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普通にエッセイ書くって難しい

作者: ぽぴ
掲載日:2026/04/04



昨日の夜、エッセイをスラスラと書いた。

分かりやすさも、工夫も何もない。


とにかく、心を無にして書いた。


そして、出来上がったのがこれだ。



『言葉の悪魔』


【まえがき】

※概念には『 』を、物理的な物には「 」をつけています。



 私にとって『言葉』とは、人を騙すためのものだ。パーソナリティ障害者の母や統失の父、利己的な祖父母や、規範や倫理を破る宗教家の保護司。


私の周りには、こういった「言葉」を使い人を騙す人間。いうなれば、言葉を操り、他者の生命を徴収する魔物がいる。


だからこそ、概念としての『言葉』は、人を騙すためのものだと感じている。


 その一方で、私は誠実に「言葉」を使いたいと思っている。そうすれば、母のように嘘に溺れ、孤立し、虚構の狭間で存在するだけの人間にはならず、倫理や規範を破る偽の神弁者にもならない、と考えている。


ゆえに、私が「命をかける」と言ったならば、本当に命をかける。それ以外の意味はない。


命を引き換えに、必ず目標を達成する。


 そんな私の目の前で、軽々しく「命をかける」と口にした人間がいたとき、私はその人の命を奪ってしまうかもしれない。


「絶対」「必ず」「約束」

そして、「命をかける」。


これらの言葉は契約である。

果たされなければ、相手の善性を奪う事になる。


 もし私が悪魔になったなら、言葉の悪魔として人々の善性を守るんだろうな。そして、いつしか私はその善性に殺されるんだろうな。


だって、所詮は悪魔なのだから。




――何か怖くね?


圧がある。いや、気迫があるというのか……?


好きに書くと、こんな感じで冷たくて硬い文章になる。



 私が普段書いているエッセイは、視点の提供を目的とした物が多い。自分の頭の中にある視点や道具の使い方を書いた物が多いから、なるべく、人に分かりやすい表現で書いている。


かなり難しい。

所詮は、主観だから。



 最近だと、ストーカーが捕まらない理由の話を書いた。あらためて読むと、分かりにくい箇所が何個もある。


とくに、冒頭では「答えは簡単」としながら、あとがきでは、「こんなに単純じゃない」としているから、やっぱり分かりにくい。


 冒頭の「答えは簡単」というのは、質問に対しての答えで、あとがきの「こんなに単純じゃない」というのは、実際の事件の複雑な要因(語られない部分)を考慮した意味の単純じゃない、という発言だ。


やはり分かりにくいな、と思う。



 そして、また『言葉の悪魔』というエッセイの話に戻るが、AIいわく、「自身の厳格なルールに『命』が含まれており、そのルールを守るためならば自分の命を惜しまない狂気性がある文章」とのことらしい。


読んだ人は、自分にも「命を含む厳格なルール」という刃が向けられているように感じ、それが怖さになるらしい。


へぇー、とても勉強になった。



 同時に、AIが生成しにくい文章でもあるという話だったから、多分、『言葉の悪魔』というエッセイには、私のそんざいの断片が多量に含まれているのだろう。


――あ、また分かりにくい所があった。


 私が『魂=存在』という認識を持っていても、他の人は持っていない。だから、それの解説をしないと、読者は置いていかれちゃう。


簡単に説明すると、『魂』という言葉は抽象的だから、「存在」という言葉を私は当てはめている。


すると、「魂が感じられない」は「存在が感じられない」になるし、「魂がぬける」は「存在がぬける」になる。


 『魂』って言葉よりは、相手の言いたいことが分かる気がする。だから、私は「魂=存在」と置き換えるようにしてる。


そうすれば、「魂がこもっていない」と言われたときに、「(あぁ…私の存在が作品に感じられなかったのか)」って具体的に考えやすいから。


しかし、「魂がない」とは不思議なことだと私は思う。


 私たちは、映画やドラマ、あるいはアニメを見るとき、作者や脚本家の「魂の存在」を意識していない。


私は『ストレンジャー・シングス』という海外ドラマが好きなのだが、ドラマの道中で、脚本家であるダッフィー兄弟の顔を微塵も浮かべていない。


作品に集中している。


 これはつまり、商業展開されるような優れた脚本になればなるほど、「脚本家の魂がこもっているか?」というのは重視されず、魂よりも、作品の世界への深い没入感が求められているのだろう。


端的にいえば、商業展開されるような脚本や作品の場合、脚本家や製作者の『そんざい』は、極限まで薄められていたほうがいい、といった感じだろうか。



(あ、また分かりにくい箇所がある)


※『没入感』とは、ユーザーが作品に集中できているか。その集中を阻害する要素が入っていないかという話だ。製作者の意気込みを浮かべながら触れる、商業的に作成された作品は、そもそも初めから没入感が損なわれている。


 そうなると、人が魂を感じたい作品とは何のことだろう。エッセイや私小説などの「作者を読む文学」とも呼べる作品群だろうか。


まぁ、そんな感じなのだろうな。


とにかく、エッセイを書くのは難しいということだ。



 私はお腹が空いたので、いまから朝ごはんを食べる。昨日は、餃子にわさびを付けると美味しいという発見があった。豚肉の油に、わさびが合う。


ポン酢とかは付けない。

「わさび」だけ付ける。


とても、美味しかった。


 これを読んだ人は、きっと餃子に、わさびが付けたくなる。そして、美味しかろうが、不味かろうが、その結果に、「私」を感じるはずだ。


そうすると、私が書いた「餃子にわさびが合う」という文章には、私のそんざいがこもっていた事になる。


つまり、エッセイや私小説には、読者が作者の体験を追体験できるような仕組みや表現が必要な……(もう、お腹空いた!じゃあね!バイバイ!)



(^ρ^)<餃子にわさびが合うのは本当。

(^ρ^)<もう、餃子はわさび以外で食べない。

(^ρ^)<それくらい美味しかった!



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