美術室
ベッドのシーツが、ゆっくりと盛り上がる。その下には、何かがいる。恐怖で硬直したお前は、もはや呼吸すらまともにできない。心臓は喉元まで飛び出しそうで、全身の皮膚は冷たい汗でべっとりとしていた。この保健室に、お前自身の症状が記されたカルテがあるという、信じがたい現実。久留米の、ごく普通の廃校で、こんなことが起こっている。
シーツの動きが、ぴたりと止まる。
そして、保健室全体が、まるで深く息を吐き出すかのように、空気が重く、そして甘く、ねっとりとした匂いに満たされた。それは、血の匂いと、腐敗寸前の花のような、形容しがたい混じり合った匂いだった。
お前は、その場から一歩後ずさった。恐怖と、この場に漂う異様な空気に、頭がくらくらする。カルテを握りしめた手が、小刻みに震えている。
もう、ここにはいられない。そう強く思った。
お前は、保健室のドアへと向かった。ギィギィと鳴る床板を踏みしめながら、一歩一歩、その甘く重い空気から逃れようと必死だった。ドアノブに手をかけ、一気に引き開ける。
廊下に出ると、先ほどの甘い匂いは薄れ、代わりに微かな埃と、絵の具のような独特の匂いが混じり合っていた。湿気を帯びた空気は変わらず、肌にまとわりつく。廊下の壁に目をやると、これまで何度も内容が変化してきた掲示物が、なぜか真っ白なまま、何も書かれていないことに気づいた。そして、その貼られている位置も、今回は一切ずれていない。予測不能な変化の停止。それは、これまでのデジャヴュとは異なる不気味さを、お前に突きつけた。まるで、この校舎が、お前を弄ぶ形を変えたかのようだった。
廊下をさらに進むと、突き当たりに、また別のドアが見えた。そこから、絵の具の匂いが、一層強く漂ってくる。
「美術室……か」
声には出さず、心の中でつぶやいた。この匂いもまた、この校舎の異様さと結びついているような気がした。
お前は、ゆっくりと、そのドアに近づいた。年季の入った木製のドアには、「美術室」と書かれたプレートがかかっている。ドアの隙間からは、一切の光が漏れていない。ただ、深い闇が広がっているだけだ。
意を決して、ドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開いた。
ギィィ……と、錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てる。その音は、まるで美術室が、お前を新たな悪夢へと誘っているかのようだった。
美術室の中は、廊下よりもさらに暗かった。窓は厚いカーテンで覆われ、外界の光を完全に遮断している。薄暗闇の中に、イーゼルや彫刻、絵画のシルエットがぼんやりと浮かび上がっている。絵の具の乾いた匂いと、微かに粘土のような匂いが混じり合い、そこに、形容しがたい微かな甘い匂いが加わっていた。それは、血の匂いとも、薬品の匂いとも違う、まるで何かが焼けるような、それでいて甘い、奇妙な匂いだった。
お前は、室内へと足を踏み入れた。足元に、何かがカタンと音を立てた。足元を見ると、それは、使い古された絵筆が数本、無造作に転がっていた。その絵筆の毛先が、微かに脈打っているかのように見えた。錯覚か?
ふと、部屋の中央に置かれた、一つのイーゼルに目が留まった。そのイーゼルには、大きなキャンバスが立てかけられている。薄暗闇の中でも、そこに描かれたものが、おぼろげながら見えた。
それは、無数の「目」だった。
ギョロリと見開かれた、様々な形と大きさの目玉が、キャンバス全体を埋め尽くしている。人間の目、動物の目、そして、この世のものではないかのような、奇妙な形状の目まで。その一つ一つが、薄暗闇の中で、鈍く、しかし確実に光を放っているかのように見えた。
お前は、吸い寄せられるように、イーゼルへと近づいた。一歩進むたびに、床板がギィ、と不気味な音を立てる。その音は、まるで、絵画の「目」が、お前を追っているかのような、そんな錯覚に陥らせた。
絵に近づくにつれて、あの甘く焼けるような匂いが、一層強くなる。それは、まるで、この絵が生きているかのように、何かを発しているかのような匂いだった。
そして、その絵画の「目」が、ゆっくりと、一斉に、こちらを向いた。
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走る。幻覚だ、そう自分に言い聞かせようとするが、その動きはあまりにも明確だった。無数の目が、一斉に、お前の存在を認識し、凝視している。
その時、美術室の壁に、お前は奇妙なものを発見した。そこだけ、コンクリートの壁に、大きな「×」印がいくつも、赤黒い塗料で描かれているのだ。それは、まるで血で描かれたかのように、不気味な光沢を放っている。触れてみれば、べっとりとした感触があるかもしれない。そして、その「×」印の周りには、微かに土のような匂いが漂っていた。理科室で感じたあの匂いと同じだ。この「×」印は、何を意味しているのか。封印か、警告か、それとも……。
耳の奥で、微かに囁き声が聞こえる。それは、先ほど保健室で聞いたすすり泣く声とは違う。もっと低く、もっと粘りつくような、意味不明な言葉を紡いでいるような声だ。そして、その声の中に、時折、カチカチという機械音が混じっている。あのトイレで見た、奇妙な機械が発していたような音だ。
お前は、背後から、誰かに見られている感覚に襲われた。
それは、絵画の「目」だけではない。部屋のどこかに、もう一つの、生々しい視線がある。肌が粟立ち、全身の毛が逆立つ。
振り返る。
しかし、そこには、何も見えない。深い闇が広がっているだけだ。だが、その闇の奥から、かすかな吐息が聞こえたような気がした。生温かく、湿った吐息が、お前の首筋を撫でる。
そして、お前は気づいた。
部屋の隅に、一体のマネキンが立っている。他のマネキンは、服を着せられず、ただ突っ立っているだけなのに、その一体だけは、古びた、しかし見覚えのある白い詰襟の学生服を着ているのだ。それは、お前がかつて着ていた、中学校の制服に酷似していた。
マネキンの顔は、無表情だ。しかし、そのマネキンの胸元、ちょうど心臓の位置に、小さな黒い染みができているのが薄暗闇の中で見て取れた。それは、まるで、墨を垂らしたかのように、じわりと広がっている。そして、その染みから、先ほど保健室で感じた甘く、鉄っぽい匂いが、再び漂ってきた。
「これは、一体……」
声にならない言葉が、喉の奥で詰まる。
その時、無数の「目」が描かれた絵画から、パキリ、パキリと、何か硬いものが割れるような音が聞こえ始めた。
絵画のキャンバスが、まるで内側からひび割れるかのように、亀裂が走り始めたのだ。