南の島
地上から星を常に見上げている人間はそう多くなかった。
既に天文台の存在意義は地上になくなって久しい。
地上にいる者でその異常に最初に気がついたのは軌道エレベーターの職員だった。
ただ正確には彼は地上にいた訳ではなかった。
軌道エレベーターのカウンターウェイト、即ち軌道エレベーターの最上部に彼はいた。
並列有機コンピューターに設備の管理を任せてはいたものの、彼は運行の担当者である事に変わりはなかった。
最初の異常は通信網の異常だった。
しかも全系統に生じている。
軌道エレベーターの基幹部、地上待機班との連絡は常時取れていたのだが、コロニー群との連絡網が途切れていた。
全てが途切れる事は想定し難い。
宇宙に存在するコロニーは7,000基を数える。それらが文字通り通信網としての発信元であり、中継点でもあった。
それなのに途切れた。
トラブル事のマニュアルに従って並列有機コンピューターが緊急業務をこなしている間、彼は携帯端末で再度地上班を呼び出した。
だが応答がない。
警報音が鳴り響いた。与圧区画に異常減圧が生じた際に鳴る音だった。
訓練で聞き鳴れた音だ。
彼は抜き打ちの訓練を疑っていたが、その疑問もすぐに吹き飛んでいた。
監視所にようやく着いた彼が見たのは頭上に浮かぶ地球だ。
その手前には宇宙船が接舷する宇宙港があるのだ。
数箇所で外壁が赤熱化しているようだ。
ありえない。
人口デプリはとうの昔に一定の大きさのものは排除されているし、小惑星や隕石も安全確保の為に常時排除を続けているのだ。
他に考えられるとしたら何者かの攻撃を受けている、としか思えない。
小型であっても機動兵器の接近を感知できなかったというのか?
それもまた考え難かった。
だが光学監視モニターに移っていたのは異形の機械だった。
金属光沢を放ちながらもどこかしら生物のような印象がある。
気持ち悪い、と思うよりも恐怖が先に彼の心を占めていた。
宇宙港を占拠されたら。
地上へ戻るのは困難だ。地上には家族も残しているのだ。
なんとしても戻らねばならない。
そんな彼の思いは並列有機コンピューターの指示に断念することになった。
脱出艇による避難指示が出ていた。
監視所の隣にある脱出艇に向かおうとしたその時。
小型の機動兵器の姿が目の前にあった。
マニュピレーターらしき腕が迫っていた。
地上班は警報に対応すべく訓練の通りに動いていた。
遅滞もなくマニュアル通りに業務を進め、軌道エレベーターの運行中止手続きを進めていた。
彼らの行動には問題はなかった。
宇宙港と軌道エレベーターの運行担当者は遥か上に居て連絡が取れない。
他に2つある軌道エレベーターを経由して呼び出したがダメだった。
何かが起きていた。
上で何が起きたのか、地上にいる人間が知るにはまだ時間を要する事になった。
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ブリュッセルはここ300年の間、ほぼその外観は変わっていない。
小パリとも称される美しい町並みは遺産として受け継いでいくのにふさわしいものだろう。
だがこの町には拡大EUの首都としての顔もあるのだ。
地球圏連合の大使館もまた町並みの景観にふさわしい歴史ある建物であったが、今は無粋な面々で満ちていた。
駐在武官達だった。
一様に鉄面皮であり、服装も一般職員を装っている。
だが彼らには僅かながら緊張感の高まりが見られていた。
見逃すものか。
「マスター。レッドとセゾン、ランピックが入庫します。検品なさいますか?」
邪魔が入った。
だが監視ならば他にも人員はいる。
それにチャンスは今日だけではないのだ。
焦るまい。
「ああ。お客が来ているから接客を頼む」
「はい」
伝票端末を受け取る。
従業員に店を任せると裏口に回った。
朝早くから営業しているカフェだが、ここは官公庁にも近く周囲をうろついていても不審に見られることもない。
夕方からは酒も出すバーになるし、奥にあるスポーツバーもなかなか好評だった。
難があると言えば、建物そのものが文化財保護指定区域にあるため、メンテナンスが欠かせない事くらいだろう。
売上も純利もそこそこに良好だった。
人類の過半が宇宙に住む時代に400年前と変わらない建物でコーヒーやビールを振舞う商売、か。
悪くない。
日々を平凡に生きるのが大変なのも良く分かったが、やり甲斐もある。
学生時代、社会体験の一環としてアルバイトも奨励されていたが、肉体労働じゃなかったから新鮮だ。
つい本来の目的を忘れそうになる。
裏口で待っていたのはいつもの業者だ。
郊外で小さい醸造所を営んでいる馴染みになる。
髭面で厳つく、筋骨隆々とした汗臭い男だった。
「やあディオ。今日もいいビールだろうな?」
「うちのビールにケチつけるな馬鹿。納品さっさと終わらせようや」
ここは文化財保護指定区域にあるため、路上の目に付く場所での自動機械の使用は禁止だ。
人力で樽を地下倉庫へと運ばねばならないのだった。
「ニケ。トラックを頼む。今日はピルスナーの補充はなしだ」
ディオの相棒は無愛想な女だ。トラックの運転席から降りる事もしなければ挨拶もない。
だがそれがイイ。
彼女は印象こそキツいが美人である事もまた間違いないし、そんな態度がまた似合っていた。
実にクールだ。
男としては悪い気はしない。
地下へ二人がかりでビールを運ぶと空になった樽を点検していく。
在庫も手分けして確認する。
伝票端末に入力を終えると精算して伝票情報を相互確認しておく。
ついでにディオからはデータキューブが渡された。
「偏光フィルター角度はいつもの三つから変わってるぞ。伝わっているのか?」
「問題ないよ」
データキューブを無造作にエプロン下のポケットに収納する。
「ここも楽しめたようだがそろそろ潮時だと思ってるだろ?」
「分かるの?」
「馬鹿にするな。その位は分かる」
ディオの目は真剣だった。
彼にも関わる事なのだから仕方はないのだが。
「もう二人ほど、枝を付けたら河岸を変えるさ」
「醸造は天職だと確信してたんだがね」
まあアンタはそうだろうよ。
つき合わされてるニケは違うんだし巻き込まない方がいいぞ。
「次は何処に?」
「インド。次に日本かな?」
「インドに日本だあ?マスター、そりゃちょっと突拍子もねえぞ」
大げさに驚くなって。
インドは戦争によって人口が激減した地域の一つだ。
二十億近くあった人口が五千万以下にまで減った、と言われている。
本土の汚染状況は地球上でも屈指の酷さで知られている。
そんな状況でもインドには一千万人が居住している、と言われている。
人口統計がとれないほどに政府の統治能力は低下しているのだった。
そして日本。
戦争による人口低下は比較的少なくて済んでいた。
国策により宇宙移民に当初から積極的だったため、戦争開始時点で本土の人口の過半が宇宙に移民済みだった事が功を奏したと言える。
但し、戦禍を免れた訳ではなく、現在も数多くの汚染地域を抱えている。
資料によれば、現在の日本の国土全域で三十万人といった所だ。
国土保全員が殆どで、一部には科学者もいるようだが。
「人間がいない所で人間の痕跡を探すってのか?」
「まあね」
「何を掴んだ?お前さん」
「今はまだ秘密」
少しだけ笑って見せる。
失敗、だったかな?
ディオが鉄面皮になってしまっていた。
「ワシ達は簡単に移動できん。助けは期待するなよ?」
「暫くここでゆっくりして下さいよ」
伝票端末でディオの肩を叩く。
「仕掛けてみるのは早い方がいいさ」
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海だ。
小笠原の海だ。
蒼い海だ。
もうここに来て半年になるけど、未だに仕事らしい事をした実感がない。
これも研修のうちらしいけど、ずっと遊んでいるようにしか思えない。
実際、今も海を満喫していた。
遠目にハシナガイルカを眺めながら、訓練の一環で底に沈めたプレートを拾いに潜って行く。
最初はまるで素潜りなんて出来なかったけど、今では相当慣れてきた。
肌を滑っていく海水の感触も心地いい。
地球は一時期、戦争の影響で一気に寒冷化が進んだそうだけど、今は徐々に戻ってきているそうだ。
小笠原の海にハシナガイルカが戻ってきてもう半世紀、ということらしい。
ザトウクジラも稀に見かける記録もあるらしいけど、まだボクは見ていない。
是非ともこの目で見たいな。
でもこんなんでいいんだろうか?
ここに来てから仕事らしい事といえば何をしたかなあ?
北米連邦から委託されているマリアナ諸島、ハワイ諸島の汚染地域評価は半年に一回、定期的に行っているそうだ。
ボクは機材搬入搬出の手伝いをして、フィールドワークにも同行した。
軌道エレベーターから日本本土への物資輸送を中継した事もある。
でもこんなのは片手間のものだ。果たして仕事と呼べるのかどうか。
おかげで報告書を提出することもなかった。
求められても報告することがなくて困るし、能動的に報告すべき事項もない。
例えば今日はどう報告したものか。
今日のプレート拾いは上手に出来ました。
終了。
報告の価値がない。
海底に落ちていたプレートを拾い、クルーザーから垂れ下がる縄はしごを登って後部甲板に向かう。
まるでリゾートに来ているセレブのような格好で先輩が本を読んでいた。
「ニコライ君。規定回数はもうこなしたの?」
紙の本から視線を外さずにレーヴェ先輩が確認してくる。
レオン先輩、と呼ぶべきなんだろうけどドイツ語読みがカッコイイからってレーヴェと呼ばせているのだ。
最初はナルシストにしか見えなかった。
今でも美貌の優男に見える。
でもその体格と筋肉のつき方は引き締まったアスリートのものを備えている。
本当、いつ鍛えているのだろう?
「無論です。ところでレーヴェ先輩はいいんですか?ノルマは所長に言われてたと思いますけど?」
「ん?いいんだよ、私はね。酷い事になるからねえ」
何が酷いんだろう。
この人には今までも色んな事を突っ込んで聞いて見たけど、まともな答えが返ってきた試しがない。
読んでいる紙の本も二十世紀の文学、と謳っているけど、日本の官能小説の大家の作品だ。
「今のうちに満喫できることは満喫する。とっても大事なことなんだよ?」
「給料泥棒って言葉が頭をよぎるんですけど?」
「いいんだよ、どうせ僕らは世間の規格からハミ出しているんだから、さ。籠の鳥にだって楽しみ方があるってものさ」
困る。
それではボクが困るのだ。
ボクには異能判定が出ている。それだけでもハンデを最初から背負っているというのに。
実際、ボクは自分にどんな異能の力が宿っているのかを知らない。
それなのに異能判定だ。
常に自分の所在を明らかにしないといけないし、公共の場での自由も制限される恐れがある。
なにより、地球圏連合で生き抜くには政府特務職員として公務員になる以外に道がないのだ。
挫折。
一般社会では憲法で保障されている筈の職業選択の自由が真っ先に奪われていた。
なんという酷い運命だろう。
だがまだ望みはあった。
国土保全員の職だ。
地球の自然環境に触れる事ができる。
自然科学者を志向するボクには次善の選択だ。
公務員であり、例え異能者であっても就業制限に引っ掛からない。
条件は一つ、異能の力をコントロールできることってだけだ。
ここに来たのも国土保全員になる前段階として、異能の力を発現するための訓練だと聞いた。
目立った成果は皆無だった。
肉体を鍛えに鍛えたってだけで終わってる気がする。
同僚も、なにより先輩も頼りに値しない。
それでもなんとかしたかった。
「レーヴェ先輩も異能者だと聞きますがどんな力なんですか?いい加減、教えて貰いたいんですけど」
「ん?まあたいしたことはないって。そのうち話すこともあるかもね」
いっつもこれだ。
やっぱり所長に標的を変えていくべきなんだろうか。
最終的にはビッグ・ママことコニーになるのかも。
それだけは避けたい所だった。彼女にはどこをどうやっても勝てる気がしない。
レーヴェ先輩が仮想モニターで時間をチェックしていた。
どうせどれだけ長く昼寝が出来るかどうか、見計らっているに違いない。
「コーリャ、一旦戻るよ。準備を急いで」
コーリャだって?
レーヴェ先輩がボクのことを愛称で呼ぶのは珍しい。
何か起きたんだろうか?
クルーザーの重力制御球に反物質燃料を注入してシステムを起動しながら疑問符をしまい込んだ。
父島のベース基地には硫黄島設備のメンテナンスに行っていたメンバーも既に戻っていた。
まだ十時になっていない。
メンテナンスどころか設備に到達していたのかも怪しい。
「ようルーキー!ダイブは終わったかい?」
ミランダは軽薄そうに見える黒人女性だが、その実真面目な姉貴分だ。
言葉遣いが男前なのは失点だろうけどボクは気にならない。
問題はその格好で、チューブトップにホットパンツだけだ。
体のラインを隠そうともしていない。
ブラック・ビューティーなのを自認しているし周囲もそれを認めている程だ。
視線をどこに向けていいのか困ってしまう。
彼女は優秀なテレパスと聞くけど、その実態を体感する機会は未だにない。
「ミランダ!チェックリスト持って行って!」
端末をミランダに押し付けているパメラは対照的な金髪碧眼で迫力満点の白人女性だ。
少し鈍いような印象もあって、妹分のような感じがする。
ミランダとはペアを組んで行動する事が多い。
こっちもミランダとは色違いのチューブトップにホットパンツだけの格好だ。
これまた視線をどこに向けていいのか困ってしまう。
彼女はテレポーターらしく、以前に跳ぶ所を見た事があった。
二人ともボディラインが半端ない迫力だし、並んで歩いている所は眩しいとしか言いようがない。
ボクと一才年上だと言うが、本当なんだろうか。
妙齢の男でなくとも垂涎の的だろう。
尤もこの島ではナンパするような男がいないのだが。
クルーザーデッキにビッグ・ママことコニーが出迎えに来ていた。
「おや、もう揃っていたかい」
コニーは典型的な黒人女性だ。
もう子供さんは成人して大人になっているそうだから四十代の女性の筈だ。
でっぷりと貫禄があるが、さながらゴム鞠のように軽快に弾んで動き回る。
こう言ってはなんだけど、この島にいる誰よりも若々しい人だ。
念動力と身体強化能力を持ってるそうだけど、それ以上に彼女の料理が怖い。
いや、料理は旨いのだけれど、少しでも残すと彼女の怒りが収まらなくなるのだ。
ボクは確かに若いのだろうけど、成長期はもう止まっている。
いや、筋肉増量に貢献はしているのだから感謝すべきなんだろうけど。
もっと体を動かして鍛えろ、とは彼女の推奨だが、命令にしか聞こえない。
彼女を料理番にしている意味も分からない。調理用自動機械はここでは無用の長物と化している
肩書きは副所長なのだけど、誰も彼女を肩書きで呼ぼうとしない。
「所長は戻りますかね?」
レーヴェ先輩はビッグ・ママにも態度を変えようとしない。
そこだけは尊敬できる、かな。
「静浜ベースから戻るまで少しかかるって連絡があったよ」
ビッグ・ママが空を見上げた。
「どうもお空の上で何かあったみたいだねえ」
ミランダとパメラは互いの顔を見るとやはり空の上を見た。
「なんかザワザワしてる、かな?」
「そうね。確かに震えてる、かな?」
そうなのか。
異変に気がついていないのはボクだけだったのか。
本当にボクって異能の力があるんだろうか。
レーヴェ先輩が本を閉じる。
「これはちょっと、面倒な事になりそうだね」
困った様子を見せずに先輩が言うと、そこにいる全員が困り顔になった。
ボクだけは意味が分からず困っていた。
「今のうちに全員、体を休めておくといいよ」
そう言うと休憩室にたった一つしかない長椅子に横になって本を開いた。
度胸あるなあ、と思いながらビッグ・ママの顔を窺う。
意外に真剣だった。
「夕食はどうするね?」
「今のうち、だろうね」
「ここで食べられそうかね?」
「マム。バスケットに詰めて持ち運べるのがいいなあ」
不思議なやり取りの後、ビッグ・ママがボクの背中を叩く。
「坊やも今のうちに休んどくこった」
「就業時間でしょ?」
「誰も見ちゃいないさ」
一応、ビッグ・ママも管理職じゃないのかなあ。
レーヴェ先輩が本から視線を外してボクに止めを言い渡した。
「悪い事は言わないから。今のうち寝とくんだね、コーリャ」
また本に視線を戻す。
一度、先輩の部屋に招待されたけれど、書斎のような有様だった。
堂々と官能小説を書棚に並べておくのは如何なものか、と思う。
その上、就業場所でも堂々と読書に勤しむのだ。
そうでなくとも、ここにはミランダにパメラ、もう一人フユカといった妙齢の女性達がいるのだ。
セクハラ、だよね?
半年経過したけど、このノリにはまだ慣れそうにない。