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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

毒独

作者: 依頼
掲載日:2026/02/05

Hは聡明な男であった。今でも窓を開ければ、眼を射るような眩しさの中に彼の瞳を垣間見る事が出来る。窓枠の冷気が指先に伝わる一瞬のなかにさえ、時折見えた怜悧さを感じ取ってしまう。気持ちを伏せて腰を落ち着けようとした所で、あの堂々とした立ち振る舞いとの差異を感じて唇を歪ませられる。彼をいたむ日々に身を窶している自分は、きっと全てが計算ずくで予め創造されていたものだと錯覚する。しかし、それが錯覚ではないことに気づくのはもう何度目だろうか。苛立ちを隠せないままに思考を巡らせ、隙間風をシャットアウトして乱暴に過去を観る。彼のことを考えていないとどうにかなってしまいそうだった。


 私は、彼を殺したのだから。


 Hには青色がよく似合った。彼自身は色の無いカンヴァスだと表現していたが、私はとてもそうは思えなかった。やけにページをめくるのが遅い彼の右手は常に震えていた。それでも前のページに戻ることはなく、斜陽が星のない夜になった時でさえ、一心不乱に新たな文字を加えたがった。無色を称しながら無色を嫌う彼の焦燥は、濃い影となって私について回った。


 Hは弁が立った。今でも早口言葉の中に彼を聴くことができ、その度に私は口を噤むのだった。泥濘に対して詭弁を弄するだけの私と違い、主眼を踏みしめてはつま先で少しずつ蹴り飛ばしていくのを気に入っていた。けれどそれも、私が知り得るすべてでしかなかった。断崖に対する登攀技術を彼は持ち得なかった。その手に握るピッケルは確かに重かったが、彼がそれを満足に振るうことはなかった。


 深層を覗くことは躊躇われたし、第一叶うことはなかった。彼からのSOSに生憎気づくことはなかったし、そもそも出していたのかすら定かではない。兎に角、あの夜が私にとっての分岐点、いや通過点であった。


 Hは期待されていた。私なんぞを選ぶのが不可解な程には、彼の周りには何かが居た。淡く澄んだ泉に惹かれた小魚は数多く、かくいう私もその一匹であったと言わざるを得ない。私たちはよく将来について語り合った。過去は互いに不要なものであった。ただ、二人で過ごした現在だけが、過去となって私の眼を彩ることとなった。私たちは不確定なものを好んだ。多くの選択をして、結果を願うことに尽くした。


 Hは努力家であった。彼は前にしか進めなかった。私は彼に止まってほしいと願ったが、到底引力が足りないことに悲嘆した。いつもそこで笑っていることが理解できなかった。眼から雫が溢れていたのを、私は無視するべきではなかったと思った。彼になれない自分を恨めしく思った。こんなにも感情を吐露する自分に審判が必要だった。この憐憫の奥底にある本当を知らないと何も始まらないのだと確信していた。


 だんだんと散逸した思考が戻らなくなっていく。動きを止めていく身体に共鳴するように、分かたれたそれも一定の落ち着きをもって積もっていくのであった。平易なことしか考えられなくなり、脱力とともに栓を抜いた。彼の心象をなぞるたびに、彼がこのことを想定していたのだという錯覚を感じる。否、それが錯覚ではないからこそ私は今こんなにも足掻いているのだということを再認識するたびに、また私は瞼を閉じて掌に食い込む爪を感じるのだ。ふつふつと湧き上がる気泡が、グラスに注ぐたびに弾けていくのを目の内外で見ることが出来た。潤された自分はこの意識が終わることを知っていた。


 Hは愚かであった。彼はペンを他人に明け渡してしまった。自分すら信じられないのに他人を信じ、何かに駆られるのに私は気づかないふりをしたのだと虚飾する。本当は気づきすらしなかった浅ましさにまた閉口し、何もかもを秘めた彼にまた視線を送る。視線を送ることしか出来ないのだった。きっと彼は、自分に向き合うことにわけもなく耐えられず、造花であろうと努めていたのだろう。なんとみじめな結果を残してくれたものだ。


 Hを言い表すことが出来なかった。どんな言葉も、私が彼に抱いた感情を表現するには不適当に思えた。あの大罪人は私の深くまですくい、一度でさえ消えることはないのだった。彼は行き場を失った兎であった。私は……、私のことはどうでも良い。彼は最後の最後まで主体性を失っていた。私に頼んだことだけがただ一つの我儘であった。満足そうに眼を閉じるその姿は、眼前に煌めく刃を映してはいなかった。彼は自分が世界に残らないことを恐怖していた。私は彼を残し続けると誓った。彼の安堵が冷めやらぬうちに、私は彼を染め上げた。本心でそう言い続けられる時間には限界があると知っていたからだ。

 

 記憶はやがて和らいで、温かさとなってはいずれ消えていく。私は自らに与えた役割が果たせないと確信した瞬間、どうしようもない怯懦に拍動を感じていた。この冷たさも、痛みも、総てを残しておくことは叶わないのだった。すべてをつなぎ留めて絶対零度の地に行かなくてはならなかった。そうして彼に私を重ねた瞬間、同様に私を動かす選択肢は一つであった。人は二度死ぬ。彼に二度目の死を与えてはいけないと思った。観測者を固定する必要があった。これ以上彼に対する認識が歪むのを一秒たりとも許すことはできなかった。


 早急に私の世界を終わらせないといけなかった。じっとりと汗ばんだ身を起こすと、何故か崩れてもとに仕舞われた。焦燥の中で、自分が既に命を絶とうとしていたことを思い出した。死の雫が意識を引き裂き、暗闇へと突き落とされる刹那に突き刺された。私は自分が正解をすでに導き出したことに気づき、笑った。心臓が乱高下するのに合わせて、必死に手を振ってアンコールを繰り返す。繰り返されるフラッシュバックの中に、彼の複雑な表情が目に入った。すべては思い過ごしだった。彼は死に、私も死ぬ。それこそが私たちに必要な結果だった。それに十分満足し、私は抵抗しなかった。


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