置く。そうして、ココネはなにかを言いたげにこちらを見上げた。
「もしかして弾いてみたいの?」
もしやと思い訊ねる。
「うん」
ココネは短く返事を返した。
どう扱えばいいか全くわからないのだろう。両手が世話しなくギターの輪郭をなぞっている。もしくは、形をまず把握しようとしているのかもしれない。
「まずこれがネック。それで、これが弦」
ココネを抱えるようにして後ろからその手を持ち、ギターの部位に直接触れさせながら名前を教える。
「この弦を、弾くと音が鳴るんだ」
手本に一度弦を弾く。
「うぉぉぉ」
感動してるのだろうか。うめき声のような音を漏らすココネ。その後じゃんじゃんじゃんと、三度かき鳴らした。
しかしうーんと気に食わない様子で、すぐにまたこちらを見上げる。
「音……違う」
先ほどの曲のことを言っているのだ。
それはそうだ、弦を鳴らしてるだけで音階をつけてはいない。でも目の見えないココネには、弦を押さえる位置を変えることでいろんな音を奏でているという光景が見えていないのだ。
「ここをこう押さえて、それから鳴らすんだ」
試しにドの音を出してみる。さらに押さえる弦の位置によってドの音の高さに違いがでるわけだが、さすがにそこまで説明するのはやめておいた。
「うぉぉぉ……」
前回とは違う音がでたことに、また声を漏らした。今度はさっきより、驚きが篭もっていたような気がする。
弦を押さえて、鳴らす。基本の方法を学んでか、ココネはいろいろな位置でいろいろな音を鳴らし始めた。だがいかんせん、弦は六本並んでいてそれなりの幅がある。どうしても端から端の弦を押さえることは無理なようだ。
「はい、じゃあココネはこっち。僕がこっち」
ココネには弦をかき鳴らす役割を与えた。弦を押さえて、鳴らすタイミングをこちらは指示する。
だから、せいいっぱい歌を歌う
「歌うーー」
弦を鳴らしながら真似してココネも歌った。
そしてまだ完成していない歌が終わって、ギターの音も止む。部屋が静かになる。ゆらゆらとロウソクの火だけが、曲が終わったことを知らずゆらゆらと踊り続ける。
「ブルースっていうんだこの歌」
「ぶるぅす?」
自分の気持ちや思いを、詩にする歌。それがブルース。
「いつかさ、街で歌いたいんだ。みんなに囲まれながら」
――こんな可愛くて愛おしくて……儚くても一生懸命な存在がいるんだって。ギターを鳴らして、歌を歌っているのだと。
まだ未完成なココネの歌だけど。
「ココネと一緒に歌おうね。一緒にギター鳴らそう」
頭を撫でる。いつものように耳が垂れる。
「うん! 歌う! じゃんじゃんする!」
「そうか、ならギター覚えなきゃ」
うん。とココネはすぐ返事を返した。
とりあえず、ココネでも全ての弦に手の届く、小さめのギターを用意してもらおうと、心に誓った。