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準備室

 第8章 準備室

 美術室の絵画に走る亀裂の音、パキリ、パキリという乾いた響きが、お前の鼓膜を直接叩いた。無数の目玉が描かれたキャンバスが、まるで生き物のように内側から破壊されていく光景は、理性では理解できない恐怖だった。心臓は爆音を立て、呼吸は最早まともな形を成さない。シーツの動き、カルテの真実、そして今目の前で崩れゆく絵画。久留米の、ごく普通の学校で、一体何が起きているのか。

 お前は、恐怖で硬直したまま、絵画から目を離すことができなかった。絵の具の甘く焼けるような匂いが、一層鼻腔を刺激する。そして、その匂いの中に、微かに土の匂いが混じる。壁の「×」印、マネキンの胸元の染み。それら全てが、この美術室の異常性を物語っていた。

 パキィン!

 鋭い音と共に、キャンバスの中心部分が大きく剥がれ落ちた。そこから覗いたのは、漆黒の闇。だが、その闇の奥から、無数の視線を感じた。それは、絵画に描かれた目玉とは違う、生々しい、そして凍てつくような視線だ。

 お前は、反射的に後ずさった。足元の絵筆がカラン、と音を立てて転がる。その音に、ハッとした。逃げなければ。

 理科室から美術室、そして保健室へと導かれたように、お前は無意識に次の扉を探した。美術室の奥に、小さなドアが見える。そこから、わずかにカビと、古びた金属のような、どこか薬品のような匂いが漂っていた。この匂いは、これまでどこかで感じたような気がする。デジャヴュ。しかし、それがどこだったのか、思い出せない。

 お前は、その小さなドアへと足を進めた。床板がギィ、と不気味な音を立てる度に、あの「擦れるような音」が背後から聞こえてくるのではないかという恐怖に駆られるが、今は振り返る余裕もない。

 ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開く。

 ギィィ……と、錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てた。その奥に広がっていたのは、準備室だった。

 美術室の隣にある、雑然とした空間。薄暗闇の中に、埃を被った石膏像、使い古されたパレット、そして、見たこともない奇妙な形状の機械が乱雑に置かれている。空気は重く、ひんやりとしていて、カビと古びた金属の匂いが、より一層濃く鼻腔を刺激する。微かに、土の匂いも混じっている。この匂い、やはりどこかで……。

 お前は、室内へと足を踏み入れた。足元に、何かがゴトリと音を立てて転がる。見ると、それは、ガラス製の目玉だった。美術室の絵画から剥がれ落ちたものだろうか。しかし、その目玉は、奇妙なことに微かに発光しているように見えた。

 部屋の隅に、大きなガラスケースが置かれているのが見えた。薄暗闇の中でも、その中に何かがあるのが分かる。それは、まるで、生き物の標本のようだった。

 お前は、吸い寄せられるように、そのガラスケースへと近づいた。一歩進むたびに、床板がギィ、と不気味な音を立てる。その音に混じって、ガラスケースの中から、微かに液体が揺れるような音が聞こえた気がした。チャプン、チャプンと、まるで中で何かが生きているかのように。

 ガラスケースに近づくにつれて、ホルマリンと血の混じった匂いの奥に、微かな生命の甘い匂いが、一層強くなる。それは、理科室で感じた薬品のような匂いと、保健室で感じた血の匂いが混じり合ったような、形容しがたい異臭だった。

 そして、ガラスケースの中を覗き込んだ瞬間、お前は息を呑んだ。

 そこにいたのは、この世界では見たことのない、奇妙な生物の標本だった。その生物は、全体的に灰色がかった滑らかな皮膚を持ち、しかし、その体には無数の黒い石材と同じ文様が、まるで血管のように薄く浮き彫りになって刻まれ、節々からは磨かれた金属のような光沢を放つ、四角い電子機器のようなものが無骨に露出している。体液に満たされたケースの中で、その生物は目を閉じて横たわっているが、その体からは、かすかに脈動が伝わってくるかのように感じられた。死んでいるのか、生きているのか、判別できない。これは、この世界独特の動植物の一つなのだろうか。しかし、その姿は、あまりにも異様で、お前が知るいかなる生物とも似ていなかった。

 その生物の胸元には、小さな液晶ディスプレイが埋め込まれている。薄暗闇の中でも、そのディスプレイに、かすかに文字のようなものが表示されているのが見て取れた。それは、この世界の人々が普段使っている機械の一つなのだろうか。しかし、その文字は、お前の知る言語とは全く異なる、奇妙な記号の羅列だった。そして、そのディスプレイから、ノイズのような不規則な、しかしどこか圧迫感のある低い電子音が聞こえてくる。

 その時、お前は、背後から冷たい吐息を感じた。

 ゾクリ、と背筋に冷たいものが走る。振り返る。

 そこには、何も見えない。だが、その吐息は、あまりにも近く、生々しかった。

 耳の奥で、微かに囁き声が聞こえる。それは、先ほど美術室で聞いた声と同じだ。だが、今回は、その声が、お前の頭の中に直接響いてくるかのように、鮮明だった。内容は理解できない。しかし、その声は、お前を「招待」しているかのようにも聞こえた。

 そして、お前は気づいた。

 部屋の奥に置かれた、埃を被った古びた机。その上に、一冊の開かれた日記帳が置かれているのが見えた。

 お前は、その日記帳へと引き寄せられるように近づいた。机に近づくにつれ、空気中の異臭が、より一層濃くなった。そして、その机の脚が、まるで黒い石材でできているかのように見えた。触れてみると、異常なほど冷たく、微かに脈打つような感触が、直接指先に伝わってくる。その脈動は、お前の心臓の鼓動と、わずかにずれているような不快な響きを伴っていた。あの「くろい石」が、こんな場所にも使われているのか。

 その日記帳の開かれたページには、走り書きされた文字が並んでいる。その文字は、美術室で見た「観察記録」の文字に酷似している。そして、その日記帳の隅に、一枚の古い写真が挟まっているのに気づいた。

 それは、白黒写真で、保健室のカルテに書かれていた「あなた」の症状と酷似する、苦しげな表情をした人物が写っていた。しかし、その人物の顔は、なぜか部分的にぼやけていて、判別できない。まるで、鏡の中の女性の顔と、お前の顔が重なったように。そして、その写真の背景には、遠くでかすかに、校舎の正面廊下が写り込んでいるのが見えた。

 その写真を見た瞬間、お前は全身に、ぞわりと悪寒が走った。それは、まるで「第1章」の光景が、全く異なる場所で再現されているかのようなデジャヴュだった。しかし、今回は、そこに「誰か」がいる。そして、その写真の人物の顔が、一瞬だけ、鏡に映った「別の顔」に変わったような錯覚に陥った。まさか。あのカルテに記された症状は、全て、この「自分ではない何か」が引き起こしているのか? もしかしたら、自分はもう、自分ではないのかもしれない——そんな、恐ろしい疑念が、お前の心をよぎった。

 そして、その日記帳の文字が、まるで黒いインクがにじむように、ゆっくりと消えていくのが見えた。

 その時、ガラスケースの中の生物が、微かに目を開いた。


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