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深更トライアド

『わたしは今日、あなたのアドバイスで死にました』ー 沈黙の相談室 ー

作者: 比古狭霧
掲載日:2026/06/20

■ 第1章 深夜の相談室


「朔って、たまに核心つくよな」


そう言われると、

真壁朔まかべ・さくは少しだけ照れたように笑った。


人の話の表面をなぞるだけで、余計な気遣いをしない。

だから、ぽんと肩の力が抜けるのだろう。


朔自身は、それを特別だとは思っていなかった。

ただ淡々と、思いついた言葉を返しているだけだ。


昼に大学でたまに顔を合わせる先輩が、

一年生との距離の取り方について軽く相談してきた。

どこまで踏み込んでいいのか迷っているようだった。


「見すぎなんですよ」とだけ言うと

先輩は一瞬目を丸くし、それから肩の力を抜いた。

朔にとっては、日常の一コマにすぎない。


大学に来てから、表面的な付き合いが増えた。

孤独を感じる時間も増えた。


だから、誰かの声をただ聞くこの仕事が、

朔にとっては救いになっていた。


名前を聞かず、助言を与えず、ただ耳を傾けるだけ。

その単純なルールの中で、朔は自分の居場所を見つけていた。


深夜相談室には、いくつかの決まりがある。


1. 相談者の名前を聞かない。

———————————————————————————

2. こちらの名前も名乗らない。

———————————————————————————

3. 状況を深掘りしない。

———————————————————————————

4. 意見を挟まない。

———————————————————————————

5. 沈黙が続いても遮らない。

———————————————————————————

6. どんな内容でも“記録は残すが、判断はしない”。

———————————————————————————


ただ声を受け止めることだけが、

この部屋で許された役割だった。


深夜0時。

古びた雑居ビル四階の小さな部屋。


窓はなく、六畳ほどの空間は

外界から切り離されたように静かだ。

蛍光灯の低い唸り、天井の染み、

机の端の小さなラジオ。


壁掛け時計の針が0時を指すのを確認し、

朔は受話器を整えた。


ラジオが淡々とニュースを伝える。


『本日未明、都内の大学構内で学生が投身自殺したとみられる事件があり──遺書には“思い悩んだ末に”と記されていたとのことです』


その声は、淀んだ空気に溶けていった。

朔は書類に目を落としながら、ふと以前聞いた話を思い出した。


福井県にある東尋坊の崖のそばには、

深夜でも人を見張っている相談員がいるという。


飛び込もうとする人に声をかけ、

ただ話を聞くだけの小さな相談室。

観光地の裏側に、そんな場所があると誰かが言っていた。


朔はその話を思い出すたび、

自分の仕事とどこか似ていると感じていた。

誰かの名前も事情も知らないまま、

ただ声だけを受け止めるという点で。


最初の電話は、中年の男だった。


「……もう、辞めたいんですよ。全部」


声は落ち着いているのに、

言葉の端が擦り切れていた。

笑いながら話すのに、笑っていない声。

朔は相槌も打たず、ただ呼吸のリズムだけを合わせる。


「聞いてくれるだけでいいんです。ほんとに」


その言葉だけが妙に軽く響いた。

次の電話は、泣き声から始まった。


「……今日、別れたんです」


大学生らしき女性の声。

鼻をすする音が続き、言葉が途切れ途切れになる。


「全部どうでもよくなっちゃって……」


朔は何も言わない。

沈黙が続くと、彼女は勝手に話し、勝手に落ち着いていった。


3人目は、声が震えていた。


「……誰かに見られてる気がするんです」


性別も年齢も分からない。

ただ、受話器越しに伝わる“怯え”だけがはっきりしていた。


「部屋の外に、誰かいる気がして……」


朔はルールを守る。

問いを重ねない。相手が話すまで待つ。


「……すみません、変なこと言って」


そう言って通話は切れた。

4人目は、ノイズ混じりの声だった。


「……聞こえてますか」


性別不明。声が遠い。

ノイズが混じり、言葉が途切れる。


「あなたに……届いていない気がする」


朔は電波の問題だと思った。

「聞こえていますよ」とだけ返すと、相手は短く息を吸い、切った。


そして5人目。

無言だった。


呼吸だけが、受話器の奥で揺れている。

年齢も性別も分からない。

ただ、背景に微かな自然音が混じっていた。

風のような、木の葉が擦れるような、遠くの水音のような──


朔は気に留めなかった。

窓を開けているのだろう、程度にしか思わなかった。


「……聞こえていますよ」


返事はなかった。

ただ、呼吸が一度だけ深くなり、通話は切れた。


深夜2時半。

電話は一度途切れ、静けさが戻った。

朔は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


今日の相談者たちは、

どこか“重さ”があった気がする。

だが、深夜にはよくあることだ。

朔は深く考えず、次の電話を待った。



■ 第2章 3時01分の声


深夜2時59分。相談室の時計は、

秒針の音だけを静かに刻んでいた。


この時間帯は、電話が鳴らない。

毎晩3時ちょうどから3時1分までは、

回線点検のためにシステムが止まる。

だから、鳴るはずがない。


朔は記録用紙を閉じ、背伸びをした。

今日の相談者は5人。

どの声も、どこか重かった気がする。

だが、深夜にはよくあることだ。


秒針が3時を指した瞬間、受話器が震えた。


──プルルル。


朔は一瞬、音の意味が分からなかった。

鳴るはずがない。鳴ってはいけない時間だ。


震える指で受話器を取る。


「……はい、相談室です」


ノイズが混じった。遠くで風が吹くような、

木の葉が擦れるような、微かな自然音が揺れている。


そして、声が落ちてきた。


『わたしは今日、あなたのアドバイスで死にました』


朔は息を飲んだ。


アドバイス?

今日?

死んだ?


「……番号を間違えてませんか」


声は返ってこない。ただ、ノイズが揺れた。

朔は、今日の相談者を思い返した。


①仕事を辞めたいと言っていた中年の男性

②失恋した大学生の女性

③誰かに見られていると言った人物

④声が届いていない気がすると言った人物

⑤無言の人物


どれも、朔は“聞いただけ”だ。

助言などしていない。


「今日の相談者に……そんな人、いないはずだ」


だが、思い返すほどに、

“いない”と言い切れなくなっていく。

誰もが、どこか壊れかけていた。

深夜の声は、輪郭が曖昧だ。


朔は、相談者の顔を知らない。名前も知らない。

年齢も、性別も、生活も、何も知らない。

ただ声だけを聞いていた。

尋ねてはいけないルールだからだ。


しかし、その声のどれかが──

“死んだ”と言っている。

ノイズが揺れた。朔は震えた。


「待ってください。僕は、アドバイスなんて──」


朔の喉が詰まった。

アドバイス?

何を?


今日、自分が言った言葉は──


「聞こえていますよ」

「大丈夫です」

「どうぞ」


そして、適当とも捉えられそうな相槌や会話だ。


……いや、あれは相談ではない。

ただの雑談だ。仕事とは関係ない。


なのに──


『あなたのアドバイスで、わたしは死にました』


朔は言葉を失った。

ノイズが一瞬だけ強くなり、

その奥で、風のような音が揺れた。


『わたしの声を殺したのは、あなた』


朔は思わず、しかし冷静に続けた。


「悪戯ですか? 警察に通報しますよ」


その瞬間、声は静かに返した。


『あなたには、核心が見えていなかった』


ぷつり、と通話が切れた。

受話器を握ったまま、朔は動けなかった。


核心?


何の話だ。自分は何もしていない。

相談者の誰にも、助言なんてしていない。

ただ聞いただけだ。だが、それは相談ではない。


朔は頭を振った。


「……悪戯だ。絶対に」


そう言い聞かせるしかなかった。

しかし、胸の奥に、小さな棘のような違和感が残った。


“今日の相談者の中に、あの声の主がいるのか?”


朔は記録用紙を見返した。

一人一人の声が、今になって重くのしかかってくる。

深夜3時15分。相談室は静まり返っていた。

朔は受話器を置き、深く息を吸った。


「……明日、確かめよう」


そう呟いた。



■ 第3章 沈む朝


朝の光は、

相談室の薄暗さとは別の意味で

朔を落ち着かせなかった。

昨夜の電話の余韻が、まだ耳の奥に残っている。


『わたしは今日、あなたのアドバイスで死にました』

『わたしの声を殺したのは、あなた』

『あなたには、核心が見えていなかった』


どれも現実味がなかった。

だが、現実味がないからこそ、頭から離れなかった。


朔は大学へ向かった。

構内には、いつもより人が多い。

ざわつきが空気を押しつぶしている。

掲示板の前に学生が集まっていた。


「昨日の夜、構内で学生が亡くなった件について」


淡々とした文面。名前はない。

学部も学年も書かれていない。

ただ、“学生1名”とだけある。

講義は通常通り行うと書かれていた。


学生相談室の利用案内が添えられている。

朔はその紙を見つめながら、

自分の胸の奥に、妙な空洞ができていくのを感じた。


だが、昨夜の声が、

その空洞にゆっくりと沈んでいく。


講義中、教授の声は耳に入らなかった。

ノートを取る手が止まる。黒板の文字がぼやける。

朔の頭の中には、昨日の相談者たちの声が次々と浮かんでいた。


「全部辞めたい」

「全部どうでもいい」

「誰かに見られてる気がする」

「届いていない気がする」

「無言の呼吸」


どれも、深夜の曖昧な声だ。

だが、曖昧だからこそ、

どれも“死んだ声”に聞こえてしまう。


朔は講義が終わると、

人混みを避けるように校舎を出た。


帰宅しても落ち着かなかった。

布団に潜り込んでも、目を閉じると、昨日の声が浮かぶ。


『あなたには、核心が見えていなかった』


その言葉が、朔の胸の奥を何度も叩いた。

朔はバイト前の仮眠で過去の自分を見ていた。


友人に言った何気ない一言。

家族に返した軽い言葉。

大学での雑談。

相談室での沈黙。


どれも“核心をついた”と言われたことがある。

だが、思い返すと、

どれも核心などついていなかった。


偶然だ。ただの言葉だ。

深く考えずに出たものだ。

なのに、人はそれを“核心”だと思い込んだ。


朔は夢の中で、

自分の言葉が勝手に重くなっていくのを見ていた。


『あなたには、核心が見えていなかった』


その声が響いた瞬間、朔は目を覚ました。

汗が滲んでいた。喉が乾いていた。

時間を見ると、バイトの開始まであと少しだった。


朔は相談室へ向かった。


昨夜のことを誰かに話すべきか迷ったが、

話したところで理解されるとは思えなかった。


通常業務が始まった。

受話器を取るたびに、朔は相手の声の奥を探ってしまう。


この人は大丈夫だろうか。

本当に大丈夫なのだろうか。

深刻に聞こえなくても、

心のどこかで崩れかけているのではないか。


そんな考えが、朔の胸に重く積もっていく。

深夜が近づくにつれ、朔の心拍は早くなった。


そして、昨日と同じ時間が来た。

3時01分。受話器が震えた。

朔は息を呑んだ。手が震えた。

だが、逃げることはできなかった。


「……はい」


受話器の向こうでノイズが揺れ、

その奥に風が流れるような気配が混じった。

木の葉が擦れ合う微かなざわめきと、

遠くで水が落ちるような音が重なり、

昨日と同じ背景がゆっくりと立ち上がってくる。


『思い出してくれれば、わたしは消える』


その声が届いた瞬間、朔の喉が詰まった。

胸の奥が冷たく縮む。


「……あなたは、誰なんですか」


言葉が漏れた瞬間、

部屋の空気が一気に凍りついたように感じた。


【ルール 1. 相談者の名前を聞かない。】


背後でスタッフが振り返る気配がした。

明確な“ルール違反”だった。

次の瞬間、通話は途切れた。

受話器には、ただ静寂だけが残った。


スタッフに呼び止められ、朔は事情を説明した。

だが、昨日も今日も、朔が取ったはずの電話は

入電履歴に残っていなかった。


「疲れているんじゃないか」

「しばらく休んだほうがいい」


朔は相談室を出た。夜風が冷たかった。

何が現実で、何が違うのか分からなかった。


帰り道、朔は何度も振り返った。

誰もいないのに、誰かに見られている気がした。


朔は部屋に戻ると、机に向かい、

昨夜の声の主が“もし本当に死んでいたとしたら”

という前提で、自殺に関する情報をひとつずつ調べ始めた。


まず目に入ったのは、

自殺の原因に関する統計だった。


精神疾患の関与は70〜90%以上。

うつ病、双極性障害、統合失調症、依存症。

どれも、本人が自覚しないまま進行することがある。


そして、追い詰められた人ほど、

“助けを求める声”が周囲には届きにくい。

朔は息を呑んだ。


昨日の相談者たちの声が、

ひとつずつ頭に浮かぶ。


①「全部辞めたい」

②「全部どうでもいい」

③「誰かに見られてる気がする」

④「届いていない気がする」

⑤「無言の呼吸」


どれも、深夜の曖昧な声だ。


だが、曖昧だからこそ、

その裏に何が隠れていたのか分からない。

次に、心理状態についての記述が目に入った。


- 絶望感

- 孤立感

- 視野狭窄

- “他の選択肢が見えなくなる”状態


朔は画面をスクロールする手を止めた。

昨日の声の主は、まさに“届いていない”と言っていた。


届かない声

届かない相手

届かない世界


朔は喉が乾いた。さらに読み進めると、

自殺の“衝動性”についての研究があった。


衝動的に行われるケースは多い。

しかし、衝動の裏には必ず“積み重ね”がある。

誰にも気づかれないまま、静かに積もっていく負荷。


朔は、昨日の相談者たちの沈黙を思い出した。


沈黙は、言葉を探している時間。

だが、“最後の沈黙”だった可能性もある。


朔は息を呑んだ。

昨日の沈黙の時間が、

急に重く感じられた。


次に、

“自殺場所の傾向”という項目が目に入った。


- 自宅

- 職場

- 学校

- 人目の少ない場所

- 水辺

- 高所

- 線路付近

- 公共施設のトイレ


どれも、

“その人にとってアクセスしやすい場所”が選ばれやすいと書かれていた。


特定の場所が“自殺の名所”になることもある。

だが、多くの場合は、

その人が普段から使っている場所、

慣れた場所、落ち着く場所が選ばれる。


さらに読み進めると、

“自殺方法の特徴”という項目があった。


- 首吊り

- 投身

- 服毒

- 練炭

- ガス

- 溺水

- 刃物


どの方法にも共通するのは、

“その人がその時点で実行可能な手段を選ぶ”という点だった。


準備が必要な方法もあれば、

その場で実行できる方法もある。

衝動性が高い場合は、後者が選ばれやすい。


朔は画面をスクロールしながら、

昨日の相談者たちの声をひとつずつ思い返した。


①仕事を辞めたいと言っていた中年の男:「全部辞めたい」と繰り返していた。声は擦り切れていて、笑っているのに笑っていなかった。“絶望感”や“無力感”の項目に当てはまる部分が多い。


②失恋した大学生の女性:「全部どうでもいい」と泣いていた。失恋をきっかけに急激に視野が狭くなるケースは多いと書かれていた。“衝動性”が高まりやすい状態。深夜の孤独感が重なると、危険度は跳ね上がる。


③誰かに見られていると言った人物:怯えた声。被害妄想や不安感の高まりは、精神疾患の初期症状として現れることがあると資料にあった。 孤立感と恐怖が重なると、“逃避としての自殺”に繋がるケースもある。


④声が届いていない気がすると言った人物:ノイズ混じりで、性別も年齢も分からなかった。「届いていない」という言葉は、“自分の存在が誰にも認識されていない”という感覚に近い。孤独感の極致。自殺の主要因のひとつだ。


⑤無言の人物:呼吸だけが揺れ、背景に自然音が混じっていた。沈黙は“言葉を探している時間”でもあるが、“最後の沈黙”だった可能性もある。資料には、「自殺直前は言語化能力が低下し、沈黙が増える」と書かれていた。


どれも、“その場で実行可能な手段”を選んでも

おかしくない心理状態に見えた。


そして、最後に朔の目に止まったのは、

“自殺を試みた後、死亡までの時間”についての記述だった。

どの方法でも、即死とは限らない。


- 首吊りでも、数分から十数分の意識混濁を経て死亡するケースがある。


- 投身の場合でも、即死は半数程度で、残りは数分から数時間生きていることがある。


- 服毒では、数時間から数日にわたって苦しむこともある。


- 溺水は、数十秒から数分のもがきの後に意識を失う。


- 刃物による自傷は、失血の速度によって生存時間が大きく変わる。


- 深夜に行われた場合、発見が遅れ、死亡推定時刻が“実際より後ろにずれる”こともある。


朔の指が止まった。胸の奥がざわつく。

だが、そのざわつきが何を示しているのか、

朔にはまだ分からなかった。


ただ、昨日の声の主が

“死んだあとに電話をかけてきた”

という考えだけは、必死に否定しようとした。


朔はスマホを取り、

普段は自分から連絡しない相手に

ひとつだけ確認のメッセージを送った。

送信した瞬間、胸の奥がざわついた。


理由は分からなかった。

ただ、何かがゆっくりと形を成し始めている気がした。

朔は布団に潜り込み、目を閉じた。


風の音が耳に残っていた。

昨日の電話の背景にあった音と、どこか似ていた。

そして、その音の奥に、昨日の声が沈んでいくように感じた。



終章 思い出すということ


翌朝、朔は重い頭を抱えたまま目を覚ました。

眠った気がしなかった。夢の中でも、あの声が何度も繰り返されていた。


『思い出してくれれば、わたしは消える』


思い出すとは何を指すのか。誰を思い出せばいいのか。

朔には見当もつかなかった。


大学へ向かう道のりは、いつもより長く感じた。

構内には昨日と同じざわつきが残っている。


学生たちは事件の話をしていたが、

朔にはその輪の中に入る気力がなかった。

講義中、教授の声は遠くで響く雑音のようだった。


ノートを取る手は止まり、

朔の意識は昨日の電話へと引き戻される。

朔は講義が終わると、サークル棟へ向かった。


部室の扉を開けると、数人のメンバーが談笑していた。

朔はその中の一人に声をかけた。


「……あのさ、ちょっと確認したいことがあって」


「ん? どうしたの、朔。久しぶりじゃん」


朔は言葉を選んだ。

昨夜の電話のことを話すわけにはいかない。

ただ、ひとつだけ知りたいことがあった。


「最近、周りの人で……元気なかった人とか、いた?」


メンバーは少し考え、

「いや、特に聞いてないけど」と答えた。


朔はそれ以上聞けなかった。

胸の奥に、説明できないざわつきだけが残った。


部室を出た瞬間、風が吹き抜けた。

その音が、昨夜の無言電話の背景にあった気配とどこか似ていて、

朔は思わず立ち止まった。


ポケットの中でスマホが震えた。

画面には、昨夜送ったメッセージの返信が表示されていた。

短い文だった。


朔はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。

風の音が遠ざかり、周囲の喧騒がぼやけていく。


──その日の夜、朔は相談室に戻った。


休職を勧められたが、

どうしても今日だけは出勤したかった。


理由は自分でも分かっていた。

あの声が、今日もかかってくる気がしたからだ。


受話器を整え、記録用紙を開く。

深夜の空気は冷たく、蛍光灯の光が机の上を平らに照らしている。


通常の相談が続いた。

仕事の愚痴をこぼす声や、眠れない夜の不安を語る声、

孤独を紛らわせるために誰かと繋がっていたいだけの声──


どれも昨日までと変わらない、

深夜特有のかすれた響きを持っていた。


だが朔の耳には、

そのどれもが“何かを隠している”ように聞こえた。


この人も、深刻に聞こえなくても、

心のどこかで崩れかけているのかもしれない。


朔は、ただ聞いた。ただ受け止めた。

昨日までよりも、 少しだけ丁寧に。


最後の相談者が通話を終えるとき、

「聞いてくれてありがとう」と静かに言った。


その言葉が、ふとある人物の表情と重なった。

笑っているのに、どこか疲れたような、あの微妙な陰り。


胸の奥がわずかに揺れ、

朔は受話器を置いた手をしばらく動かせなかった。


時計の針が3時を指した瞬間、

沈黙していた受話器が震えた。


朔は深く息を吸い、

震えを抑えようとする手でゆっくりと受話器を取った。


「……はい」


ノイズが揺れ、その奥で風が吹き抜けるような気配がした。


木の葉が擦れ合う微かなざわめきが混じり、

さらに遠くでは水が流れるような音がかすかに響いていた。


どれも途切れ途切れで、現実の音なのか、

回線の乱れなのか判別できなかった。

昨日と同じだ。


『わたしが誰か、分かりましたか』


朔は目を閉じた。

昨日調べた上げた自殺者の情報が、

胸の奥で、何かが静かに形を成していく。


そして──

朔が軽く言った一言。


「見すぎなんですよ」


あれは相談ではなかった。

仕事でもなかった。

ただの雑談だった。


しかし、相手にとっては違ったのかもしれない。

朔は受話器を握りしめた。


自分が軽く放った一言が、

誰かにとっては重さを持って響いていた可能性が、

胸の奥でじわりと広がっていく。


その感覚は、昨夜の声の余韻と混ざり合い、

朔の呼吸をゆっくりと乱していった。


「……ごめんなさい、先輩」


受話器の向こうで揺れていたノイズが、

ゆっくりと薄れていった。


風のような気配も、木の葉の擦れる音も、

遠くの水音も、すべてが静かに消えていく。


その沈黙の奥から、

今度ははっきりとした声が浮かび上がった。


もうノイズに紛れていない。

聞き間違えようのない、朔が知っている声だった。


『……思い出してくれて、よかった』


その一言が届いた瞬間、

通話は切れ、朔の胸の奥で何かが崩れ落ちた。

しばらく受話器を握ったまま動けなかった。


胸の奥に沈んでいた何かが、

ゆっくりと浮かび上がっていくようだった。


あの日、先輩が軽く笑いながら話していた

「一年生との距離の取り方」や「見られている気がする」という言葉。


冗談めかしていたはずのその声の端に、

今思えば確かに疲れが滲んでいた。


「見すぎなんですよ」と返したあの瞬間、

先輩はどんな気持ちだったのだろう。


ただの雑談だと思っていた。

深刻な相談ではないと思っていた。

だが、先輩にとっては違ったのかもしれない。


誰にも言えない不安や孤独を、

ほんの少しだけ朔に預けようとしていたのかもしれない。


その重さに気づけなかった自分の言葉が、

先輩の心のどこかに静かに沈んでいったのだとしたら──


朔は受話器を握りしめたまま、

胸の奥が締めつけられるように痛んだ。


翌日、朔は大学の掲示板を見た。


“学生1名”とだけ書かれた文面。

名前はない。だが、朔には分かった。


先輩は、思い悩んだ末に夜の構内で命を絶った。

朔はその事実を知ったとき、胸の奥が冷たく沈んだ。


朔が言った一言が、

本当に先輩の背中を押したのかどうかは分からない。

誰にも分からないし、もう確かめる術もない。


ただ、人は誰でも、

表には見えない荷物を抱えている。


深刻そうに見えなくても、

笑っていても、軽い雑談のように聞こえても、

その言葉の裏にどれほどの重さが隠れているのかは、

外からでは分からない。


そして、何気ない一言が、

誰かにとって最後の支えになることもあれば、

逆に、静かに崩れ落ちるきっかけになることもある。


朔は相談室に戻った。

受話器を整え、記録用紙を開く。

今日も、誰かの声がここへ届く。


朔は静かに息を吸った。

耳に届く声をただ受け止めるという、

あまりにも単純な行為が、

どれほどの重さを持っていたのかを

ようやく理解した気がした。


相手の言葉を遮らず、判断もせず、

ただそこに在り続けること。

それだけで救われる人もいれば、

それが届かないまま沈んでいく人もいる。


その境界線がどれほど脆く、

どれほど簡単に踏み越えられてしまうものなのかを、

朔は身をもって知ったのだと思った。


深夜の相談室は、いつもと同じ静けさに包まれていた。


だが朔の耳には、

もう二度と、あの3時01分の声は届かなかった。

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