理科室
空間が軋む音と、鏡の中の女性の顔が浮かべた笑みに、お前は全身を硬直させた。心臓が激しく脈打ち、その音が耳の奥で轟く。トイレのドアノブにかけた手は、汗で滑りそうになっていた。久留米の夜は、こんなにも底冷えするのか。背後から冷たい空気が張り付き、肌が粟立つのを感じる。
ゆっくりと、しかし確実に、お前はトイレのドアを開き、廊下へと足を踏み出した。あの奇妙な機械は、もう振り返って確認する気にはなれなかった。デジャヴュの感覚と空間の歪みが、お前の精神を確実に蝕んでいく。廊下の壁に目をやると、先ほどまで「本日、臨時休校」と書かれていたはずの掲示物が、今度は**「学級閉鎖のお知らせ」**という文字に変わっていた。しかも、その文字は、血のような赤黒い色で書かれ、乾ききっていないような、妙な光沢を放っている。触れてみれば、べっとりとした感触があるかもしれないと、反射的に手を引っ込めた。
廊下は、先ほどよりも一層暗く、重苦しい空気が漂っている。湿気を帯びた埃の匂いに、さらにツンとした、しかしどこか甘いような、奇妙な匂いが混じり合っていた。それは、薬品のような、だが薬品だけではない、もっと生物的な、ねっとりとした匂いだった。
「理科室……か」
声には出さず、その匂いから、次の場所を察した。プロットで示された探索場所が、まるで定められた運命のように、お前を導いている。
一歩、また一歩と足を進める。床板がギィギィと鳴る度に、その音が闇の中で不自然に響き、まるで自分の足音ではないかのように感じられた。あの「擦れるような音」が、再び背後から聞こえてくるのではないかという恐怖に、何度も振り返りそうになるが、ぐっと堪えた。振り返れば、また何かがいるような気がしたからだ。
廊下の壁には、古びた石材が使われている部分が散見された。その石は、先ほどの階段で触れたものと同じように、異常なほど冷たく、薄暗闇の中でも奇妙な文様が刻まれているのが見て取れた。久留米の校舎に、こんな石が使われているはずがない。それが、この場所の「異世界性」を、じわりと体感させてくる。
やがて、廊下の先に、わずかに開いたドアが見えた。そこから、先ほどのツンとした甘い匂いが、一層強く漂ってくる。
お前は、そのドアの前に立ち止まった。年季の入った木製のドアには、「理科室」と書かれたプレートがかかっている。ドアの隙間から、中は全く見えない。ただ、深い闇が広がっているだけだ。
ゆっくりと、お前はドアを押し開いた。
ギィィ……と、錆びた蝶番が耳障りな音を立てる。その音は、まるでこの理科室が、お前の侵入を拒んでいるかのようだった。
理科室の中は、廊下よりもさらに暗かった。窓から差し込む光はほとんどなく、薄暗闇の中に、実験台や薬品棚のシルエットがぼんやりと浮かび上がっている。ガラスの擦れるような音、化学薬品特有の刺激臭、そして、微かに酸っぱい空気が、お前の鼻腔を支配する。
その中で、一番目を引いたのは、実験台の上に整然と並べられた、無数の瓶だった。薬品の入った瓶だろうか。しかし、その中には、液体だけでなく、奇妙なものが浮かんでいるように見えた。
お前は、吸い寄せられるように、実験台へと近づいた。足元に、何かがカラン、と転がる音がした。足元を見ると、それは、古いフラスコの破片だった。その破片が、微かに脈打っているかのように見えた。
手探りで、一番手前の瓶に手を伸ばす。薄暗闇の中でも、その瓶の中の異物がはっきりと見えた。
それは、目玉だった。
ギョロリと見開かれた瞳が、瓶の中で鈍く光っている。複数の目玉が、様々な方向を向いて、お前を凝視しているかのようだった。目玉の数は、一つの瓶に一つではない。まるで、大量の目玉を寄せ集めたかのように、何十個もの目玉が瓶の中に詰め込まれている。その一つ一つが、薄い膜に覆われ、液体の底に沈んでいる。
お前は、思わず息を呑んだ。胃の奥から、こみ上げてくるような吐き気を覚える。その目玉からは、微かに生臭いような、腐敗臭が漂っていた。この校舎のどこかで、生き物が死に、その残滓がここに集められているかのような、そんな嫌な想像が頭をよぎる。
その時、お前の背後で、コツンと、何かが落ちる音がした。
振り返ると、何も見えない。
しかし、実験台の上に、先ほどまでなかったはずの、一冊のノートが置かれていることに気づいた。表紙は黒ずみ、薄暗闇の中でも「観察記録」と読める。それは、さっき、トイレで見た掲示物と同じように、少しだけ位置がずれているように見えた。まるで、校舎が、お前が見るたびに、物体の配置を微妙に変えているかのようだ。
お前は、そのノートに手を伸ばした。冷たく、湿った紙の感触。ページを開くと、かすかに薬品のような匂いがした。ノートの中は、走り書きされた文字と、奇妙な図形が描かれている。それは、人体解剖図のようでもあり、あるいは、未知の生物の生態を記したもののようにも見えた。文字は判読できないが、その中に、時折、お前の視界を揺らすような、黒い墨のような染みが散見された。
そのノートの隅に、一枚の古い写真が挟まっているのに気づいた。それは、白黒写真で、古びた機械が写っている。まるで、蓄音機のような、あるいは初期のコンピュータのような、見たことのない形状の機械だった。その機械のそばには、白い服を着た何人かの人物が立っているが、彼らの顔もまた、トイレの写真のようにぼやけていて、判別できない。しかし、その機械が放つような、微かな電子音と、どこか不気味な脈動が、写真から伝わってくるかのように感じられた。これは、プロットに示されていた「人々が普段どのような機械を使い、それがどのように生活に影響しているのか」という情報の一部なのだろうか。しかし、これが何に使われていたのか、まるで想像がつかない。
その時、理科室の奥から、微かにガタガタと物が揺れる音が聞こえた。まるで、誰かが薬品棚を漁っているかのような、不規則な音だ。
お前は、息を殺し、音のする方を凝視した。闇の奥に、何か動く影が見えたような気がした。しかし、それは、すぐに闇に溶け込んだ。
その代わりに、実験台の奥に、まるで誰かが座っていたかのような机があるのに気づいた。他の実験台は整然としているのに、そこだけが、椅子がわずかに引き出され、使いかけの実験器具がそのままになっている。そして、その机の上には、一冊の開かれたノートと、一本の古びた万年筆が置かれていた。
お前は、その机へと引き寄せられるように近づいた。その机に近づくにつれ、空気中の酸っぱい匂いが、より一層濃くなった。そして、その匂いの中に、かすかに、微かな土の匂いが混じり合っていることに気づいた。まるで、この机の下に、土が持ち込まれたかのようだ。
そのノートの開かれたページには、まるで子供が書いたかのような、不確かな文字でこう書かれていた。
「せんせいは、いなくなっちゃった。あのくろい石のむこうへ。わたしも、いつか、そこにいくの。」
その文字を見た瞬間、お前の全身に、ぞわりと悪寒が走った。そして、そのノートの文字が、まるで黒いインクがにじむように、ゆっくりと消えていくのが見えた。