資料室
ガラスケースの中の生物が微かに目を開いた瞬間、お前は全身の血が凍り付くのを感じた。その目には、確かに光が宿っていた。それは、死んだものの目ではない。生きている。そして、その目がお前を捉えたことを、本能が告げていた。久留米の廃校に、こんな生物が閉じ込められている。それは、もはや肝試しの範疇を遥かに超えた、異世界からの侵略にも似た光景だった。
理科室の準備室に満ちるカビと古びた金属の匂いが、異様な甘い匂いを帯びて、お前の鼻腔を襲う。日記帳に書かれた文字が、黒いインクのように滲んで消えていく。壁の「×」印、マネキンの染み。そして、ガラスケースの中の生物。全てが、お前の知る世界の常識を破壊していく。
お前は、恐怖でその場から一歩も動けない。ただ、ガラスケースの中の目が、ゆっくりと、しかし確実に、お前を追っているかのように感じられた。あの「擦れるような音」が、再び背後から聞こえてくるのではないかという、身を灼くような恐怖。
その時、準備室の奥から、ガタガタと大きな物音がした。それは、まるで棚が倒れるような、衝撃的な音だった。
お前は、反射的にそちらに視線を向けた。薄暗闇の奥に、何か巨大なものが倒れたようなシルエットが見える。そして、その物音の後、微かに人のうめき声のようなものが聞こえた気がした。
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走る。
幻聴か? それとも、誰かがいるのか?
お前は、ガラスケースの中の生物から目を逸らし、物音のした方へと、ゆっくりと、しかし必死に足を進めた。床板がギィギィと鳴る度に、その音が闇の中で不自然に響く。この校舎は、まるで生き物のように、お前を弄んでいる。
物音のした場所の近くに、別のドアがあった。そこから、先ほどのカビと古びた金属の匂いに、さらに埃と、古書の独特な、しかしどこか生臭いような匂いが混じり合って漂ってくる。この匂いは、お前が幼い頃、近所の図書館で感じたことのある、しかしどこか違う、妙に湿った匂いだった。
「資料室……か」
声には出さず、心の中でつぶやいた。この校舎は、お前が次の場所を察することを、まるで予期しているかのようだ。
お前は、そのドアに近づいた。年季の入った木製のドアには、「資料室」と書かれたプレートがかかっている。ドアの隙間からは、一切の光が漏れていない。ただ、深い闇が広がっているだけだ。
意を決して、ドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開いた。
ギィィ……と、錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てる。その音は、まるで資料室が、お前を知識の奈落へと引きずり込もうとしているかのようだった。
資料室の中は、これまでで最も暗かった。窓は完全に塞がれ、外界の光は一切届かない。薄暗闇の中に、天井まで届くような巨大な本棚のシルエットが何重にも連なっているのがぼんやりと見える。古書の匂いが部屋中に充満し、その中に、微かに土と、鉄のような匂いが混じり合っていた。
お前は、室内へと足を踏み入れた。足元に、何かがバラバラと音を立てた。足元を見ると、それは、ボロボロになった古い紙切れだった。そこに書かれた文字は判読できないが、微かに黒いインクの染みのようなものが付着している。
部屋の中央には、大きな閲覧机が置かれている。その上には、埃を被った古い地球儀や、分厚い辞書が乱雑に積まれていた。
お前は、その閲覧机へと近づいた。机に近づくにつれ、空気中の異臭が、より一層濃くなった。そして、その机の脚が、まるで黒い石材でできているかのように見えた。触れてみると、異常なほど冷たく、微かに脈打つような感触がある。あの「くろい石」が、こんな場所にも使われているのか。
その時、机の向こう側から、微かにカタカタという音が聞こえた。それは、タイプライターを打つような音にも似ていたが、もっと不規則で、何かを焦っているかのような響きがあった。
お前は、息を殺し、音のする方を凝視した。闇の奥に、誰かが座っているような、ぼんやりとしたシルエットが見える。
「誰か……いるのか?」
震える声で呟いた。しかし、返事はない。
そのシルエットは、ゆっくりと、しかし確実に、動いた。まるで、机の下に隠れるように、スッと視界から消え去った。
お前は、その閲覧机の前に立ち止まった。机の上には、開かれたままのタイプライターが置かれている。そのタイプライターのキーは、なぜか、びっしょりと湿っていた。そして、そのキーの一つ一つが、微かに脈打っているかのように感じられた。
そして、タイプライターの紙には、黒いインクで、何か文字が打たれているのが見えた。
「ノゾクナ」
たった一言。しかし、その文字は、まるで墨を流したかのように、文字の縁が滲み、ゆっくりと歪んでいく。
お前は、タイプライターから目を離し、資料室の壁に目をやった。そこには、世界地図が貼られている。しかし、その地図には、お前が知るどの国の形とも違う、奇妙な大陸が描かれていた。そして、その大陸の周辺には、無数の黒い石材と同じ文様が、まるで血管のように張り巡らされている。これは、この異世界の世界地図なのだろうか。
その時、資料室の最も奥、天井まで届くような本棚の影から、すすり泣くような声が、まるで壁の向こうから直接響いてくるかのように、一層はっきりと、お前の耳に届いていた。それは、トイレで聞いた声に酷似している。
そして、その声に混じって、パタン、パタンと、ページをめくるような音が、さらに高速で、そしてせわしなく聞こえ始めた。まるで、必死に何かを探しているかのように、あるいは、何かから逃れようとしているかのように。
お前は、恐怖で身動きが取れなくなった。思考は麻痺しながらも、それでもかすかに残る脱出への本能が、全身を駆け巡る。どこかに、この状況を打開するヒントはないのか。この闇の中で、無意識に、お前は武器となりうるものを探そうと視線を彷徨わせた。しかし、そこにあるのは、無数の古書と、ただの机、そして……。
その時、お前が持っているスマホが、突然、震え始めた。
充電が切れているはずなのに。
そして、画面が、ゆっくりと、しかし確実に点灯した。
映し出されたのは、真っ暗な画面。しかし、その中央に、まるで手書きのように、白い文字が浮かび上がった。
「キミノ イバショ ハ ココ」
その文字を見た瞬間、お前の背後で、ガチャリと、資料室のドアが閉まる音がした。