第4話
目覚めは緩やかだった。
小さな点が徐々に大きな円になっていくような、そういう緩やかな感覚があった。
そして、本当にいつもと同じ目覚めだった。
心地よくも、少し気だるい。意識にもやがかかったまま、身体を起こす。
最初の違和感は身体の軽さだった。いつもなら両手を使って起き上がらないと身体を起こせないのに、腹の力だけで身体を起こすことが出来た。そこまでたくましい腹筋を持っていた覚えは無いので、いつの間に自分の身体は進化したのだろうかと疑問に思う。
次の違和感は寝具だ。高級なものではないにしても、それなりに肌触りの良い布団で寝ていたはずなのに、肌に触れているのはゴワゴワした布団だった。なんなら、寝ている間に肌が擦り切れてしまうのではと思うほどに、ざらざらした肌触りだった。一度気になると違和感が止まらなくなり、布団から飛び出る。
寝ていたのはベッドの上だった。想像よりも床までの距離があったようで、着地の際にバランスを崩して両手を床につく。
「両手……?」
あって当然のはずなのに、手がある事が非常に素晴らしい事に思えた。しみじみと両手を眺めていると、更なる違和感に気付く。
「手が小さい」
自分の手よりも一回り小さいような……。それこそ子供の手のようだった。手のひらに対して指が短く、ずんぐりとした風貌だ。
「足も小さいし……、”アレ”が無い!!」
そこでようやく、色々な違和感に気付く。身体のパーツは全部小さいし、甲高い声が出る。髪は肩ほどまで伸びていて、股間にはあるべきものが無かった。つまり、自分の身体が女児のものになっているのだ。
今いる場所も分からなかった。
部屋は広く、たくさんのベッドが並べられている。自分がたった今這い出てきたベッドを除いて、ほぼ全てのベッドで子供が眠っていた。部屋の中は暗く、窓から入って来る月光だけが部屋の中を照らしていた。
見覚えの無い部屋、知らない子供たち、自分は女体になっている。全ての事象が、自分の事を混乱させようとしている。
髪の毛をかき回しながら放心していると、背後から声を掛けられる。
「---?」
なんと言っているか聞き取れなかった。というよりも、聴き馴染みの無い言葉だった。急いで振り向くと、男の子が眠そうに目をこすりながらこちらを見ていた。金髪で、子供ながらに掘りの深い顔をしている。日本人では無さそうだ。
こちらが何も喋らないので、男の子はもう一度喋りかけてくる。
「What are you doing?」
完璧な英語だった。ネイティブらしい発音に面食らってしまい、自分の置かれている状況の把握よりも、英会話をしないといけない状況に慌ててしまう。
先ほどまでの奇行を誤魔化すための言葉は素早く出てきた。
「ナッシング!」
どうにか伝わったのか、男の子は首をかしげてから彼自身のベッドの方へと歩いて行った。
「Don't wet your bed~」
英語が全く分からないわけでは無かったので、小馬鹿にされたのは分かったが、気にしない事にした。
これ以上目立たないように、自分のベッドに潜り込んだ。
状況を整理する必要がある。
自分の身体が女児になってしまったのは何故か。
これについては予想を立てるのも難しかった。こうなる原因があるはずだが、現状、正解を導き出すことは出来なさそうだ。
ここはどこなのか。
これも分からない。そもそも、今まではどこにいたんだ?
思い出そうとしても、取り留めのない記憶が噴出して肝心な部分を思い起こす事が難しかった。仕事の事や、家族の事、利香や龍介の事を思い返す。
「……龍介?」
何故か龍介について思い返すと頭が重くなった。記憶に蓋がされている感覚があり、ここに答えがある気がした。
龍介とは暫く会っていなかったはずなのに、強烈な印象が浮かんでくる。そもそも本当に疎遠だったのか?どこかで会っていたんじゃないか?
「あ!」
最近、龍介と会ったことを思い出した。ごく最近だったはずだ。
オフィスビル内のレストランで食事をして、その後、龍介の会社に寄ったのだ。急ぐように会社に向かう龍介の背中を見て、こんな奴だったかと困惑した気がする。会社に行ったのは、龍介が俺に見せたいものがあると言ったからだった。
龍介の顔を思い出そうとするが、思い出そうとすると両手のひらに強烈な痛みを感じた。慌てて自分の両手を見るが、外傷は見当たらない。それに、龍介の顔を思い浮かべても、何かに遮られている状態でイメージが湧いてきて、龍介の顔をしっかりと思い浮かべる事は出来ない。
龍介が俺に見せたかったのは何だったのか。
何も見せて貰っていない気がした。もちろん、記憶が定かではないのは事実だが、何かを見せてもらったという事はないはずだ。その代わりに、強烈な出来事を経験したような気がする。
すると突然、龍介が自分に見舞ってきた理不尽な暴力を思い出した。両手の激痛も同時に思い出して、思わず絶叫を上げそうになる。
しかし、何とか声は押し殺す事が出来た。他の子供たちを起こさないためでもあったが、一番の要因は他にあった。
死の恐怖を思い出したのだ。
あの時、死はあっさりとしたものに感じた。
普通に生きていて、あそこまでの恐怖は想像する事も難しい。だからこそ、死を感じても、あまりの恐怖に”驚く”気持ちが大きく、また恐怖を感じる時間も一瞬だった。そのため、確かに怖くはあったが、それを受け流す事が出来た。
しかし、今はどうだろうか。
しっかり死んだ後に生き返ってしまったせいで、死の恐怖を咀嚼できる身体になってしまった。何もかもが無になる感覚。無に、身体や精神がズルズルと引っ張られていく感覚。そういうザラザラとした不快感が全身を這いまわっていた。
最近の記憶が無くなっていた理由が分かった。この感覚に耐えきれなくて記憶を封じていたのだ。
記憶が封じられている間に、死んだ瞬間は過去の物になり、徐々に恐怖は薄まった。そのおかげで、死の恐怖を思い出しても正気を保っていられるのだ。
永遠にも思える長い一瞬をどうにか耐えきる。
気持ちが落ち着くまで耐えていると、どうしようも無い恐怖感は遠くにいっていた。遠くにいっただけで、完全に居なくなったわけでは無いが、日常生活を遅れる程度には気分が良くなっていた。
同時に強烈な睡魔が襲ってきて、意識はすぐに夢の世界へと飛ばされていった。
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目覚めから10日が経過した。10日間で本当に色々な出来事があった。
10日間かけたにしては、集まった情報が少ない気もするが、それはしょうがない事だと割り切る事にする。英語が何となく聞き取れても、全てを理解する事が出来なかった。
まず最初に、今いる場所の名前が分かった。”テレンキー”というらしい。もちろん、英語の発音をそのままカタカナに落とし込んだだけなので、本当に”テレンキー”と言っているのか分からない。とはいえ、ここはテレンキーだ。
日本の地理も怪しいのに、海外の地名を覚えている訳も無く、テレンキーがどの辺にあるのかはまだ分かっていない。周囲は山に囲われていて、孤児院以外の建物は見つける事が出来ない。太陽が昇って来る方を東、沈む方を西として考えているが、そもそもここが南半球だとしたら、意味の無い考え方である。とはいえ、テレンキーという言葉が西欧諸国の綴りっぽい事と、周りの子供たちが話しているのが英語なので、北半球のどこかにいるはずだ。……多分。
次に分かったのは、ここが孤児院だという事だ。orphen だの、親がいないだので泣いている子供を時々見かけたのと、世話役とか、建物から発せられる雰囲気からそう思ったのだ。
幸いな事に、生活レベルは悪くない。それなりに清潔な寝具に、清潔な衣服、子供には十分すぎるぐらいの食事が用意されているので、命の心配はしなくて良さそうだ。
集団生活を余儀なくされるし、子供たちの金切り声を聞いていると頭がおかしくなりそうになるが、前後不覚の身としては恵まれた環境にいると思う。
しかし、旧世代的な道具や慣習が残っているのにはこたえた。
トイレは汲み取り式で猛烈に臭い。掃除も自分たちでするので、最初に担当が回って来た時はあまりの臭さに失神しそうだった。掃除した汚物は、近所の農場で使用するとかで、農場の作業員が回収しにくるのだが、何と”馬車”でやって来るのだ。
車で来た方が楽なはずなのに、このご時世に馬車でやって来るのだから驚きだ。
ここには電気も無い。部屋を照らす明かりは蝋燭の火だ。その蝋燭すらも贅沢品のようで、太陽が沈んだら就寝する生活を送っていた。ガスも来ていないように見える。炊事場の手伝いをした時は、薪を使って調理用の火を確保していた。
孤児院が辺鄙な場所にあるので、電気やガスを引いてくるのが大変なのかもしれない。しかし、そんな場所に孤児院を建てるのだろうか?
結局、食料は近隣の町から運んでくる必要があるし、衣服やその他の生活必需品についても街から運んできているように見える。その手間を惜しまないのに、電気とガスは最初から使用することを諦めているようだ。
だが、何よりも不可解な所は、自分の持っている知識が一つも通用しないという事だ。
誰でも知っていそうな国、アメリカや中国、ロシアや日本といった名前を列挙しても、それを知っている人間がいないのだ。子供たちはともかく、初老の世話係に聞いても知らないようだった。
そんな事が有り得るのか?
スマートフォンもPCもインターネットも知らないようだった。自分の知らない世界にやって来たようだ。
これまでに得られた知識から、ここがどういう場所なのか推測してみた。
一つ目の可能性は、カルト教団が経営している孤児院だということ。何が理由か分からないが、子供たちに現代知識が付かないようにしているとか。もしかして、人身売買系の施設なんじゃないかと想像してみる。
二つ目の可能性は、ここが過去の世界だということ。今の生活レベルとか、周りの知識レベルからそう推測してみた。割と納得感のある仮説だったが、それにしても、イギリスやフランスすら知らないのには疑問が残る。
三つ目の可能性は、本当にお遊びで考えた仮説だ。そんな事有り得ないと思うし、自分でもただの妄想だと考えている。その仮説とは、ここが”異世界”であるということ。つまり、漫画やゲームで言うところのファンタジーの世界だという考え方だ。
自分の持つ知識が何一つ通じないのは、それが理由だとする。地名は違っていて当然だし、生活レベルのちぐはぐ感もそれで説明ができるはずだ。しかし、異世界と考えると説明できない事が二つあった。それが理由で、ここが異世界だと思う事が出来ていない。
一つは、星だ。
星座に詳しい訳では無いが、オリオン座とか、北斗七星といったメジャーな星座なら見分ける事が出来る。気のせいじゃなければ、そういった星座を拝む事が出来た。何も知らない世界で自分が知っている星を見られる事が、これほど安心出来る事だとは思わなかった。
太陽は太陽にしか見えないし、月は月にしか見えない。自分がいる場所は地球なのだという感覚は日ごとに増している。ただ、異世界だから星の見え方が違うという考え方は不合理かもしれないとも思う。ここが異世界じゃないと思ってしまう理由は次に挙げる点が一番大きい。
それは、英語という言語が使われているという事だ。
違う世界で、全く同一の言語が形成される確立はほとんどゼロになるはずだ。細かい文法や、名詞、文字や綴りまで一致する事が自然だとは思えない。たまたま同じになったと考えるより、ここが地球のどこかだと考える方が理に適っている。
という訳で、今までの自分は、ここが地球のどこかだと思っていた。異世界なんかではなく、地球のどこかだと。
過去形で語っているのは、目の前で信じられない出来事が起こったからだ。地球の常識では考えられない事が起きたせいで、仮説が全て壊されてしまった。