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保健室

 ノートに書かれた、不確かな文字が消えていくのを見た瞬間、お前は全身の血の気が引くのを感じた。「せんせいは、いなくなっちゃった。あのくろい石のむこうへ。わたしも、いつか、そこにいくの。」その言葉と、あの異常に冷たい黒い石材が、お前の脳裏で結びつく。この校舎には、ただならぬ何かが潜んでいる。久留米の、ごく普通の学校だったはずの場所が、今や全く別の「何か」に変貌しているかのようだ。

 理科室に満ちる酸っぱい空気と、かすかに混じる土の匂いが、まるでその言葉の重みを増幅させるかのようだった。背後で、再び瓶の中の目玉がこちらを凝視しているような、生々しい視線を感じる。だが、もう振り返る勇気はなかった。

 お前は、理科室のドアへと向かった。ギィギィと音を立てる床板を踏みしめながら、一歩一歩、慎重に進む。あの黒い機械も、もう気にする余裕はなかった。ただ、この場所から一刻も早く逃れたい。その一心だった。

 理科室のドアを開け、廊下に出ると、先ほどのツンとした匂いは薄れ、代わりに微かな埃と、妙に甘いような、鉄っぽい匂いが混じり合っていた。湿気を帯びた空気が、肌にまとわりつく。廊下の壁には、古びた掲示物が辛うじて張り付いている。今度は、「みんなで守ろう!清潔な学校」と書かれた標語が貼られている。しかし、その文字のいくつかが、まるで指で擦られたかのように、不自然に消え失せていることに気づいた。そして、その貼られている位置も、なぜか今回だけは、先ほどと全く同じ場所にあるような気がした。まただ。デジャヴュが、お前の精神を確実に蝕んでいく。だが、慣れ親しんだはずの違和感が、今回は妙に収まっていることに、別の不気味さを感じた。

 廊下をさらに進むと、突き当たりに、また別のドアが見えた。そこから、先ほどの甘い、鉄っぽい匂いが、一層強く漂ってくる。

「保健室……か」

 声には出さず、心の中でつぶやいた。この匂いは、まさか。嫌な予感が、お前の胸の奥で渦巻く。

 お前は、ゆっくりと、そのドアに近づいた。年季の入った木製のドアには、「保健室」と書かれたプレートがかかっている。ドアの隙間からは、一切の光が漏れていない。ただ、深い闇が広がっているだけだ。

 意を決して、ドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開いた。

 ギィィ……と、錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てる。その音は、まるでこの保健室が、お前を招き入れているかのように、妙に甘美に響いた。

 保健室の中は、廊下よりもさらに暗かった。窓は厚いカーテンで覆われ、外界の光を完全に遮断している。薄暗闇の中に、ベッドや棚のシルエットがぼんやりと浮かび上がっている。古びたシーツの匂いと、微かに消毒液の匂いが混じり合い、そこに甘く、しかしどこか生々しい血の匂いが加わっていた。その匂いは、理科室の「鉄のような匂い」とも共通する、不気味なものだった。

 お前は、室内へと足を踏み入れた。足元に、何かがカサリと音を立てた。足元を見ると、それは、古い医療器具のパンフレットだった。そのパンフレットの隅には、先ほどトイレで見たような、奇妙な回路のような文様が描かれたマークが印刷されていた。それは、この世界で使われている、特定の機械のメーカーロゴだろうか。この校舎には、確かに、この世界特有の何かが持ち込まれている。

 ふと、部屋の奥に目をやった。そこには、二つのベッドが並んでいる。そのうちの一つ、窓側のベッドに、白いシーツに覆われた何かが横たわっているのが見えた。

 心臓がドクン、ドクン、と激しく脈打つ。呼吸が浅くなる。

 お前は、そのベッドへと吸い寄せられるように、ゆっくりと近づいた。一歩進むたびに、床板がギィ、と不気味な音を立てる。その音は、まるで、ベッドの下から、誰かが覗き込んでいるかのような、そんな錯覚に陥らせた。

 ベッドに近づくにつれて、血の匂いが一層強くなる。そして、ベッドのシーツから、微かに蒸発したような、熱っぽい空気が漂ってくるのを感じた。

 ベッドの脇に立ち止まる。白いシーツは、まるで何かを隠すかのように、ふんわりと盛り上がっている。その下には、何があるのか。人間の形をしているように見える。

 お前は、震える手で、ゆっくりとシーツの端を掴んだ。冷たい、そして、かすかに湿ったシーツの感触。指先が、そのシーツの下にある「何か」の輪郭を捉えようとする。

 その時、ベッドの下から、強い視線を感じた。

 ゾクリ、と背筋に冷たいものが走る。お前は、反射的にシーツから手を離し、ベッドの下を覗き込んだ。

 そこには、何も見えない。深い闇が広がっているだけだ。しかし、確かに、誰かが、お前をじっと見つめているような、そんな凍てつくような視線があった。

 耳の奥で、微かにすすり泣くような声が聞こえた気がした。それは、先ほどトイレで聞いた声と同じだ。いや、もっと近く、もっと生々しく、まるでベッドの下から直接聞こえてくるかのようだった。

 お前は、ベッドから一歩後ずさった。全身の毛が逆立つ。

 ふと、ベッドの脇に置かれた、古びたカルテが目に入った。真っ白な紙に、手書きの文字が並んでいる。患者の名前、症状、処方された薬などが記されているのだろう。

 お前は、そのカルテを手に取った。薄暗闇の中でも、文字が読める。

 だが、そのカルテの最終ページ、患者名の欄に、信じられない文字が書かれていた。

「あなた」

 その文字を見た瞬間、お前の心臓は、まるで止まってしまったかのように感じられた。

 そして、その「あなた」という文字の下に、小さく、しかしはっきりと、日付が書かれていた。

 それは、今日の、そして、未来の日付だった。

 なぜ、ここに「あなた」と書かれているのか。なぜ、未来の日付なのか。

 脳裏に、あのデジャヴュの感覚がよみがえる。掲示物の日付が、未来から過去へと変化する。そして、今、カルテには未来の日付。まるで、この校舎が、お前の過去と未来、そして現在を弄んでいるかのようだ。

 そのカルテが、微かに脈打っているかのように感じられた。紙の表面が、ごくわずかに波打っている。そして、カルテから、微かに血の匂いが漂ってきた。

 お前は、カルテの症状欄に目を凝らした。そこに書かれていたのは、信じられない、お前自身の身体で体験してきた異変だった。

「心臓の異常な鼓動、呼吸困難、全身の冷え、幻聴、幻覚、空間識失調、そして、時間の認識の歪み。」

 それらは、まさに、お前がこの校舎に入ってから体験してきた、全ての症状と一致していた。デジャヴュ、空間の歪み、時間の逆行……これらは全て、この「あなた」という患者の症状として記されているのだ。このカルテは、一体誰のものなのか。なぜ、お前の症状が、ここに記されているのか。

「これは、一体……」

 声にならない言葉が、喉の奥で詰まる。

 その時、ベッドのシーツが、ゆっくりと、自力で動いた。

 まるで、その下に横たわる「何か」が、ゆっくりと体を起こそうとしているかのように、シーツが盛り上がる。

 お前は、恐怖で身動きが取れなくなった。


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